誰も癒えない

03

誰も癒えない

 記録――2007年8月東京都
 ■■区の廃校にて確認された準二級相当の呪霊の祓除に、担当者(高専二年 )を派遣する。祓除は成功したが負傷が激しく意識不明の重体。また、生得術式を完全に喪失し、呪力も一般人と同等の量にまで減少したと推測される。原因不明。詳細不明。


 目蓋を持ち上げたとき、窓という額縁に飾られた青空がうっとり見惚れるほど美しかった。そのことを鮮明に覚えている。危うく命を落としかけて、冥府に片足を突っ込みかけたがゆえの生の実感だ。きっとあの世では到底見られない鮮やかな色彩が、心に平穏を齎してくれた。ああ、私生きてるんだ、と。
 今思えば凄まじい皮肉だった。この果てなき青空の下にもう親愛なる同期はいなくて、大地の延長線上にいる先輩であってもこちらを振り返ることはない。私ひとりが生き長らえたところで、この世界は喜びで満ち溢れたりしない。いつだって逃れられない負の連鎖が続いている。一ヶ月近く眠っていた私だけが、幸か不幸かその悪循環から切り離されていた。
 蛍光灯の鈍い光に手をかざす。握って開いてを繰り返しても異常は見られない。指先の末端まで確かに神経が通い、血が行き届いている。至って正常で平凡な肉体だった。けれどそれは、術師という非凡な生業においてあるまじきことでもある。刻み込まれている筈の術式も、内部を流れ打っている筈の呪力も、その存在をほとんど感じられないのだ。俄には信じられないくらい、肉体から何もかもが抜け落ちて、悪感情とは無縁なほどに浄化されている。こうなるに至った経緯は曖昧で霞んでいるけれど、決死の覚悟で呪霊と刺し違えたことだけは記憶していた。となれば、これは一種の呪いと見るべきだろう。最後の最期に残された呪いが肉体を蝕み、呪いを祓う手立ての一切を奪い去ってしまった。腑に落ちた現実は予想以上に残酷だ。何せ祓うべき呪霊自体はもう消失していて、首枷を嵌めた呪いを取り除く術が全く見当たらない。一生に纏わり付く厄災とその効果は、これから先の耐え難い未来を指し示していた。
 本来なら生きているだけで儲け物だ。五体満足で息ができること、奇跡と称しても差し支えない。けれど健常な身体が――何も持たない身体がこれほど恐怖を覚えるものだとは思いも寄らなかった。私は、この不自由な身ひとつで術師を続けていくのだろうか。続けられるのだろうか。入院中の淡泊な生活のなかで幾度となく巡った疑問は、ついぞ解に辿り着くことはなかった。
「傷が痛みますか」
 冴えない思考に風を吹き込んだのは、鼓膜に馴染み深い声だった。抑揚はないけれど決して冷淡でも辛辣でもない、分かるひとには分かるぎこちない気遣いが流れ込んでくる。きっと手のひらの不可解な挙動を不審に思い、心配してくれたのだろう。ベッドサイドに佇む同期は、晴れ間が広がる昼下がりにはそぐわない逆光の翳りの中でじっと私を見つめていた。
「ううん、平気。硝子さんのおかげで身体は何ともないよ」
「外傷が癒えても目が覚めないのは、家入さんもさすがに焦っていた」
「私にもよく分かんなくて。何でだろ……寝坊したことあんまりなかったのにね」
 感傷的な雰囲気を鎮めるようにけらけら笑うと、七海は少しだけ眉間に込めていたちからを解いた。それでも顔付きは浮かないままだ。気怠い眼差しからは、魂が干からびたような虚脱感が滲んでいる。例年なら酷暑に打ちひしがれたのだと楽観的に捉えただろうけど、彼を、私達を取り巻く状況がその境地にないことくらい、嫌でも理解している。微妙に気まずい空気に浸かりかけたとき、その空気を追い払うように快活な声を響かせてくれる同期がこの世の何処にもいないことも、理解していた。
 著しく発展した現代医療と硝子さんの類稀なる反転術式によって一命を取り留めても、この世界の狂ってしまった歯車が元通りになることはない。崩れかけた足場でも懸命にしがみつかなければならない。そうして命からがら術師を続けた先に何が待っているかなんて、もう誰にも分からないけれど。
「嫌味なことを言いますが」
 重厚な声に縁取られた前置きにつられて視線を移ろわせる。普段なら目映いばかりのブロンドの髪がいつになく萎れていて、夏枯れの向日葵を彷彿とさせた。
「できればには、目を覚まさないで欲しかった」
 その声はまるで教会で懺悔を図る罪人のようだった。生ぬるかった空気が慌ただしく気温を下げてゆく。鼻の奥がつんとして、こっちまで泣きそうだ。
 七海、それは嫌味でも何でもないよ。
 もう体温のない亡骸を運ぶのも安らかな死に顔を視界に映すのも嫌で、もう見たくないと思っている、そんな貴方の優しい心そのものだ。


