そこはやさしい奈落

04

そこはやさしい奈落

 残暑が過ぎても尚、皮膚にじっとりと纏わりつく暑さは続いた。それに反して夜半は日中流した汗が冷え冷えとするような、仄かな寒気が伴うようになっていた。
 は人気のない廊下をぺたりぺたりと踏み歩いた。底知れない闇が辺りを覆い尽くし、頼れるしるべは足元の常夜灯のみであった。つい先日までの彼女なら闇夜のなか、ひとり出歩く行為を遂行できる胆力は備わっていなかっただろう。それは現在も然り。けれど、誰からも干渉されない空間というのは思いの外、今のの肌に馴染んだ。心に巣食う喪失感を他人が和らげることができるとは到底思えなかった。だから、ここ最近のは外界から途絶されたように静寂がたゆたう場所を好んでいた。
 お目当ての休憩所には先客がいた。
 年がら年中、目に痛い明かりと不気味なモーター音を醸し出して稼働する自販機のすぐ近くに、その人物はいた。長椅子の片隅に腰掛け、顔を俯かせている。上下黒色のラフな出で立ちは、普段目にする機会の少ない肌色や鍛え上げられた筋肉が露出していた。加えて、似合いのサングラスはシャツの襟ぐりにかけられている。窓辺から忍び込んできた月明かりが彼のしろがね色に集まり、目が眩むほどの彩を放っていた。そよそよと隙間風によって揺らぐその髪に、は暫し見入った。
 は取り出した小銭を自販機に吸い込ませ、飲料水の購入ボタンを押した。深閑で満ちていた辺りにガコンと場違いな落下音が鳴り響く。そこに座る人物はわずかにたじろぎ肩をぴくりと震わせたが、頭は持ち上がることなく、サンダルを履いた裸の爪先に一点を集中させていた。はその様相を横目に、もう一度同じ動作を繰り返した。
「座ってもいい?」
 の問い掛けに、五条は何も言わなかった。
 眼球に覆いかぶさった前髪の隙間から真意を窺うような瞳が見え隠れしていたが、彼女の懇願を無下にするでも許可を出すでもなく、再び視線の先は地面に舞い戻った。も返答を期待したわけではなかったので、人ひとり分のスペースを開けて長椅子に腰を落ち着けた。ふたりの間に、購入したての二本のペットボトルが置かれる。ひとつはがよく飲む飲料水で、もうひとつは甘ったるさが尾を引くことで悪評高いミックスジュースだ。夏場に五条が好んでよく飲んでいたことをはふと思い出して、吸い寄せられるように指先がその購入ボタンに向かっていた。
 ふたりの狭間に横たわる沈黙は途切れることなく、無機質なモーター音だけがその場に相応しいとばかりに許されていた。手付かずのペットボトルが汗をかき、流れ落ちて小さな水溜りを作り出す。時間の経過につれて徐々に肥大化するそれは、しずくとなって椅子から床に滴り落ちた。
 夏油が高専を離反して一週間が経とうとしていた。
 ふたりを、夏油の同期生であった者達を取り巻く環境は目まぐるしい変化を迎えた。こと五条と家入においては、処刑対象であるにも関わらず逃亡後の夏油を見逃したとして、尋問と監視の日々が続いた。も夏油が離反前に接触した最後の人物として強く詰問されたが、いくら記憶の糸を辿っても彼の青白い顔色と遠方に意識をやった瞳しか蘇らず、離反の動機や手掛かりにまでは思い及ばなかった。は、夏油から受けた行為については切り出さなかった。惜しげもなく続いた尋問は、上層部が何の情報も得られないと判断したのか、昨日を境に打ち切られた。監視の目は相変わらず光っていたが、高専の敷地内なら自由に歩き回って良いとの許可も下りた。深夜に部屋を飛び出してこの休憩所に足を運んだの心理は、飲み物が欲しいという物欲以上に、寮にいたくないという至極シンプルなものだった。何処かしこに夏油がいた証の残滓がちらついて、性懲りもなくの情動を揺るがしてくるものだから、堪らなくなってその場から逃げ出したくなるのだ。
