お砂糖みっつ、でも苦い

01

お砂糖みっつ、でも苦い

 濃密な雨の気配が窓の向こうから迫って来る。
 じっとりと空気を淀ませる湿気を肌で感じる頃には、激しい雨音が室内にまで侵入していた。おまけに地面に叩き付けられた水滴が、土の香りを連れて押し寄せてくる。驟雨の足音に急かされて、繙いていた文庫本を一旦脇に退けた。開けっ放しのガラス戸に手を伸ばし、外界との唯一の繋がりを遮断する。それでも、私の世界は微かな雨音に閉じ込められて、外側から濡らされてゆく。
 真夜中に突然訪れた雨粒に、心臓が浮き立っている。そう自覚がある。期待なんてさもしい感情だと理解していても、もはや習慣化してしまったこの脈動は誰にも抑えられない。立ち上がったその足で私はキッチンに向かい、電気ケトルのスイッチを入れた。戸棚からコーヒー豆を取り出し、ついでに角砂糖を詰めた小瓶を脇に添える。
 こうして万全の準備を整えたところで、あのひとがこの部屋を訪れる保証なんてひとつもない。良くて五分五分、期待を木っ端微塵に砕かれることだって予想の範疇だ。ただ彼が此処を訪ねる稀有な機会は、決まって雨の日だから。ただそれだけの理由に糸を繋いで操られるように、今日も同じ手順を踏んで豆を挽いた。
 雨は決して好きではない。湿気でうねる髪、生乾きの洗濯物、低気圧が齎す偏頭痛。書き連ねればキリがない弊害の数々に辟易することもままある。でも、ひとりの流れ者を運んでくれる雨のこと、嫌いになれないでいる。
 雨足が強くなり窓ガラスもすっかり水浸しになった頃、静寂を掻き消す呼び鈴が鳴り響いた。
「や。来ちゃった」
 全身に漆黒を纏うそのひとは、扉を開けると無邪気に片手を上げた。雨雲が連れてくる陰鬱な雰囲気にそぐわない明朗な声が、廊下によく通る。私は「お疲れ様です」と平素と変わりない声を演じて、ひとつ年上の先輩――五条さんを招き入れた。
 五条さんは傘も持っていないのに雨に打たれた痕跡がひとつも見当たらなかった。当然だ。彼の体内には、ありとあらゆる面で万能な術式が刻み込まれているのだから。すぐに破けて駄目になるビニールなんかより、よほど便利で役に立つ雨除けの手段を会得している。とは言え、さすがの無下限でも辺り一帯を覆い尽くす寒気ばかりはどうにもならないみたいだ。一瞬だけ掠めた手の甲は、この世の物とは思えない、冥界の最下層に突っ込んだかのような冷たさを孕んでいた。
「……お風呂沸かしましょうか? コーヒーならすぐ出せますけど……」
 リビングに向かうさなか、そう問うてみる。もう勝手知ったる足取りで廊下を進む五条さんを見上げると、珍しく口元が隙だらけになってた。驚愕のようなかたちを象って薄く開かれた唇は、やがてにんまり微笑を乗せる。
「それってアレ? お風呂にするか一服するか、それともってヤツ?」
 含みのある言い方で耳に吹き込まれた途端、震えが走った。外気に触れ続けた表面とは裏腹に、内部で沸騰したかのような熱い吐息が浸透してゆく。でも、それだけじゃない。五条さんの滑らかな低音に縁取られた意味を反芻して、理解が及んでしまえばもう、私はまともに立ってなどいられなかった。深読みを許してしまえば、顔から火が出そうなほど恥ずかしい文言だ。軽率に尋ねた数分前の自分を平手打ちしたくもなる。卒倒しそうになりながら、どうにか縺れる舌を回した。
「ちが、……います」
「ごめん、冗談だよ。そんなに怯えられると傷つく」
 羞恥のあまり俯きかけた私に、五条さんは待ったを掛けた。害はないと提唱するように距離を取って、言葉では優しく包み込む。まるで信用を預けられない、ちぐはぐな言行だ。そうして五条さんはリビングに繋がるドアノブを捻りながら、首を擡げて天を仰いだ。見上げれば、わざとらしさの滲む思案顔が窺える。暫く見つめていると、普段通りの胡散臭い笑顔に切り替わった。
「それじゃあコーヒーをお願いしようかな」
「分かりました。お風呂は後で?」
「そうしよう。楽しみは最後まで取っておくタイプなんだよね」