 意識が回復した日の翌々日には、私は退院手続きを終えて補助監の送迎車に乗り込んでいた。一般人の医者からしてみれば、創傷も消えて意識も取り戻した患者に施すべき処置なんて何もないだろう。一ヶ月程度の療養――とは名ばかりの就眠――で済んだのは硝子さん様様だった。
 車を降りたときには生憎の雨模様だった。糸のように細切れの雨は、仄かに肌が湿りゆく感触だけで、あまり雨に振られている感覚がしない。寧ろミストシャワーを浴びて全身の穢れが洗い流されていく心地でもあった。ただ、朝方のこの時期には肌寒くもあって、どうせなら全身を包み込む温かな湯船に浸かりたい。そうと決まれば泥濘だらけの地面を蹴って、霧雨の中をかい潜るだけだった。
 目指した寮はすぐそこまで迫っていた。けれど、遠目ながらにそのひとを見留めてしまえば足を止めざるを得ない。しろがね色の髪がさらさらと揺れて、小雨のカーテンに遮られても殊更に光り輝く。正門の真下で仁王立ちしている長身の男性は、正真正銘、本物の五条さんに違いなかった。五条さんの方も私を視界に捉えたのか、一歩後退って顎先を持ち上げた。どうやら占領していた軒下のスペースをほんのわずかに譲ってやるとの意向らしい。立ち往生して雨にそぼっていた私は、思考を巡らす暇もなく屋根の下へと飛び込んだ。
 肌に吸い付いた水滴を振るい落とし、張り付いた髪を払いのけて一息つく。自分の吐息に紛れて耳を打ったのは、五条さんが微かに洩らした笑みだった。
「……濡れ鼠」
「出会い頭に失礼すぎます」
「実際そうだろ。何でオマエはいつも傘持ってないわけ」
 正論嫌いな五条さんにしては珍しく真っ当な言及だったから、今回ばかりは手も足も出ない。反論の余地なく唇を尖らせて固く引き結んだ。言葉でねじ伏せてご満悦な彼は勝ち誇ったようにせせら笑いを浮かべる。でも、その表情には普段の覇気がない。しとしと切れ目なく落ちる雨音も相まって、不遜な口振りで寂しさを塗り潰そうとしているみたいだった。五条さんの心ここにあらずな横顔が物語る心理を見抜けないほど、察しが悪くはないつもりだ。心に巣食っている虚無を誰に抉じ開けられたかなんて、言わなくとも、言われずとも。
「正直に言うし、オマエがどうしようが構わないけど」
 歯切れの悪い出だしには途方もない既視感を感じた。青々と茂る翠緑から目を離し、胡乱な目で五条さんを見上げる。サングラスの隙間から覗く瞳の方が、よほど澄んだ青色が染み渡っていた。
「これから先が術師をやっていけるとは思わない」
 予想はしていたけど、そうですねとは返せなくて喉が熱くなった。予想を軽く覆す衝撃が脳髄に火を放つ。忽ち手が付けられないほどの焼け野原へと変貌した。後に散らばっているのはきっと無数の灰燼だけだ。
 五条さんの言葉は七海が差し向けてくれた優しさと何ら変わりない、私を思うがゆえの提言だったのだろう。すべてを見通す五条さんの眼にはきっと、私の身体がどうなっているか、よく視えた筈だ。だからこそ、取り繕うことなくありのままの真実を伝えてくれた。ありがたい話だ。自分の意思では導き出せなかった解を、信頼できる先輩が齎してくれたのだから。私は遠慮なく術師の道から逸れることができる。感謝して然るべきだった。
 でも、さざめく動悸の原因はそこじゃない。雨の狭間で広がってゆく寂しさの真髄はそこにはなかった。五条さんにとって私はただ一介の後輩で、人生でいてもいなくても良いひとりに過ぎない。そんな当たり前で、けれど私にとっては無情な現実を突き付けられて、胸が詰まった。後輩ひとりが道を引き返したところで、彼にとっては憂慮して踵を返すほどのできごとではないのだ。いつだって前を向いて、その眼差しの先が脇道に逸れることはない。