 ふと、彼も同じ考えだったのだろうかとは推測した。太腿に肘をついて握り締められた五条の拳に目線が移ろう。静脈が浮かび上がるほど握力が込められていると客観的にも見て取れた。親友と過ごした密の高い三年間をどのように回顧し、それを投げ捨てられた今、どのような感情が湧き上がっているのか。には分かりようがない。それは五条と夏油のふたりだけが持ち得た記憶と感情だったから。
「……これからどうすんの」
 長きに渡って静謐がこの場を支配していたため、はその五条の問い掛けを遅れて認識した。自分に向けられたものだとは思いも寄らなかった。静かに頭が持ち上がり、虚無を彷徨っていた五条の双眸がを捉えたとき、そこでようやく言葉の矛先が己であることに気付いたのだ。
 どうするのだろう? は思案する。五条に問われなければ、その疑問に行き着くこともなかっただろう。思考は今と過去を行き来するばかりで、未来に目を向ける余裕などないに等しかった。
 夏油は、の深くに根付いていた術師としての在り方を根幹から覆した。本人にその気はなくとも、彼女にとっては人生を揺るがした神様みたいな存在に違いなかった。それなのに、彼が不要だと切り捨てた世界に、は無様にも取り残されている。教祖に踵を返された信者も同然。五条が彼女の行く末を気に掛けるのも当然なのだった。
 けれど、思いの外の心の内は凪いだ水面のように穏やかだった。理由は分からない。胸の奥底に広がる湖は混濁として薄汚い色を模しているのに、ほとりは不自然なほど静まり返っている。それこそが、が導き出した答えのような気がしていた。置かれた状況に対して夢心地であれども、一応の整理はついている。そこに付随する情動は別物として、はしっかり現実を見据えていた。この先自分がどうすべきか分からずとも、世界を生きるために残されたちからやしるべは、決してまやかしではない。
「追い掛ける放浪の旅に出ようかな」
「……笑えねー」
「うん、ほんとにね。笑えなかった」
「……は、術師やめんのかと思った」
 わざとらしく茶化してみせたの反応に、五条は不満げにぽつりと呟いた。意図せずして零れ落ちた五条の本音は、正しくの解答が笑えないことの裏付けだった。そして、その発言の裏側には、少なからずに術師を辞めて欲しくないという五条の思いが潜んでいた。以前までの互いが互いを寄せ付けようとしない関係ならば、そういう意図をが汲み取ることはなかっただろうし、そういう感情を五条が抱くことさえなかっただろう。少ない言葉数からも五条の機微を感じ取ることに成功したは、鬱屈として沈んでいた心情をほんの少し割り切ることができた。
「やめないよ。私、そんなに夏油くんに傾倒してるように見えた?」
「見えた」
「……確かに術師をやめないで頑張ろうって思えたのは夏油くんのおかげ。でも、五条くんにも言ったことだけど、自分の人生を誰かに委ねて生きたくはないから」
 五条につい息巻いてしまったあの任務の日を思い浮かべて、は天を仰いだ。埃やシミが目立つ古びた天井に視野を広げたところで何の感慨も湧く筈がない。けれど、こうまで五条に対して意を述べられるようになったのは、互いがそう在りたいと望むようになったからだ。対等にものを言う関係になりたいと思い至ったからだ。そういう感慨がひとつまみ心に落ちてきて、は可笑しくなった。夏油と距離が離れたのに、五条とは距離が縮まっている。その事実はてんで可笑しかった。
 の奇妙な様子を咎めるように、五条から劈くような視線が頬を刺した。そちらを振り向くと、いつもなら蒼く澄み渡るような深い海が広がっている五条の瞳に、暗澹たる澱みが孕んでいた。それは暗闇に塗れて翳りを帯びたせいなのか、五条の心境をそのままに反映しているからなのか。根拠もなく後者なような気がした。
