界面揺れる

02

界面揺れる

「甘いのが好きなんですね」
 ほろりと零れ落ちた一言は、閑散とする駅のホームによく響いた。
 手持ち無沙汰な片手をポケットに突っ込んで、缶コーヒーを口に寄せていた五条さんは、これでもかと眉間に皺を刻んだ。どうやら顰蹙を買ってしまったらしい。滲み出る険悪な雰囲気から、不服を申し立てたい意向がよく窺える。膝を折り畳んで、自販機から自分用の飲み物を取り出しながら「違うんですか?」と無垢を装って尋ねた。コーヒーの銘柄を隠すように缶を持ち直したところ、ばっちり網膜に焼き付けたので言い逃れはできない。
 五条さんは唇を尖らせて露骨な膨れっ面を湛えた。誰も座っていないベンチに腰を下ろして、引き締まった足を投げ出す。不機嫌の象徴なのか、いつにも増して足癖が悪い気がした。
「こっちは頭回しすぎて疲れ果ててんの。脳が糖分求めてんだよ」
「すごい術式もタダでは使えないって話ですか?」
「何を聞いてたんだよ。俺が甘いの食べようが飲もうがおかしくないって話」
 缶コーヒーのプルタブを指で引っかきながら、人ひとり分の空白を経て、五条さんの隣に座った。ようやく抉じ開けた無糖のコーヒーに口をつけて、癖になる苦味を味わう。視線を落とした先、隣から伸びる足は異次元のような長さを誇っていて、少しだけ複雑な気分になった。五条さんに散々格の違いを見せつけられた後の、更なる追撃のように思えたのだ。
 今回、廃墟に潜伏していた呪霊の祓除任務、その帯同者に五条さんが選ばれたのは単なる偶然だった。それこそ先輩の鑑のような夏油さんに、或いは頼れる同期のふたりに付き添って貰う機会は幾度となくあったけれど、五条さんとふたりだけの任務は初めてだ。さすがの私も、このひとが一介の生徒に甘んじるべきではない才知を擁していること、横暴な態度が目に付くだけで根っからの悪人ではないことくらい、ちゃんと理解していた。とは言え崇め奉るべき聖人かと問われると、そんなことはないと断言できるけども。
 任務は予定時刻よりだいぶ早く方が付いた。私が上げた成果とは言い難く、ほとんど加勢してくれた五条さんのおかげだ。私が二級相当の呪霊に苦戦しているのを見かねてか、掌印を結ぶや否や瞬く間に呪霊を蹴散らしてしまった。あくまで助っ人としての同伴だったのに、複雑な術式を使わせて疲労を蓄積させてしまったこと、我ながら不甲斐ないと思う。その件に鑑みれば、確かに私は五条さんの糖分摂取に何か物申せる立場をしていなかった。寧ろ奢らせてくださいと挙手しても差し支えないくらいだ。反省の上から反省を重ね、コーヒーを一気に呷る。舌から染み込む濃厚な味に酔いながら、自然に奢らせて貰える次の機会がないかと思いを馳せた。
 思案を遮ったのは、間もなくホームに入ってくる電車を報せるアナウンスだった。平日の昼間で、しかも廃墟は都心部からかなり離れた駅が最寄りだったこともあり、私達以外に待ち人は見当たらない。この吉報に胸を弾ませるのもまた、ふたりだけだった。磁石にくっついたみたいに重たい腰をどうにか引き上げる。役立たず極まりない醜態だったとは言え、早朝から今に及ぶまでの実戦はそれなりに神経を使った。できるだけ早く寮に戻って、疲弊した身体をベッドに投げ出してしまいたい。そんな人間の生理的欲求に駆り立てられて、鉛を埋め込まれたような身体に鞭を打った。
 そのとき、不意に手のひらの感覚が薄れた。正確に言い直すなら、掌中に収まっていた筈の冷たいアルミ缶の感覚が失われた、だ。視線を移ろわせると、同様に立ち上がった五条さんが空になった私の缶コーヒーを奪い去って、無下限で極限まで圧縮していた。豆粒ほどの大きさになったアルミは宙を舞い、見事ゴミ箱に落下する。今日は後輩身分に徹してひたすら先輩に頼りきりだ。こちらを一瞥するような五条さんの流し目と視線が交じって、羽箒で腹の底を撫で回されたような心地がした。
「ありがとうございます」
「……別に」
