閑話

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閑話

 溢れ出るほど止めどなく注がれても、時間が経てば経つだけ干乾びていくし足りなくなる。そういうふしだらな欲深さを自分も兼ね備えているのだと目の当たりにしたのは、丁度五条さんの来訪も連絡もぱったり途絶えて一ヶ月近くが過ぎ去ろうかという頃合いだった。
 その間、記録的な豪雨が続いた週にも顔を出さなかったし、着信もメッセージも届く気配がなかった。勇気を振り絞って電話を掛けてみても繋がらない。神経を逆撫でしかねない女性のアナウンスが、電波に乗って流れるだけだった。
 五条さんの肩書きが極普通の一般市民だったなら、俗悪で最悪な可能性を視野に入れて喚き散らしていただろう。ヤリ捨てされたと枕を濡らした夜があったかもしれない。そうなる前に、彼の本業を思い起こしたから背中に悪寒が走った。私は呪術の世界から離れられても、五条さんはそうじゃない。部屋を訪ねるときの明朗な笑顔とは違う、呪霊を祓って呪詛師を殺める、そんな鋭利に研がれた顔もある筈だ。どちらを表の顔とするか裏の顔とするかはさておき……と言うよりどうでも良くて。脳内に一抹の不安が去来してしまうと、もうそれ以外の脳天気な可能性を享受できなくなっていた。まさか、あの五条さんが誰かに敗れる筈ない。そう強く思う反面、嫌な胸騒ぎがして不安は増幅するばかりだった。
 結局、心配が頭から抜けきらなくて、幾度も無意味な夜を明かした。意を決して行動に出たのは、五条さんと顔を合わせなくなってから何度目かに迎える、雨降る夜だった。
『五条なら長期出張中だよ。行き先は……どこだっけ。南米あたりだったか。携帯壊してあっちの呪術連にお世話になってるってさ』
 思わず涙混じりの、深い安堵の溜め息を吐きそうになった。淡々と告げた事実に『笑い物だろう?』と付言した硝子さんは、電話越しでも声に違わないアンニュイな美貌を浮かび上がらせる。そうですねと同意して、私も唇を緩ませた。
 硝子さんとは高専を辞めた後も度々会っていて、年に数回飲みに誘って貰っていた。呪術の世界に浸かっている以上、どの立場どの分野であっても疲労は絶えないのだろう。年々色濃くなってゆく隈と増えるお酒の量が確たる証拠だった。今日も繁忙期じゃないとは言え、健康的な労働を熟したとは到底思えない声色をしている。用件は済んだことだし、今度予定と体調が合いそうな日に飲みに行きたいとだけ伝えてみようかと思案していたときだ。
『野暮なこと訊くけど、五条とよろしくやってるのか』
 肩に挟んでいた携帯がすっぽ抜けて地面に叩き付けられるかと思った。慌てて携帯を持ち直す。驚愕のあまり言葉を失って、酸素を失った魚よろしく唇をわななかせた。その不自然な沈黙を肯定だと捉えられたらしい。硝子さんの呆れたような微かな吐息が耳朶に触れた。
『五条が分かりやすいからな。浮かない顔より浮かれた顔が多くなったし、あと何かの話のときに呼びしたから』
「……」
「生意気言ってた頃は呼びだっただろ」
 的確に言い当てられて、その上理由まで提示されては何も言い返せない。完全敗北を喫してしまった。そもそも肯定も否定もしようがないというか、私が差し出せる答えはないに等しかった。五条さんがこの関係をどう捉えているのか分からないし、同じ気持ちで事に及んでいるとも限らない。私の思い上がりで一方通行かもしれない。不穏な可能性ばかりを思い描いてしまう悪い性分だと自覚はあるけど、私からこの関係に名前を付けることはできそうになかった。
「この前、偶々会って……。それからよくして貰ってるだけ、です」
『偶々ね……。まあ、五条は良くも悪くも昔からのこと気に掛けてたからな』
「五条さんが?」
 まるで知らない事実を開示されて、食い気味に尋ねてしまう。はっとして口を噤むも後悔先に立たず。硝子さんの弧を描く美しい唇が目に浮かぶようだ。慌てて弁明を図ろうとしたけど、先に電話口から流れる声の方が早かった。在りし日の記憶をなぞるような硝子さんのゆったりした声が、昔日の甘くてほろ苦い感情を引き出そうとする。
は五条のこと知ろうとしないし、五条は自分のこと喋る奴じゃないし……まあ、他人に突っ掛かるときは人一倍煩いけど。つくづくすれ違うな、昔から』
 客観的な意見とは思えないほど正鵠を射た発言に、私は人知れず身震いした。勘が良いというか、目の付け所が良いひとだ。確かに五条さんのことを知りたいと願うだけで知るために行動に移したことは然程ない。そして彼も、自分のことを手ずから話すひとではない。すれ違う以前に、絶妙に噛み合っていないのだ。ふたりの距離が縮まっても心の隙間が埋まらないまま、裸を曝し合う関係にまで昇り詰めてしまった。
「……どうしたら良いと思いますか?」
 ぽつりと零れ落ちた問い掛けに腹の底が熱くなった。この関係に変化を求めて何になると言うのだろう。ただ五条さんの腕に抱かれて、名前をささやかれて、それだけで満足できていた筈なのに。ひとたび味を占めてしまった身体が、彼と離れている間に身勝手な欲望を募らせてゆく。もっと、ちゃんと、五条さんの隣を胸を張って並び立てるような存在になりたい。その欲を拵えたところで、彼は私に興味もなければ見向きもしないかもしれないのに。
 硝子さんは考え込むように間延びした声を響かせた。外野として他人の恋愛を愉しむまでは良くても、第三者として相談を持ち掛けられるのは堪ったものじゃないだろう。当然の気付きを得てから、胃が捩れたように痛くなった。
『良いんじゃないか、そのままで。五条にあくせく働かせて尻に敷いとけば良いよ』
「でも、それじゃあずっと……」
『強いて言うならだけど』
 そうして電話越しの声が、はっきりと道を示唆してくれた。仄暗い夜道を照らし出す一本の街灯のような、そんな心強いひかりの道標。
が高専を辞めたとき、五条見送りに来れなかっただろう』
「え? あ、はい……」
『そのときのこと訊いてみたら。後になってアイツ、何か渡し忘れた物があるって散々当たり散らしてたから』
 その硝子さんの助言と、最後に二言三言の会話を交わして通話を終えた。今思えば、もう語ることはないと匙を投げられたのかもしれない。
 私がするべきことは明確だった。けれど、その事柄ひとつ尋ねるだけで何か変化が起きるものだろうか? そもそも渡し忘れたものって? 貸しっぱなしの漫画か教科書程度の品々しか思い付かない。ずっと働き詰めだった脳みそを一旦停止させて、携帯を手放した。手に汗握る会話が繰り広げられたおかげで、手のひらは汗ばみ若干赤味を帯びている。今日はもう遅いしさっさと寝床に就いてしまおう。思い立ったが吉日だ。私は凝り固まった肩を解し、シャワーを浴びるために立ち上がった。
 降りしきる雨は今日も猛威を振るいそうだ。激しい雨風によってガラス戸がわんわん噎び泣いている。心配事は増えるばかりだ。どうか何事もなく平和な明朝を迎えられますように、と偶像の神に祈った。
 五条さんと一緒にいるときの雨は嫌いじゃないのに、彼が傍にいないときの雨は、孤独の寂しさを味わされているようで苦手だった。