「五条くんはどうするの?」
「別に。普通に術師やって、普通に人生終えるだけ」
「それができるのはきっと、君みたいに強い意思を持つひとだけだよ。普通じゃない」
「なに、褒めてんの?」
「褒めてるよ。私の目指すてっぺんにいるひとだから」
 がそううそぶくと、五条は何ともばつが悪そうに眉を寄せた。照れ隠しと紙一重の、真摯に訴え掛けるような悩ましい表情を湛えて。そのときのには何が五条の琴線に触れたのか、いまいちピンときていなかった。
「どこにも行くな」
「行かないよ、さっきのは冗談だって」
「そうじゃない」
 静寂が包む湖に、遠くから一石が投じられる。
 沈む小石はすぐに姿が見えなくなったけれど、その余波とも言える波紋は、いつまでも広がり続けた。
 の腕が引っ張られて、引き寄せられる。鎮座していたペットボトルはふたりの衝突と共に勢いよく転がり落ちた。ちっぽけな水溜りが跳ねて、飛沫を上げる。肌に吸い付いた滴はひんやりと微かな冷気を催した。
 五条に抱き締められた。その事実に直面して、は身じろぎひとつできなかった。現実を直視できないからではない。五条の抱擁を許容する心構えが即座に整えられた自分に、驚きを隠せなかったからだ。けれど、この場でこの行為に意味とか意義を紐付けることは、それこそナンセンスだと思った。
 五条は泣かなかった。も泣かなかった。
 それが、夏油が捨て置いた世界で必死に生きようとするふたりが出した、答えだった。


「ふたりって付き合ってるんですか?」
 騒がしい会話が飛び交う居酒屋で軽快に呈された疑問は、或る意味こういう俗世と交じわる場所でしかできないものだ。術師とは総じて、俗世とはかけ離れた地獄絵図のような世界を世渡りしているも同然だから、世俗的な会話が行き交う居酒屋は与太話に打ってつけの場所なのだった。
 しかしながら、予想だにしなかった話題なのは間違いあるまい。は目を瞠った。豪快にジョッキを持ち上げていた腕を下ろし、話の種として他人の恋愛事を選択した張本人に視線を向ける。の目の前には彼と、もうひとりここ最近になって地獄に舞い戻ってきた後輩が佇んでいた。後者は無頓着な話題に転じたのを良しとして、つまみのたこわさを味わい尽くしている。ちなみに前者はがその解を捻り出すのを今か今かと待ち望んでいる顔だ。その姿は得てして餌を待つ子犬を彷彿とさせた。
 このようにが恋愛絡みの探りを入れられるのは今日限りでない。無論、詮索する人物はその日その時々によって異なるが――彼女が関係を疑われる相手は十中八九決まっていた。だから、今回もその人物との間柄を指し示されていると分かっていたが、は敢えて疑問を疑問で返すことにした。
「付き合ってるとは、誰と誰のこと?」
「五条サンとサン」
「猪野くん。ふたりの詮索はあれ程無謀だと……」
「でも折角サン目の前にいるんですし! この際訊いちゃいましょうよ!」
「えぇ、なに? 普段どういう風に話されてるかの方が気になるんだけど?」
 酒飲み場の雰囲気に浸って気持ちが昂る猪野は、分かりやすく瞳を輝かせた。そこに宿るのは純然な興味ではなく、ある程度邪心の混じった好奇ではあったが、臆面もなく真っ向からぶつけられるといっそ清々しい。己が介在しない他人の恋愛ほど酒の肴にもってこいの話題もない。そういう姿勢を隠し立てしない猪野のことをは割と気に入っていた。だからと言って、飯が不味くなると言わんばかりに額に皺を寄せる七海のことが可愛くないということでもない。真面目一徹で堅物な昔ながらの後輩は、それはそれで味があるというもの。対極に位置していながらも、先輩後輩として、同僚として良好な関係を築いているふたりの姿は、の目には目映く映った。