 軽く頭を下げると、その拍子に視線を逸らされる。顔を上げたときにはもう五条さんは前を向いていて、端正な横顔だけがこの目に映った。真っ直ぐに伸びる高い鼻筋、現実離れした色素の薄い髪、きれいに上を向く睫毛。どのパーツを切り取っても人間という個体が成せる限界を軽々越えてゆくような、繊細な美しさが織り込まれている。神秘的で、非現実的。神様が顕現したらきっと、こんなかたちを縁取るのだろう。
 でも、このひとは神様じゃない。排他的な強さに自惚れていても、そのちからを利欲に注いだりしない。今みたいに、誰かをすくい上げるためにそのちからを行使する。そういう身の振り方が染み付いている、まさしく呪術師という生業に相応しい人間なのだった。
 生ぬるい風に乗って流れ着いた電車は、車内さえもひとが疎らだった。窓から兆す陽光が眩しすぎるくらい日当たりの良い座席に腰を下ろす。何だか縁側で日向ぼっこを謳歌する飼い猫にでもなったみたい。五条さんはさしずめ、私にちょっかいをかけに来る隣家の猫だろう。目付きが悪くて不躾なのにどこか優しいペルシャを想像して、ふふと笑みが吹き溢れた。
 目を眇めている内に段々思考が空白で埋め尽くされて、狭まる視界が上下し始める。眼球の移ろいではなく、頭が前後に揺れているためだった。舟を漕ぎ始めると、どんなに意識を集中させようとも手遅れで、すっかり脳が仮眠を取る姿勢を誇示していた。疲労に空腹、加えて暖かな日差しという、睡魔が猛威を振るうには十分すぎるほどの土壌が整っていたのも敗因のひとつだろう。負けを認めるわけにはいかないという心すら、徐々に微睡んでゆく。もう駄目だ。意識も身体も前に傾きかけた寸前、その落下を引き留める手があった。
「五条……さん」
「着いたら起こすから寝てれば」
 後方から回された五条さんの手のひらによって、私の頭は彼の肩に引き寄せられていた。肩というのはやや語弊があって、身長差のせいで私の頭部はよくて上腕のあたりにしか届かない。服越しにも伝わる硬い筋肉は快眠を誘ってくれそうにないから寝心地は良くないだろう。でも、そういうことじゃなくて。五条さんの優しい一面を垣間見てしまう度、心が擽られたように落ち着かなくなる。皮膚の厚い指先が耳朶を一瞬掠めただけで熱が増幅して、代わりに眠気が引いていった。
「……重くないですか」
「重いけど」
「……」
「あのままだと誰か乗ってきたときに迷惑かかるし。良いからさっさと寝ろって」
 五条さんの言い分に間違っているところはひとつもなくて反論の余地もない。結局言い包められて、肩とも腕ともつかない身体の一部をお借りする運びとなった。終始目蓋を下ろしていたけど、そんなのは見せ掛けで、必死の取り繕いだった。吹き飛ばされた睡魔が引き返してくれる筈もなく、熱が統べる身体では安眠に耽ることなんて先ずできない。どうか触れた箇所から胸の高鳴りが伝わりませんようにと願いを託して、狸寝入りに専心していた。
 そうして一睡もできないまま肩を揺り起こされて、白々しく目覚めたふりをして、電車を降りた。
 慣れ親しんだ駅のホームに降り立つと同時に、慣れない居心地の悪さが全身を包み込む。その違和感にはすぐ気が付いた。ぱらぱらと落つる水滴が気温を低下させ、辺り一面が小雨に烟っていた。あんなに又とない晴れ模様を披露していた空も、仄暗い雨雲が広がって太陽を覆い隠している。昂ぶっていた熱を冷ますには丁度良い気温だけど、個人の都合で喜んでいるわけにもいかない。俄雨である確証なんてどこにも転がっていないから、私達はふたつの選択を迫られてしまった。雨が降り止むのを期待して待機するか、濡れることを前提に高専に向かうか。目星しい選択肢はそのふたつだ。
 改札をくぐり抜け、先陣を切っていた五条さんが立ち止まったのを見留めて、私もその隣に並び立った。煙のような白い雨がそぼ降り、間接的に視界を霞ませる。曖昧にぼやけた駅前の一景は、ビニール傘を開いて足早に駆けてゆくスーツの男性や、鞄を雨除けにして逃げ惑う女子高生など実に様々だった。さて、私達はどこに分類されようか。その意図を含ませて、五条さんに視線を投げ掛けた。
