春嵐の隙間にて

04

春嵐の隙間にて

 見下ろした先のスクランブル交差点は、さながら万華鏡のようだ。多彩な色合いの傘が一斉にうごめいたり静止したりして、刻々と変化する美しい模様を織り成している。雨天の日、それも交差点に面するビルの一角からでしかお目にかかれない絶景だった。文字通り高みの見物を愉しみながら購入したてのコーヒーを啜る。舌がひりっとして、火傷寸前の痛みを持った。
 足を踏み入れた試しのない商業施設に訪れたのは単なる偶然で、ひとで込み入ったカフェでカウンター席を確保できたのも偶々だった。行き先を慣れない施設に定めたのは、春嵐が吹き荒ぶ突発的な悪天候から逃れるように、という方が適切だろうか。ともかく、度重なる不測の事態に導かれて私は窓際の特等席に座っていた。となれば、私と彼の思いがけない邂逅は、天文学的確率と称しても差し支えないのかもしれない。それをひとは運命と呼ぶのかもしれない。余白ばかりだった私の脳内に愚かしい思考が降ってきたのは、もう少し後になってからの話だ。
 退屈凌ぎに開いた文庫本に、一枚の栞が挟まれる。普段から愛用している、夜明け前を彷彿とさせる群青色のシンプルな栞だ。今日も机上の傍らに置いていた。そこまでは良い。問題なのは、私の両手は文庫本にコーヒーにとどちらも塞がっていること。ページの間隙に栞を落とし込んだ犯人は、無論私ではない。その腕は左方から伸びていた。
 がっしりと骨太の指先から中枢に向かって視線をなぞる。眼球が辿り着いた先には、何処もかしこも恐ろしく白い、人間に許された色彩を凌駕するほどの燦爛たる男がいた。片肘を付いて、食い入るように私を見つめている。スクエア型のサングラスを突き抜けてくる視線は熱烈で、不覚にも胸が跳ねた。
 初対面ではない。面影がある――というよりほとんど変化の乏しい容貌は、見間違える筈がない。事態を直視できず、受け止めきれず、瞬きを繰り返してから生唾を飲み込んだ。
「…………五条さん?」
「そう、五条さん。僕のこと覚えてくれてたんだ? 嬉しい限りだね」
 半信半疑で落とした呟きが、確信的な答えとなって返ってきたものだから思わず目を瞠る。これはまことの現実だろうか。耳を澄ませば漂ってくる雨音と喧騒のハーモニーに誘われて、知らずの内に目蓋がくっ付いていたりして。唖然とする私を面白がってか、眼前の五条さんはわざとらしく喉を鳴らした。目元の表情が窺えなくても、彼の大きな口に隙間が生まれるだけで、笑っているのだと認識できる。夢にしては細部まで拘りすぎていて、具現化した自分の内なる劣情に寧ろ恐怖を覚えそうだ。
 それじゃあ本当に、このひとは本物の五条さん? 幾らまじろいでも代わり映えしない、夢から覚めない光景に、段々と実感を齎される。平坦な日常のさなか、突然紛れ込んだ非日常的な存在が確かに目の前にいること。その実感。
「ちょっとそこで任務があったんだけど補助監督がまだ迎えに来れなくてさ。雨宿りがてら入った店で、見知った背中が見えたもんだから」
 訊いてもないのに、五条さんは饒舌に事の経緯を語り出した。彼が言うにはこの邂逅はあくまで偶然の産物らしい。図らずしもふたりで雨宿りをする機会に恵まれたのは、雨降る軒下で縁を絶った学生時代の皮肉のようで、けれども素直な心は喜びに打ち震えていた。置いてきた筈のよこしまな感情が、いつの間にかぶり返して炙り出されている。
 出逢って数分、手始めに気に掛かったのは五条さんが纏う雰囲気だ。物腰が柔らかくなったというより、従来なら露骨に押し出してきた牙を内側に閉じ込めたような、角を丸く包み込んだような空気感をしている。加えて語り口。元より口数は少なくなかったけど、感情的な発露は鳴りを潜め、飄々とした陽気さが抜きん出ている。僕という聞き慣れない一人称も、穏やかな印象を与えるのに一役買っていた。直属の先輩だった頃とは別人のようで、どこか懐かしい別の先輩が浮かび上がる、その言い知れない違和感に何だか寂しくなった。離れていた月日は莫大で、生まれた隙間をそう易々と埋めることはできない。五条さんが歩んできた人生を理解することも、伴う心情を分かち合うことも、逃げ出した私には不可能なことだ。