「付き合ってないよ」
 端的に、けれど真の答えをは舌に乗せた。再びジョッキを唇に吸い寄せる。眼前から不服を申し立てるような視線が飛んできたが、この回答に付き物のそれに立腹することも心苦しく思うこともない。いくら他者から異議を唱えられようとも、の紡いだ言葉こそ紛れもない真実だった。
 飲み交わした時間はそれなりに長かったが、日付を跨ぐことなく健全なお開きとなった。各々が電車やタクシーと交通手段を選び取るさなか、は客待ちのタクシーを手際良く捕まえてふたりに手を振った。運転手に指定した行き先は、彼女の自宅とは真逆の方向だった。
 都内の高層マンションは深夜帯だと言うのにぽつぽつと明かりが灯っている。の目的地は残念ながら上層に位置しているため、目視は適わなかった。予想だが、その部屋の家主は既に就寝しているような気がしていた。タクシーの遠ざかる音を背後で捉えながら、はオートロックシステムの鍵穴に鍵を挿し込んだ。
 辿り着いた部屋の扉も、好きに使って良いと託された合鍵を使って解錠する。扉を開いて中を覗き見ると、の意に違わず、ひっそりとたゆたう空気と真っ暗で突き当たりの見えない廊下が窺えた。できるだけ物音を立てないよう精力を注ぎながら、下ろしたてのローヒールパンプスを脱いで部屋に上がり込む。廊下を進んだ先の、だだっ広いだけで生活感の乏しいリビングに、この部屋の家主はいた。お飾り程度に設置されたソファに、長い脚を突き出してみだりに横たわっている。薄暗い空間では表情を窺い知ることはできないが、安らかで規則的な寝息から眠っているのだとは判断した。その場にしゃがみ込み、わずかな陰影を頼りに彼の頬を手を添えて撫で回す。夢の底から這い上がるような呻き声と共に、閉ざされていた目蓋が持ち上がった。
「悟くん」
「…………
「遅くなってごめんね。でも、折角帰ってきてるんだし、ベッドの方がよく眠れると思うよ」
 は五条がふくよかで安眠を誘うベッドではなく、狭苦しいソファで就眠した理由を勿論察していたが、敢えてそこに言及はしなかった。
 眠気まなこを頻りに瞬かせる五条は、暗闇でも明瞭に輝く色素の薄い瞳をに移ろわせた。露骨に不機嫌を醸し出しているのが空気伝いに感じ取れる。
「……遅いし、酒臭い」
「遅いよって連絡入れたし、今謝ったのに」
「僕じゃなくて七海達を優先したのがそもそも気に食わないんだよね」
「先約は七海くん達だったんだよ。悟くん、今日こっちに帰って来れるって分かったの昨日だったじゃない」
 ぶつくさ文句を垂れ流す五条にがそれとなく釘を刺すと、渋々押し黙った。納得はしていないが、これ以上不毛な口論を重ねるのも億劫だという体の五条に、は呆れたように目を細めた。
 この界隈の頂点に君臨する特級術師たる者、割り当てられる任務は大規模なものが多い。それに連なって長期間家を留守にすることはざらである。五条は都心部のそこそこ良い値段がするマンションを借りてはいるものの、生活するためと言うよりは寝泊まりする拠点として使用することが多いため、自然に家具は必要最低限だけを置くようになった。呪いのバーゲンセールとでも称すべき繁忙期がようやく過ぎ去り、五条がこの殺風景な部屋に帰る目処が立ったのは昨晩のことだった。任務と任務の間にわずかに挟まるささやかな休息を、五条は大抵と共に過ごす時間に当てた。今回も例に倣ってそういう意図の連絡を寄越したのだが、生憎には後輩と飲み明かすという先約が入っていたのだ。そんな最強術師の休養に取るに足らない約束、ブッチしてしまえ。と性格の拗けた五条は思ったが、忠義に厚いが約束をすっぽかすこともなく、そちらを優先されて、あっという間に夜が更けたというわけだ。
