途方もない雨上がり

05

途方もない雨上がり

 結局、荒れに荒れた雨模様は週日を独占して、重苦しい憂鬱はその嵩を増していくばかりだった。ようやく出歩ける程度に晴れ間が覗いたのは週末の昼過ぎだった。厚い雲は今にもぐずつきそうな薄墨色を成していて、とても晴天とは言い難い。泣き出すのを我慢している雨雲は、悄然として辛気臭い私の映し鏡のようで、目を覆いたくなった。
 食材に日用品にと買い出しを済ませ、最後に向かったのは贔屓にしている喫茶店だった。普段なら嗜好のコーヒーを頼んで一服するところだけど、鼻腔に広がる雨の香りが帰宅を急かしている。自動扉をくぐり抜けて、深みのある芳醇な香りに包まれながら、私はお気に入りのコーヒー豆を二袋購入して足早に店を出た。
 と、こんな風に急ぎ足で帰路に就いたところで、世界を支配する大自然が人間側の都合を顧みてくれる筈もなく。喫茶店を出てほんの数分ほどで低く垂れ込めていた雲が雨粒を放出し始めた。今週の空は泣いたり止んだり気性が忙しない。癇癪を起こして気分が浮き沈みする子どものようだ。一先ずの雨除けとして、目に留まったバス停の軒下に退避した。仄かに濡れた頭をふるふると振って余分なしずくを落とす。天候は急変したものの、想定外というわけではない。傘を忘れがちな悪癖を遂に改善し、鞄の奥底では小ぶりの折り畳み傘が眠っていた。家を出る前に慌てて押し込んだ当時の私を褒め称えたいくらいだ。両手を塞いでいた荷物を片手で纏めて持ち、鞄の中をまさぐる。不必要な物品を脇によけて、本命に指先が触れたそのときだった。
「すっごい大荷物。こりゃ大変だ」
 肩に掛けていたトートバッグに視線を落として神経を注いでいたから、反対側の耳に吹き込まれた声に全身が飛び上がった。いくら聞き慣れたひとの声でも、突然耳元に降って湧いたらそりゃあ誰でも驚くだろう。跳ね上がった勢いに押し出されて二歩三歩と後退る。よろめいた両足でどうにか踏ん張り、恐る恐る視線を上げた。
「ご、五条さん……」
「久しぶり。元気してた?」
 半ば確信を持って見上げたとはいえ、実際その姿形を間近で捉えて平常心を保っていられる筈がない。耳目に触れて認識したその存在を前にして、胸が荒々しく波を打つ。幾度となく時が巡っても、きっと巧みに気配を押し殺した彼の登場に心臓は慣れてくれないだろう。彼を目の前にして、焦れったい胸の高鳴りを抑えることはできないだろう。
 ずっとずっと会いたかったひと。最後に顔を合わせた日から微分も変わらない、普段通りの五条さんが立っていた。
 周囲の背景に馴染まない黒ずくめの出で立ちに、対照的なましろの包帯が目元には巻かれている。長期出張帰りとは思えない手荷物の少なさ――というかほとんど手ぶらだった。小さな紙袋がひとつだけ腕にぶら下がっている。一度自宅に立ち寄ったのだろうか。だとしたら、サングラスに付け替える手間暇さえも惜しんで此処までやって来てくれた? 無限に浮かび上がる浅ましい期待には一旦別れを告げて、しっかり意思を携えて五条さんを見据えた。言いたいこと、訊きたいこと、心底には山のように散り積もっている。でも、五条さんを迎え入れる初っ端の文言は、これだと決めていた。
「おかえりなさい、……です」
「……はは。情熱的なご歓待、どうもありがと」
 羞恥の嵐に見舞われて俯きそうになりながらも、何とか五条さんの顔を直視して伝え切る。彼はきょとんと魂が抜け落ちたように口を広げたけど、次第に唇に笑みを乗せた。隙間風が洩れ出るような微かな笑い声が漂ってくる。眼球は完全に隔たれて窺えないけれど、きっと優しげに眼差されている。そう自惚れていた。
「ただいま」
 日本中の何処にでもありふれている、けれども決して当たり前ではない四文字。ひとつの判断ひとつの行動が生死を分かつ生業においてこの言葉がどれほど貴重でどれほど感泣に値するものなのか、身を以て知り得ている。謂わば平和の象徴を、彼は至極大事そうに紡いだ。あたたかな温度をした低音が、小雨の微音に紛れながらも確かに流れ着く。鼓膜を揺さぶられて、感極まって視界が潤みそうになった。
 五条さんは鞄に突っ込んでいた私の手を制して、軽やかにすくい上げた。同時に反対側の手を専有していた買い物袋を奪ってしまう。
「これ貸して。傘も出さなくて良いよ。さっさと帰ろ」