 頬に縫い付けられた視線が気に障ったのか、はたまた私の腑抜けた表情が気に入らなかったのか、五条さんは露骨に顔を顰めた。
「そんな顔すんな。俺が悪いことしてるみたいだろ」
「……五条さんにも後輩を虐めてる自覚はあるんですね」
「優しい先輩のご助言だろ」
 それはそうだ。五条さんは言葉の刃先が鋭いだけで、決して不実で凶悪なひとではない。その不器用な優しさに浸って、無節操に胸を弾ませるだけの後輩でいられたら、どれだけ良かっただろう。私はもう、五条さんを見据えるときにその次元に立っていなかった。何もかもによこしまなフィルターがかかって、不純な思いが煮え滾っている。今にも吹き溢れそうなほど、全身がとても熱い。
「好きだったひとがいるんです」
 ふたりの間に静寂が生まれる前に、私はぽつりと呟きを落とした。五条さんは唇を結んだままだった。
「雨なんてお構いなしに、強引に私の手を引いてくれるひと」
 もうそのひとは私の手を引いてくれないし、時間の無駄でしかない雨宿りもしてくれないだろう。何処までも未来に向かって走り続けて、置いてけぼりになった私の心は雨に濡れて冷え切っていく。そうしていつの日か、いつになるか分からなくとも、終わりが来ればそれで良い。
 何の気なしの発露だった。しめやかな告白に、何かを求めたわけではなかった。でも、意味が付随しなくても返事を求められたわけでなくとも、五条さんは真摯なひとだから。他人の言葉を実直に受け止めて、その意思を無下にしたりはしないから。きっと捨て置けなかったのだ。震える睫毛が視界を掠めたとき、その思いが強くなった。
 唇が合わさったときの感触は冷たくて、こんなときでも神様の造形をしていた。夢ではなくて現実だという実感を齎したのは、鼻先につんのめったサングラスのフレームの存在だった。押し当てられた違和感が、五条さんの唇を受け止めている感触を際立たせる。口付けに耽る暇もなく、尾を引くこともなく、すぐに離れた唇は何も残してはくれなかった。
 あの日、五条さんにそうされて、何かが変わったということはなかった。無になった術式や残渣程度の呪力が元に戻ることはなかったし、同期が溌剌とした挨拶と共に教室に入ってくることも、休憩室で佇む先輩が柔和な笑顔で飲み物を奢ってくれることもなかった。変わり果てたものを引き留めるちからなんて、例え最強の五条さんであっても持ち得ない。だったら、あのキスに何の意味があったのだろう。五条さんは、あのキスを経て何か変化する心境があったのだろうか。
 二年の冬はあっという間だった。凍える寒気に身を震わせて、悴む手に吐息を吹きかけて、そうしているだけでもう冬は過去のものになっていた。
 三年に上がる直前、私は高専を辞めた。
 引き留めるものは何もなかった。七海も、複雑そうな面持ちで見送ってくれたけど、その心中には安堵が広がっていたように思う。硝子さんからは小振りのピアスを貰った。もう反転術式で穴が塞がることはないから、と冗談めいた理由が添えられた、一般人としての門出を祝う贈り物だった。
 五条さんとは、任務が重なって顔を合わせられなかった。期待していたわけではない。私はもう、雨の箱庭に閉ざされた恋心を置いてきたから。それが嘘か虚勢か、自分でも有耶無耶のままだった。
 初恋のひととキスをした。でも、そのキスは通り雨のようで、雨を吸って泥濘んでも明朝には元通りになる地面のようだ。何事もなく過ぎ去って、後に残るものは何もない。
 そうして時は移ろい、あの運命の日に流れ着く。