 五条はその反抗声明とばかりにを自分の元に引き摺り込んだ。彼女がベッドに行けと提言したがそんなものは後回しだと言いたげに、腕を腰に回してがっちりと抱き寄せる。隙間なく密着した体躯が熱いのは、決して酒酔いのせいだけではないだろうと、五条は心の内で断言した。
「……悟くん」
「何もしないよ。それともなに? 何かして欲しい?」
「……いじけないでよ。私も寂しかったんだから、したいよ」
 五条の不在をしおらしく寂しがるの反応に、思わず喉が唸った。鼻腔に広がる彼女特有の甘い香りに、生唾を飲み込む。思考回路は邪な道筋へと一直線に駆け出していく。
 伸し掛かる重みを享受して、五条はの身体を巧みにひっくり返した。ソファの肘掛けに頭部を凭れかけさせて、四肢をソファの座面に横たえる。狼狽が洩れ出るの表情に、口の端がにやつくのを抑えられない。五条は早急な所作で唇どうしをひっつけた。舌を擦り付けて広がるアルコールの味は、苦手な筈なのにいつだって五条をやみつきにさせる。
「今日はもう、僕のことだけ考えて」
 熱い吐息をまぶすと、の皮膚が瞬く間に震え上がった。彼女のそういう初心な反応が、男心を無闇やたらに擽る反応が、五条はとても好きだった。
 にいくらそういう命令を下したところで何の強制力も持たないとは分かっていた。五条が初めてを押し倒した日に、神妙な面持ちで呟かれた「私、初めてじゃないよ」に込められた意味は、至極単純に五条に降り注がれた。彼女がこうやって下から男を見遣るとき、脳内を占有する人物はその当人だけではない。が初めてを捧げた人物が内側に巣食っていて、男を見上げる度にその情景が朧気に重なる。そうした事実が五条の心身に痛いほど沁み渡った。そして、更に五条の心を蝕むのは、その内側を貪る人物が彼にとって唯一無二の親友であるという予感だった。


 五条とが親密な間柄に発展したのは極々最近の出来事だ。
 高専を卒業してからも任務に明け暮れる毎日が続いていたが、ふたりの縁は途切れることなく、卒業後も結構な頻度で顔を合わせていた。当然ながら、そのときのふたりは積み上げてきた同期生としての関係を維持し続けていた。先に手を伸ばしたのは五条の方だ。出逢って幾度めかに迎えたの誕生日。それまでは不仲であったり多忙であったりと祝う機会が訪れなかった誕生日に、敷居の高い日本料理店を予約した五条は、静まり返った個室でに真正面から己の意思を伝えた。
、オマエが誰を好きでも構わない。それでも僕の傍にいて欲しい」
 もうその頃には、五条が意図して変えた一人称がの鼓膜によく馴染むようになっていた。
 五条は、期待する返答が紡がれる確率は良くて五分五分だろうと予測していた。慢心でも謙遜でもない。進退を繰り返してここまで辿り着いた関係に、これから先何を求めるのか。が進退どちらを選び取るのか。何れに転んでも構わない、という覚悟を五条は決めていた。つもりだった。
 それでも、が唇を歪めて瞳に悲哀の色を宿したとき、知らずの内に落胆していた。覚悟が足りなかったのだと五条は思い知った。
「……ごめんなさい。私は五条くんの隣に相応しい人間じゃない」
「はは、僕のこと買い被りすぎじゃない? それとも法に触れるような犯罪でも犯した?」
「見方によってはもっと酷いこと」
 含みを持たせたの返答に、五条は純粋に首を傾いだ。断られるならば、その理由は夏油以外にないだろうと、そう思い及んでいた。夏油を忘れられない、夏油以外に興味がない。そういう類の理由を思い描いていた。だが、の口から詳らかに語られた理由は、五条の予想を軽く覆すものだった。
「私は、夏油くんが悩んでたときに何もできなかった。それをずっと後悔してる」
「……それで?」