 すくわれた手指を絡め取られ、為す術なく捕らわれた。手のひらが重なり合い、確固たる境界線を維持したまま、指先はもみくちゃに縺れ合う。周囲から飛ばされかねない野次も視線もお構いなしの、大胆な恋人繋ぎだった。繋ぎ留められた手を引かれ、いつかの目映い記憶を再生するみたいに、私達は並んで雨の中へと連れ立った。
 丁度住宅街に差し掛かったということもあり、駅前に比べてひとは疎らだった。すれ違うひとには二度見三度見されるけど、それは肩を並べる奇抜な身なりの長身男性にであって、自然の摂理を超越した雨除けを見抜かれたわけではなさそうだ。降り出したばかりで、傘を差さずとも皆平等にずぶ濡れではないことも功を奏している。雨が降る前と相違ない自分の体感に反して、鼻腔を蕩かす瑞々しい自然の香りと、斑模様に色濃くなるアスファルトが、確かにその独特な気配を寄越していた。
「何から話そう……あー、そうそう携帯。海外出張のこと言うのすっかり忘れてたから当日電話しようと思ってたんだけどさ、手からすっぽ抜けて自分の足で踏み潰しちゃったんだよね。ウケる。しかも予定よりだいぶ滞在期間も延びてさあ。呪物の回収はともかく事後処理くらいは現地で何とかしろってーの」
 空を飛んで海を渡っても、長広舌をふるまう五条さんの語り口は変わりない。好き勝手に近況を述べて、最後に彼の仕事量に見合わない愚痴をひとつだけ零すと、満足そうに微笑んだ。共感すべき局面か、それとも同情すべき局面なのか判断に迷って、結局どっち付かずな「お疲れ様でした」という労りの常套句を持ち出す。それがお気に召したのか、五条さんは更なる随喜の微笑を唇に湛えた。
「いつ帰国したんですか?」
「今日の明け方。時差ボケで疲れてんのに、高専寄ったら生徒にお土産要求されるわ硝子にいじられるわでもう大変だよ」
「硝子さん?」
 つい先日電話越しに話したばかりの先輩の名前に、首を擡げる。五条さんが厳選する話題に硝子さんの名前が出てくることは少なくないけど、今回は妙に引っ掛かった。第六感とは得てして胡散臭いものだけど、案外信じてみるものだ。見上げた先の五条さんは誇らしげに、或いは自信たっぷりに鼻を鳴らした。単なる直感が嫌な予感へと傾いていく。
「誰かさんが僕に捨てられたんじゃないか〜って泣きべそかきながら電話掛けてきたんだってさ」
「っ……! ちが、そこまでは」
「じゃあ心配してなかった?」
「それは…………、しましたけど」
 意気揚々と弾んだ声で、五条さんはを全容を詳らかに開示した。とは言うが中身はまるで正しくない。嘘八百にも程がある内容だった。この掴み所のない飄々とした態度に翻弄されるのも久方ぶりだ。わざわざ誇張して嘯いた内容を私が否定しようがしまいが、こうして詰め寄る気だったのだろう。まんまと策略に嵌っているし、掌の上で踊らされている。実際、泣きべそはかいていなくても、心配しておちおち夜も眠れなかった寝不足の日々は真実なのだ。肯定する他ない。何度も言葉が喉奥に引き返しそうになったが、観念して認める。ご期待に添えたのか、五条さんの唇はきれいな半弧を描いた。良くも悪くも、このひとの自由奔放な独裁から逃れられる未来は見えそうにない。
 繋がれた手に導かれるままに、私の自宅へと向かう正確な道筋をふたりで辿った。先導する五条さんにとってはもう勝手知ったる道のようだ。知る人ぞ知る狭路を抜け、見慣れた外装のマンションを視界の端に捉えた。辺りはやけに閑散として、深い静寂が流れ打っている。その無音は奇妙な違和感となって襲い来た。どうしてだろう。思索に耽り、そして気付く。――あ、そうだ。雨の音。
 宙空を伝っていた密やかな雨音がいつの間にか途絶えていた。仰ぎ見れば、曇天の隙間から一筋の光芒が走っている。地上に降り立つ天使の梯子が、湿気の残渣によって一段と煌めきを帯びて思わず目を眇めた。
 雨上がりだ。臭気も邪気も一遍に洗い流したような澄んだ空気、歓喜を訴える小鳥の囀り、進路を塞ぐ透明な水溜まり。雨降る惑星を抜け出した私達を、辺り一帯が歓迎している。不要な水分をすっかり出し終えて満足したのか、表情を明るくした雨雲はきりきり動いて姿を消していた。残された私達を閉じ込めるものはもう、何もない。
「天気ってのは空気の読めないやつだなあ」
 同じく天を仰いでいた五条さんは、虚空に向かって届く筈のない文句を飛ばした。心臓が凪いだ海面のように穏やかにさざめく。真意がぼやけた抽象的な言葉だけど、どうしてだか私はその意図を仄かに察していた。本当に自然に、本当に容易く、その意図を。