「どうしましょう。補助監の誰かを呼ぶわけにもいかないですよね」
 思い掛けず、見上げた先の五条さんはけろっとしていた。どうとでもなると尊大に構える彼に、じっと見下ろされる。失言だったのか、だとすればどの部分が失言だったかすら理解に苦しんだが、やがて五条さんは厚い唇を開いた。
「それでいいんじゃねぇの。歩くの面倒だし」
「さすがにこの程度で呼び出すのはちょっと……」
「今なんて閑散期だし、皆暇してるだろ」
 それは仰る通りだけど、だからと言って便利屋のように使い走るのも如何なものか。補助監のひと達にも予定や仕事があって、突然降って湧いた送迎に良い思いをする筈がないのだし。内心唸りながら再び俯いた。
 何か五条さんに差し出す代案を探っていたけど、これと言って声高々に提案できるほど選択肢が無数にあるわけでもない。駅に一番近いコンビニに立ち寄るのが最善の妥協案だろうか。纏まりかけた思考に不安を混じえながら、献策しようと上を向く。それとほぼ同時に風向きが変わった。軒先から垂れた雨粒が、私の鼻先に目掛けて落ちてくる。
 でも、最後まで落下することはなかった。
 視界の下端で水滴が弾けるような、飛び散るような、異質な跳ね方をしたのだ。不可思議な一瞬を目の当たりにして首を傾げる暇もない。だって、いつの間にか私の手首には誰かに掴まれる感触が被さっていた。
、行くぞ」
 それは掛け声というより宣言だった。私の介入を許さない、五条さんの大いなる意思に基づいた宣誓のようなもの。瞬きの速度よりも早く、五条さんに手を引かれて私は雨の中に飛び出した。
 間断なく注がれる細雨が全身を湿らせてゆく――ことはなかった。色も温度も匂いもない、ましてやかたちすら留めていない、奇妙な隔たりが雨露を凌いでくれている。目に見えるのは、先行く五条さんの周囲で雨粒が跳ね返っている様子だけ。そこでようやく気が付いた。無下限術式によって、今の私達は目視の適わない防護壁に取り囲まれているということ。先程落ちてくる筈だった水滴が弾け飛んだのもその影響だったのだ。多分、私と交わした会話は右から左に聞き流して、術式を使っても怪しまれないひと気が失せるタイミングを見計らっていたのだろう。すべてに得心がいった。しかし、瞳を輝かせて褒め称える暇もない。射抜いた矢の軌道のように、五条さんは真っ直ぐに先を急いでいる。
「五条さん、待って」
 足が縺れそうになって、いつ何時自分の踵でつまずきそうになるか肝を冷やしながら、五条さんを呼び止めた。たった一言で彼は凡そを察してくれたらしい。大股だった長い足は速度を落とし、ついでに歩幅も狭まる。五条さんは振り向く素振りを見せなかったけど、彼がつくり出した無限に包まれているだけで、運命共同体のような気分になった。何となく、今の彼は渋面に赤味が差しているのではないかと予感がする。何のあてにもならない、そうだったら良いなと私が望んでいるだけの予感だ。
「すみません、術式使ってもらって」
「……ほんとだよ。オマエまで範囲広げるの疲れる」
 五条さんの不貞腐れたような声が耳を打つ。緻密な操作を必要とするのだろう、複雑な術式をまたも使わせてしまったことに心苦しくなった。そうして、はっと閃く。もう随分昔のことのようだけど、私が思い悩んでいた答えが見つかった気がした。
「今度、御礼させてください。コーヒー奢ります」
「……好きにすれば」
 辺りを取り巻く雨音に紛れかねない小さな呟きだったけど、しっかり受け止めた。大袈裟なくらい声を張り上げて承諾の意を伝えると、手を引くちからが少しだけ強くなった。
 五条さんが甘めのコーヒーが好きだということも、術式のおかげで雨に濡れないし雨宿りする必要なんてないことも、すべて今日知ったことだ。すべて私がこのひとを好きになるきっかけだった。
 自然と足取りが軽くなって、鼓動が駆け足になる。今度は触れた箇所から私の喜びが伝われば良い。気付いてくれれば良いと、そう思った。