「それで、私はまた同じ過ちを犯してしまうんじゃないかなと思う。五条くんに対して」
「どういうこと?」
「私は五条くんの傷を塞ぐことはできても、完全に癒やすことはできない。寧ろもっと傷つけてしまうかもしれない。たくさん想ってもらっても、それを返すことができないよ」
 は海底に沈んだような顔を伏せた。ふたりだけで構成された個室の空気が淀む。呼吸をすることすら躊躇われる閉塞感が満ちていた。
 のそういう健気な甲斐甲斐しさを、五条はこれまで何度も目にしてきた。自分より他人のことを心配する。己の確固たる意志を秘めていながら、赤の他人を気に掛ける意思が先行する。元来そういう気質の持ち主だ。だから、が五条の心を慮ってこう返事をしたのも頷ける。
 ならば、その返事に満足いくかと問われると、そんなことはなかった。五条は寧ろ腸が煮えくり返りそうなほどの憤怒に駆られた。
 理由が夏油本人ならば、諦めが付いた。彼がに及ぼした数多の影響。それらを超えるほど、彼女の人生に多大に関与してきた自信はないし、これからもできる気がしなかった。五条にとって、今もこの地獄で微笑み続ける親友は、それくらい希少価値が高く、にとって崩しようのない存在だと認識していた。でも、は夏油の存在を理由にして断ったのではない。たからこそ、五条は腹立たしかった。の言い分では、まるで彼女が五条の傍にいることは悪影響だと言わんばかりの言い草だったから。今の今まで、五条自身がそう感じたことは一度たりともないと言うのに。
 が夏油に救われ続けたように、五条もに救われ続けた。
 淡い月光が射し込む休憩室で、孤独に苛まれる五条を救ったのは、紛れもなく本人だったのだ。
「僕は、オマエが傍にいてくれればそれで良い。他には何もいらないし、何も望まない」
「……五条くん、」
「傷がなんだって? 最強様の心配は階級も実力も追い付いてからにしなよ」
 五条はあくまで淡々とした態度を貫いた。の心配が無用であると己の言動で証明したかったからだ。そういう意図が介在していることを聡明な頭ではすぐに見抜いたけれど、何も言わなかった。これ以上の言及は無粋であると、言葉を介さずとも理解できた。
 その日を境に、ふたりの関係は親密と呼ぶに相応しいものへと進展した。
 大見栄を切ったものの、の節々から夏油の影がちらつく言動や行動に、何も感じないと言えば嘘になる。が夏油の存在を匂わせてくるのではなく、五条が内側に潜在する彼の面影を感じ取っていた。は五条の見えない傷を癒やそうと懸命ではあったが、無自覚に傷つけられることも確かに多かった。しかし、そういう宿命だ。望んだことだ。五条はそう割り切っていた。いつだって肌を重ね合わせる一瞬は、奇跡としか言いようがない多幸感を引き出し、五条を地獄の底から這い上がらせてくれる。その柔らかい眼差しによって導かれる。
「……悟、くん」
 甘く囁かれた声に、五条は意識を過去から現在に揺り戻した。
 の上気した頬と潤みを帯びた双眸は、五条を良くも悪くも揺さぶる。必死に抑えつけていた欲望が全身の至る所を這いずり回る。限界を訴えるように五条はの首筋に唇を寄せた。
 決して正しくはない。誰からも理解されず共感されずとも良い。そういう在り方を選び取ったのは、五条との両者が未だ孤独を抱えたままだからだ。此処にはいない第三者が、いつまでもふたりの眼裏で燻っているからだ。いくら逢瀬を重ねて心を寄せ合っても、その呪縛からは逃れようがない。
 それを望んだ。そういう顛末を予期していながら、この関係を望んだ。それで構わなかった。
 ねじ曲がった道を突き進む正しくない男女は、誰にも、そうなるきっかけを齎した男にさえも止められないほど、後戻りできない境地に望んで片足を突っ込んでいた。