 重ねた肌から心に触れることはできなくても、同じ意思を宿していれば、自ずと心は通い合うものなのかもしれない。
「……五条さん」
「うん」
「雨、上がりましたよ」
 我ながら小賢しい戦法を取ってしまったと思う。雨が上がってしまえば無下限の雨除けは必要ないし、手のひらを繋ぎ留めておく必要もない。ただ意味なく、私達の手指は互いを包み込んでいる。無意味になった繋がりを白々しい態度で言い渡して、五条さんの反応を窺おうとしたのだ。思い上がりも甚だしい自覚はある。でも、闇雲じゃないしやけっぱちでもない。彼も、私と同様にこの手を離すことを惜しんで、寂しく感じている。先程の判然としない独り言はきっとそういう類の意図だったと、過剰な自信が漲っていた。
 五条さんは私を見留めて、それから重なり合った手のひらを見留めた。口を窄めて思案しているような素振りをする。やがて彼はニッと歯を覗かせて快活に笑った。
「残念だなあ。僕は手繋げて、嬉しくて嬉しくて仕方なかったのにさ。はそんなに早く離して欲しいんだ?」
「……へっ!?」
 と、まあどんなに綿密に企てたところで五条さんには見抜かれてしまって何の意味も成さない。それどころか巧みに会話の流れを誘導されて、気付けば自分が追い込まれている始末だ。私の姑息な意趣を出し抜いて、彼は意趣返しとしてその質問を投げ掛けた。不敵に象られた口元が何ともいやらしい。ずるいひとだ。自分が離したくないと言わない代わりに、私に言わせようとするのだから。五条さんの思惑はいとも容易く読み取れたけど、だからと言って簡単に負けを認めるのも悔しい。何とか彼に一泡吹かせたい。そんな、全く懲りない邪念にちからを借りて、口を開いた。
「……離れたくないし、離したくないです」
 悪知恵を働かせたとは言っても、紡いだ言葉に嘘はひとつも混じっていない。純正の本心だった。最後の一押しとばかりに指先にちからを込めて、固く握り締める。離さないという確たる意思を潜ませて。
 五条さんは呆気に取られたらしく、唇にだらしない隙間を設けて立ち尽くした。それだけでもう十分すぎる成果だ。表立っては見せることのない彼の珍しい表情を引き出せただけで、何にも勝る功績と言えるだろう。勝ち誇った眼差しを向けると、五条さんはふっと空気を洩らした。それは溜め息のような、苦笑いのような、けれども晴れ晴れとした心境が垣間見える笑顔でもある。
「こりゃ一本取られたな」
「……勝ちました?」
「まあ良しとしとこうか。初めてから歩み寄ってくれたんだし」
 しみじみと感慨に耽るように零されて、そう言えばと思いを馳せる。五条さんに対しては受け身なばかりで、何かをねだったり頼んだりした試しがなかった。そういう点に関して言えば彼も、私に歯痒い思いを抱いて来たのかもしれない。手を離したくないという淡い願望の発露が、或る意味で私が初めて能動的に行動を起こした革命的な瞬間になったのだ。
 歩み寄ったにしても、私と五条さんの距離はまだ決して近くはない。でも、遠くもない。分からないことだらけの雁字搦めだったのに、その分からないは少しずつ解消されていく。五条さんのことを少しずつ知って、少しずつ理解を遂げて、縺れ合った糸が段々と解けていく。
 顔を合わせなかった一月程度の年月が寂しいを増殖させて、現状を顧みるきっかけを与えて、背中を押してくれた。五条さんも、任務に忙殺される中で私のことをほんの一瞬でも思い出す機会があってくれたら嬉しいなと思う。
「帰ろう。早くを独り占めしたくて仕方ない」
 極めつけのスパイスを投入するみたいに、五条さんは心が際限なく震える発言をさらっとした。まさに暴風雨だ。気象庁でも予測できない突発的な嵐に巻き込まれて、太刀打ちも反撃もできない。どうしようもない。彼の傍にいると、いつでも何処でも心臓は大騒ぎのお祭り騒ぎだった。
 手を引かれるままに光差す方角に突き進む。降雨によって涼しくなった周囲の温度に反して、握り合った手のひらには熱が迸って浸透している。ふたりが同じ思いを抱いて、共鳴している証だった。
 雨宿りのような恋は終わった。通り雨が過ぎ去っても、もうこの手を離す理由はどこにも見当たらない。雨上がりの透き通った空が美しく、盛大に光の粒子を降り注いで、ふたりを祝福してくれていた。