 文庫本を脇にやり、すっかり適温になったコーヒーに口をつけた。無尽蔵に湧き上がる思いと裏腹に、伝えたい言葉はひたすら喉に停留している。そればかりか、嚥下した液体と一緒に押し戻される始末だ。腕時計の針だけが活発に動いて、私達が隣り合う時間は無為に削れていく。
「話したいことは山ほどあったのにな」
 さんざめく背後の音を間引いて、私の聴覚は狙い撃ったようにその一言を拾い上げる。目鼻立ちの顕著な横顔が、ほんのわずかな物憂いに沈んだ気がした。掛ける言葉をまだ、探し倦ねている。
「いざ会ってみると中々言葉が見つからないもんだね」
「……五条さんが、ですか?」
「ハハ、それどういう意味。僕だって人並みに緊張するよ」
 神様が産み落としたかのような見てくれのそのひとは、自分をひとの子だと自嘲して笑った。そうか、五条さんほどのひとでも会話に詰まったり身を引き締めたりするのか……。取るに足りない凡庸な気付きは、きっと往昔の後輩身分の私ならすぐに事実として飲み込んでいただろう。咀嚼して、消化して、五条さんも私と変わりない人間だと理解する。内心手を叩いて喜んだ筈だ。そうできなかったのは偏に離れた時間の断絶を認識していたから。あの日を境に五条さんとの関係を断ち切った私が彼を理解した気になるなんて、無粋を通り越して烏滸がましいとさえ思ってしまう。
 自分の気持ちを素直に吐露することも、隣にいるひとの気持ちを汲むことも、数年前なら簡単にできたことが今や難しい。本心を押し込めて取り繕うことを覚えた大人は、不自由だらけの雁字搦めだった。
「正門で雨宿りした日のこと、覚えてる?」
 そうして唐突に切り出された話題、中でも雨宿りという言葉が鼓膜を揺らした途端、雨音が際立って聞こえた。ガラスを穿つ勢いの雨は、未だ止む気配を見せない。
 覚えている。あの日はもっと、優しく身を包むような俄雨だった。軒先から零れ落ちるしずくが地面を浸蝕して、私と五条さんだけの小さな世界をつくり出した。網膜に鮮明に焼き付いている。あの日突き付けられた冷たい現実も、押し当てられた冷たい感触も、すべて忘れられる筈がない。衝撃波となって押し寄せて、この身を溺れさせている。
 辿々しい視線を上げてこくりと頷く。周囲のざわめきより、気配を寄越す雨音より、内側から叩き付ける鼓動の方が耳に障った。
「あの日呪術の世界から遠ざけようとしたこと、後悔はしてないけどもっとうまい言い方があったと思う。あの頃の僕はガキで、を傷つけることしか言えなかったから」
 言葉を区切りつつ落とされた発露は、心の水溜まりにぽつぽつと波紋を広げてゆく。それは謝罪とも違うし、懺悔とも違う気がした。思惑があってというよりは、込み上げる感情を整理するように零している感覚が近いのかもしれない。大人になった五条さんの美しく惨たらしい懐古に、私という存在が含まれている。
 透度の低い隔たりから仄かに透けるまなこは、遠来を見据えていた。私達ふたりの視界には、きっと同じ日の同じ情景が映し出されている。
「五条さんがそんな風に思ってるなんて知らなかったです」
 ただの後輩としてでも五条さんの心の片隅に引っ掛かり続けた事実に、胸の奥が熱くなった。じんわり発火した恋心が着々と温度を上げてゆく。
 雨は単なる雨に過ぎなくて、私達の記憶も思い出も蟠りも、ぜんぶを流してはくれないのだ。どんなに忘れようとしても、置いて来ようとしても、傍らでひっそり居残り続けている。そのことが、どうしようもなく苦しいのに、こんなにも嬉しい。ひとを好きになるって矛盾だらけだ。
 私が零した率直な感想を受けて、五条さんの頬杖をついている側の口角に微笑が乗せられた。どの感情が明るみに出ても様になる顔貌なのに、こんな笑顔を送られては一溜りもない。
「……ひとつ訊いてもいいですか?」
 今度は五条さんが目を見開いて、浅く頷く番だった。平手が飛んでくる最悪の事態にでも備えているのか――そんなことがあっても無限があるので心配無用だろうに――、神妙な面持ちへと変化する。できれば軽い気持ちで耳を傾けて欲しかっただけに居た堪れない。やおら視線を引き下げて、絡ませた自分の両指に焦点を当てた。その場凌ぎの、仮染の照準だ。
「何で、あの日……その、最後に……」