 承諾の意を伝えて、一先ず浴室に足を運んだ。先程シャワーを浴びるのと同時に掃除を済ませたばかりだから、後は浴槽に湯を張るだけだ。蛇口から迸るお湯に手のひらを当てがって、丁度の湯加減であることを確かめてから、浴室の扉を閉めた。
 五条さんがささやいた楽しみが何を指すのか、その一点に意識を向けると気がそぞろになる。キッチンに立ち、沸かしたお湯をコーヒードリッパーに注ぐだけでも一苦労だった。彼が楽しみにしているのは湯船に浸かることではなくて、更にその先の――……。ドリップして、一定の速度で滴り落ちる液体を眺めていると、そんな疚しい考えが潜り込む。単調な作業に耽れば耽るほど、ましろになった脳内は染色されやすい。不埒な思考を追い払うべくかぶりを振った。期待はここまで。足元の悪い中、私の部屋を訪ねてくれた五条さんに、これ以上何かを希うのは無作法というものだ。
 淹れたてのコーヒーからは湯気が立ち、濃厚な香りが鼻孔を擽る。注ぎ終えたコーヒーカップふたつと角砂糖をトレイに乗せ、明るい照明の真下に向かった。
 ソファに腰掛けていた五条さんは上着を脱いで、長い脚をみだりに広げていた。本来ならだらしなさが先行するその画も、モデルが良いと途端に様になってしまう。溢さないよう慎重にトレイを机に置くと、五条さんも何かを机の片隅に退けた。見れば栞を挟んだまま放置していた文庫本だった。活字を目で追う彼はあまり想像付かないけど、暇潰し程度に目を通していたのだろうか。特に気に留めることなく、頭上から覗き込んでくる五条さんを見上げた。
「お砂糖みっつで良いですか?」
「うん」
 さして尋ねる必要性はなかった。五条さんが飲み干すコーヒーは角砂糖みっつが定石だから。それでも、いつの間にか染み付いてしまった常套の問い掛けにも、彼はきっちり模範解答を差し出す。伺いを立てた通り、角砂糖みっつを褐色の水面に沈めた。すぐにかたちを喪って、スプーンによって呆気なく撹拌される。視覚では分からなくとも、このコーヒーは甘味に侵されていると、幻想に囚われた味覚がうそぶいた。
 五条さんの分を差し出すと、彼は御礼を述べてから一口啜った。洗練された所作なのに、五条さんの手がティーカップを凌駕する大きさで、絵面としては何だか奇妙な感じだ。首筋にくっきりと存在感を誇る陰影が揺れ動く。まるで喉に別の生き物を飼っているみたい。時間を置いたとは言え熱湯には違いないのに、よく飲めるなあと他人事のように感心する。猫舌の私はもう暫く待機が必要だった。
「この前自分でコーヒー淹れてみたけど、が淹れるコーヒーの方が断然美味しかったな」
 机上のソーサーにカップを戻しながら、五条さんは独り言のようにしみじみと呟いた。目元はサングラスに覆われて視認できないけれど、口唇は締まりなく綻んでいる。多忙な五条さんと細々とした作業があまり結び付かないけど、彼なら何でもそつなく熟してしまう気がした。気付けば私なんて用済みになるくらいに上達して、自分好みの美味しいコーヒーを淹れていそうだ。
「過大評価です。そんなに私、上手くないし……」
「そんなことないよ。僕の舌がもうこの味じゃないと駄目になってる」
 肌が粟立つ。私を構成する無数の細胞が、皮下で悲鳴を上げて限界を訴えていた。呼吸をするのと同じ要領で、何の気なしの殺し文句を唱えられては堪ったものじゃない。五条さんが本心からそう評価しているのか、それとも世間一般に流通するお世辞かなんて、こちらからは判別の付けようがないのに。肺の底で芽吹く浅ましい欲望に息を阻まれながら、私はコーヒーを啜った。まだ適温とは程遠くて舌がぴりと痺れる。うまく淹れられたのか自信を持てないまま、カップをソーサーに置いた。
 ふたりだけの空間に沈黙が落ちる。たゆたう静寂は決してよそよそしいものではなく、寧ろ心から温まるものだった。背後に響く雨音でさえ、よそ者風情なのに今は安寧を運んでくれる。私達にはあまり似合いでない純然なものまで、土砂降りの水流に沿って流れ着く。
