21gの純情

06

21gの純情

「……五条さん、あの」
「なになに、どした?」
「離れたくないとは言いましたけど、さすがにそろそろ……」
 ソファに腰掛けて早数十分が経過しようとしているのに、私達の体勢は依然として不動を貫いている。野暮な突っ込みもいかがなものかと思って沈黙していたけれど、あんまりにも果てが見えないものだから、つい口を開いてしまった。すぐ後方から五条さんの吐息が落ちてきて肌が粟立つ。この状況も私の反応も心行くまで堪能していると分かる、嬉々とした微笑が含まれていた。
 帰宅して早々に五条さんはもはや定位置と化しているソファに根を張って、長い手足を投げ出した。リビングに配置された家具全般がちゃちに見えるくらい大きく背伸びしている様子をキッチン越しに捉える。そして購入した食材やら日用品やらを整理し終える頃には、彼は目元の包帯を外して眼球を露わにしていた。淀みのない澄んだ青色は、雨上がりの空のように目映いきらめきを放っている。この神秘的なまなこに射抜かれて、あまつさえ人差し指を使って手招かれてしまえば、もう為す術がない。猜疑心をひとつも持たずに近寄って、五条さんの隣に座る。その無防備こそが彼の狙い所で、付け入る隙となったのだろう。腰を下ろす寸前、背後に回った逞しい腕に引き寄せられる。圧倒的な力強さに抵抗する暇さえ与えられないまま、気付けば五条さんの膝元に座り込んでいたのだった。
 背後から抱き寄せられて、密着した身体が徐々に熱くなる。腹部を撫ぜる大きな手のひらも、首筋にかかる儚い吐息も、五条さんに大事にされている実感を直に注がれているようでこそばゆい。身を捩っても足をばたつかせても離す気配のない彼は、寧ろその無意味な抵抗を喜んでいる節さえあった。結局その抱擁を受け入れて、沁み込んでいく優しい体温を享受していた。
「え〜、僕は離れたくないし離したくないな」
「……」
「怒んないでよ。怒ってるも可愛いけどさ」
 私の提案を軽く蹴散らしたかと思えば、首元に額を乗せて擦り付けてくる。さらさらの前髪が肌を掠めてくすぐったい。今日の五条さんは優しすぎるし甘えたすぎる。却って不気味なくらいだ。離れていた一ヶ月を取り戻すように――というのは自分に都合良く考え過ぎだろうか。
 愛情から成る触れ合いを拒否することも無下にすることもできず内心唸っていると、上手い具合にふっと妙案が脳裏に去来したから、絡みつく腕を解いて立ち上がった。
「コーヒー! 淹れてきます! 新しいの買ったので!」
 ただ触れ合って一月の空白を埋めるのも良いけれど、折角なら此処でしか飲めないコーヒーも味わって欲しい。ただ取り繕った理由ではない、紛れもない本心でもあった。五条さんは不服そうに唇を尖らせていたけれど、敢えて無視を決め込んでキッチンへと足を運んだ。
 新たにストックした豆を挽いて、お湯を注いでドリップする。たちどころに、挽きたての豆の新鮮な香ばしさが充満した。滴下してゆく黒黒とした液体を見つめていると、痺れを切らしたように不満顔の五条さんが顔を覗かせる。そうして再び腕を伸ばした彼に呆気なく捕らわれてしまった。でき上がるのを待つ間は暇を持て余しているので差し支えないと言えばそうだけど、また振り出しに戻ってしまったような感覚に陥った。決して嬉しくないわけではないんだけど、どうしていれば良いのか分からなくなる。
「これ、忘れてた。五条さん厳選のお土産だよ」
「えっ!」
 耳元で囁かれると同時に、回された手が持ち上がって目前に袋を差し出される。そう言えば、今日出逢ったときに五条さんが腕にぶら下げていたような。まさか私へのお土産だとは思わなくて、ぱちぱちとまじろいで何度も確認する。反応が期待した通りだったのか、五条さんは至極愉しげに目を細めた。