 端から弱々しい声色だったのに、尻すぼみになって話の根幹にさえ辿り着けなかった。私が尋ねたかったのは雨宿りの日、その最後に押し付けられた唇の真意についてだ。五条さんの胸倉を掴んででも問い質したい事柄ランキングがあったなら、その王座に就いているだろう。それくらい当時の私にとって一大事で、現在進行形で心を揺さぶっている要因だった。
 言葉に支えたものの、察しの良い五条さんは疑問の意図をしっかり汲んでくれたらしい。情けない体たらくに項垂れる暇も与えてくれないまま、彼は指先を顎に添えて考え込むような素振りを見せた。
「僕も青臭いガキで考えなしだった……ていうのを免罪符にするつもりはないんだけど」
「……はい」
「多分一番は、最後になると思ったからかな」
 ……何だろう。いまいち納得とは程遠い、釈然としない返答だった。五条さんは大抵の場合、明け透けな物言いをするから余計にそう感じる。お茶を濁されているのか、はたまた額面通りに記念受験のようなかたちで大事なファーストキスを奪われてしまったのか。輪郭を失った曖昧な返答からでは、正答に到達できる未来が全く見当たらなかった。この難問はうんともすんとも言わないし、梃子でも動かない。正にお手上げ状態。脳内の渋滞して身動きの取れない思考が悲鳴を上げていた。
「でも、今日と会ってあれを最後にしたくなくなった」
 だからこそ、そこでの追撃は私にとってとどめの一撃となってしまった。
 意味ありげな言葉の意味を探る余裕なんて微塵もなかった。待ったを掛けることは疎かハーフタイムを取ることもできやしない。心を揺さぶる発言をして、間髪入れずに五条さんは私の指に自分の指を添わせてきたのだ。まずは指の付け根から。出っ張りを丹念に撫で回し、徐々に末端に移ろわせ、最後には爪を優しく撫ぜる。時間を掛けてゆっくり丁寧に、私の心まで解きほぐされているみたいだった。手のひら全体を使って覆われた瞬間、きっと私の心も脳内も、五条さん一色に染められていた。
 ふたりのあわいに広がった陶酔的な雰囲気を遮るように五条さんの携帯が震えて、その日は解散となった。別れ際のサングラス越しの眼差しが熱情的で、射抜かれた先から身も心も焦がしていくような情熱を孕んでいたこと、生涯忘れられないと思う。
 次に顔を合わせたのは自宅の玄関先でだった。一体どんな強硬手段を経て私の現住所を入手したのだろう。今も交友関係が続いている七海を酒の場で脅しに脅して……という線が無難だろうか。本質とはずれた疑問が巡っている私の腑抜けた表情に、五条さんはおかしそうに微笑を吹き零した。
 淀んだ鼠色の雲から、重みに耐えられなくなった無数の水滴が降り注がれていく。そんな荒天のなか、雨に降られた形跡が全くない五条さんは遠慮げに尋ねた。雨宿り、しても良い? と。学生時代の性分なら有無を言わさず上がり込んで、ソファを独占してほくそ笑んでいただろうに。そもそも雨宿りをする必要性がこれっぽっちもないだろうに。私を見留める彼は、更に身長が伸びて恰幅も良くなった。例え見せ掛けであっても、それなりにひとの心を重んじる姿勢を身に付けた、れっきとした大人だった。
 私達は大人になった。障害だらけの不都合だらけ、雁字搦めだ。こうやって何か理由を見繕わなければ、後輩ひとりの部屋に足を伸ばすことも、先輩ひとり招き入れることもできない。不自由ばかりが折り重なって、自由な意思を貫くことに躊躇して、恐れを成している。
 雨に運ばれてやって来るそのひとに、口付けを落とされたのは五回目だったか六回目だったか……。ぬくい部屋に通して入り浸っていたから唇は冷たくなかった。呆然として恍惚とする私を、五条さんはさり気ない心配りを散りばめながら、そっと押し倒した。逆光の翳りの中でも、彼の瞳は硝子細工のように殊更輝いて、その奥に微かな熱が籠もっていたのを覚えている。そうしてその日、私は初めて五条さんに抱かれた。
 身体を重ねるようになっても、五条さんのことを手に取るように分かるわけではなかった。肌が触れ合って熱が伝播しても、心にまでは触れられないし、ましてや思いが伝わってくることもない。そんなものは御伽話に過ぎないのだ。この関係が何に向かっているのか、どこに行き着くのかも分からないまま、五条さんに導かれて身体を明け渡している。
 雨が世界を取り囲んで、湿った土の匂いを届けてくれるとき、心の水溜まりにも波紋が広がってゆく。