「明日も雨、続きそうですね……」
 ぼんやり窓の向こうを眺めながら、唇の隙間が勝手に広がった。実際のところ、向こうなんて何も見えない。外は一寸先も窺い知れない夜半の暗闇が広がって、しかもガラスは雨に打たれて薄い膜が張っている。ただ想像しただけの、沛然と地面を穿つ雨粒を思い描いただけの空想だ。雨が取り囲んでいようとも、結局今の私達には無関係で、外の世界なんてものは虚像に過ぎない。
 ひとりでに落とした呟きを、五条さんはさも当然のように拾い上げてくれると思っていた。「そうだねえ」なんて間延びした語尾が顕著なだけの、意味のない肯定が返ってくるものだと。でも、違った。返答の代わりに差し出されたのは大きな手のひらだ。腋窩に両手の侵入を許した私の肢体は、五条さんの圧倒的な腕力によって軽々持ち上げられてしまった。ソファに腰掛けていた彼の膝元に座らされ、背後から抱き締められる。逃がさないと教え込む頑固な手のひらが腹部に回って、抵抗しようにもできない。うなじに唇を落とされて、あまつさえ吸われる感触まで受け止めてしまえば、もうまともな思考など保っていられなかった。背骨を駆け抜ける性感が、身体の内側をしとどに濡らしてゆく。
「ごじょ、さん」
「良い匂いする。もうシャワー浴びてた?」
 唇が離れて、入れ替わるように峰の高い鼻先が皮膚に触れた。まぶされる吐息にも言葉にも胸が高鳴って、脈拍が乱される。観念して浅く頷くと、鼻から抜けたような一笑が漂ってきて、それもまた羞恥を誘った。
 やがて回された両手が再び私を持ち上げて、ソファに転がされた。瞬く暇もない。サングラスを外す馴染みの仕草にも、露わになった幻想的な碧眼にも。そのすべてに目が奪われる。常軌を逸した色彩が煌めくまなこは、人間の眼球のかたちを成して、私を優しく見つめていた。どうしてこんな、勘違いを生みかねない慈しみの眼差しを向けるのだろう。どんなに肌を重ね合わせても、まだ、五条さんの内面に触れるには遠く及ばない位置にいる。
 くだらない私の感傷を払い退けるように、彼は性急に唇をひっつけた。隙間を割って入ってきた舌はすごく甘くて、でも苦い。
「お湯、あふれちゃう……」
 散々キスを降らされて、脳髄が溶け落ちてしまいそうになりながら、必死に反抗の糸口を探した。しどろもどろに紡いだ抵抗が五条さんを食い止められる筈もなかったけど、彼は可笑しそうに喉を鳴らして、緩やかに目を細める。
「それまでに終わらせるよ。汗かいた後、ふたりでゆっくり浸かろ」
 嘘ばっかり。口から出任せにも程がある。五条さんが早く終わらせてくれた前例は、記憶のどこをひっくり返しても見当たらない。いつだって強かに言い負かされて、あっという間に絆されている。浴槽から溢れるお湯を想像して打ち震えるより先に、武骨な手がスウェットの裾から忍び込んできて、間もなく思考は陥落した。触れた箇所から体温が染み込んで、皮膚の裏側までふやけてしまう感覚が、心も身体も駄目にする。もう五条さんの指先は、ぞっとするような冷気を纏ってはいなかった。
 ほとんど永続的な悪天候が、外の世界で脅威を増している。降り籠める水滴が壮大な旋律を奏でても、私の聴覚は聞く耳持たずだ。五感すべてが、見上げた先の彼に夢中になっている。私だけが駄目になってゆく。そのことが少しだけ寂しい。触れ合う以上の何かを――心まで繋がり合うことを望むのは烏滸がましくさえあると頭では理解していても、感情ばかりは抑えられない。手前勝手な望みばかりが澱のように募ってゆく。
 ふたり、雨の狭間に閉じ込められている。この時間が離れがたい安息のひとときでも、五条さんにとっては謂わば雨宿りのようなものだ。通り雨が過ぎ去れば彼は日常に帰ってしまう。一時限りの非日常。
 それでも、この雨宿りのような恋が、濁流に乗って流れ着くひとりの男が、止めどなく私の心を潤している。雨が運んでくる虚しさも寂しさも愛おしく思えるほどに、私は五条さんが好きだった。