 御礼を述べて中を覗くと、ふたつの小箱が入っていた。ちろりと視線を送っても不変的な微笑を浮かべているから、これも開封して良いのだろう。恐る恐る小箱の蓋も開けると、中にはマグカップが詰められていた。全体的に丸みを帯びて、透明なガラスによって艶々の光沢を閉じ込めている。今この場で渡されたということは耐熱ガラスなのだろうか。至福のときが更に幸せで満ち溢れそうな品によって、まだコーヒーを飲んでもいないのに心を温かくさせた。
「かわいい。今使っても良いですか?」
「どーぞどーぞ。に淹れて貰うために買ったんだしね」
 手のひらを上に向けてポーズを取る五条さんの厚意をありがたく受け取って、早速マグカップふたつを洗浄してコーヒーを注ぐ。ひとつのカップだけに砂糖みっつを落とし込むと、それを見届けた五条さんがトレイを運んでくれた。無事リビングに辿り着き、各々の定位置に座り込む。やっぱり彼は淹れたてのコーヒーを躊躇なく啜って、唇を緩ませた。
「そう言えば、五条さんに訊きたいことがあって」
「ん? なに?」
「私が高専を辞めたときに渡し忘れたものがあったって硝子さんから聞いたんですけど、それが気になってて……」
 今更尋ねるほどのことではない気もするけど、折角硝子さんに頂いた助言だから話題に使わない手はない。コーヒーを息で冷ましながら、何の気なしにそう問うてみる。予想だにしない唐突な話題に、彼は大きく目を見開いた。明るい照明の真下で、青々とした虹彩が清らかに輝く。それにしても、そこまで驚く事柄だっただろうか。忘れていたか、はたまた本人には言いにくい品とか? 大人しく返事を待っていると、やがてカップを机上に置いた五条さんが口を開けた。その表情は遥か昔に思いを馳せるような、遠来に焦点を合わせたような眼差しだ。
「今日とおんなじ。マグカップだよ」
「え?」
「何だっけな……前にがコーヒー奢らせてくれって言ってたでしょ。結局その機会がなかったから、マグカップ渡して会いに行く口実つくろうとしたんだよね。渡しそびれた上に、寮を引っ越すときに落として割れちゃったけど」
 もう十年近くも前のことなのに、五条さんは暗記しているかのように流暢に語ってくれた。瞳に詰め込まれている青色は、その冷たさを微塵も感じさせない、柔らかい陽だまりのような温かさが滲んでいる。
 当時の、あの口が悪くて性格も決して完璧ではない五条さんが、私のための贈り物を悩んで選び抜いている様子を想像する。正直、とても嬉しかった。その品は今手元にないのに、追想される記憶と想像上の情景によって喜びが満ち溢れてゆく。心に羽根が生えたみたいに軽くなって、嘘みたいに弾んでいた。
「すっかり忘れてたけど、意図せず叶っちゃったな。あの頃の僕の願い」
 学生時代の五条さんが顔を顰めて、でも火照りを帯びた悩ましげな表情で反抗している姿が思い浮かぶ。たくさん憎まれ口を叩いて、でも最後には寂しげに眉を寄せて私を送り出してくれただろう。その様子が見てもないのに、ありありと思い描けた。
 あの頃の五条さんと昔の五条さんが変わってしまったとは思わない。大人になってしまっても、潜ませていた願いをこうして届けてくれた。彼の優しくてひとを思いやってくれる根幹は、きっとずっと変わらないのだろう。今その実感を得ていた。
 手にしていたコーヒーの水面が揺れる。ゆっくり落とされた唇に動揺したけれど、その内心も身体も落ち着き始めた。むしろ安寧だとさえ思う。口付けの続きをゆするようにカップを置いて、彼の手のひらに手を重ねる。目を閉じると再びキスが降ってきて、唇を柔く噛まれた。
 この変わらない安寧を享受したい。いつまでもこのひとの傍にいたい。私が託した願いは学生の頃には聞き届けられなかったけど、今はこうして叶えられた。それだけでもう、十分すぎるくらいの幸福に満ちていた。