鱗片に触れる

03

鱗片に触れる

 あの日、初夏の月が満ちた日、銘々に転機が訪れる。最強のふたりが打ち崩され、ただひとりの最強になった日。各々が知らずの内に孤独に向かって歩み始めた日。ただの任務遂行ならずでは片付けられない。片割れには圧倒的な挫折と絶望が、もう一方には独裁的な才能と真価が齎された。手付かずだった火種がわずかな弾みで着火し、じわりじわりと滲出するように炎が広がり後の由々しき災禍を引き起こすことになるとは、この時点では誰一人として予想だにできなかったのだ。五条にも夏油にも、にも。
 星漿体の同化にも護衛にも失敗したその足で、五条は今は亡き少女の遺体を高専に運び終えた。すると、夜蛾から高専と提携する病院に行くよう指示が下った。五条が開花させた反転術式の効用が確かなものであるか、どの程度まで肉体の再生ができるのかなど曖昧な部分が多々あるため、検査によって可能な限りを解明する名目らしい。家入の手にかかった夏油はその検査にかかる必要もないので、状況説明のために高専に残った。五条は、心を遠方に追い遣った夏油の抜け殻の有り様を気に掛けたが、今の彼に適切な慰みをすぐには思い付かなかったので、渋々病院へ向かった。補助監督の送迎車によって病院に辿り着く頃には陽が西に傾き始めており、検査は明日の朝に持ち越しとなった。若造ひとりの検査のために個室を貸し出されたことに、五条は皮肉めいた薄ら笑いを浮かべながら就眠した。目蓋を閉じてから次々と浮かび上がった今日の出来事は、そのすべてを傍らに押し退けて、一時の安息にすべての神経を注いだ。
 翌日の検査はそれなりの時間を要したが、比例して五条の反転術式の効果が信頼に値するものだという証明を得たようだ。病院専属の術師や研究員の専門用語が飛び交う気怠い報告を聞き流し、五条は昼過ぎにようやく解放された。煩わしい大人からも用途の知らない機械からも解き放たれた喜びに、うんと背伸びをしてロビーを出る。補助監督の迎えはないという夜蛾からの連絡には心底辟易としたが、タクシーを拾えば済む話だ。五条はそう画策しながら病院の入り口を抜け出た。そこで視界に飛び込んできた人影に、目を疑った。
「お疲れ様、五条くん」
「……何でここにいんの」
 だった。
 夜蛾からの報せの文面にの迎えがあるなどという情報は欠片も見当たらなかったので、少なからず五条は動揺した。
 は病院の入り口近くに鎮座する支柱に凭れかかっていた。爛々と照りつける太陽の自然光によってか、常に陰気で翳りの差す彼女とは別物に見える。は五条の姿を視認すると、野暮ったいプリーツスカートを握り締めて、悩ましげに眉を寄せていたちからを解いた。ほっと小さな溜息が唇から洩れる。
「私、今日この近くで任務に連れて行って貰ってて。任務終わりに先生から五条くんの迎えに行けって連絡があったから」
「あの脳筋ヤロー……」
「夜蛾先生がどうかした?」
「……なんでもない」
 反転術式で全快した五条を心配して、同期生を送迎係に任命する理由など一つもないだろうに。を此方に寄越したのは、命からがらで致し方ないとは言え、血が滾り平静を取り戻すことさえ一苦労だった昨日の自分を配慮したお目付け役に違いない。五条は数少ない情報からそう判断した。これは夜蛾からの寄り道せずにとっとと帰って来いとのお達しだと聡明な思考が悟っていた。
 はその律儀な性格や質素な学生身分からか、タクシーを拾うという着想そのものが抜け落ちているようで、五条の一歩先を歩いて病院の最寄り駅へと足取りを進めた。今の今まで不特定多数の衆目に晒されるだけでも気が滅入っていた五条は、更に大多数が詰め込まれた電車の車両内を想像してげんなりした。野次を飛ばせば苦い顔をして五条の希望する交通の便に変更しただろうが、そういう些細な軋轢すら今の五条には億劫だった。無言でその後をついて行くことに決め込んだのだった。
 平日の昼下がり。予想より乗客は少なく、電車に乗り込んだ当初こそ吊り革に掴まり突っ立っていたのだが、高専が立地する山奥の郊外に近付くにつれ人も疎らになった。遂に車両内が五条とだけになった段階で、ふたりは顔を見合わせて互いの意思を窺い、座席へと位置を移した。
 車窓から差し込む淡い日差しと、車体が緩徐に揺れる感覚は際限なく眠気を誘う。特に五条はぎっしり詰め込まれた過密なスケジュールを朝から熟してきたため、意識は既に散漫としていた。目蓋を開いたり閉じたりを繰り返し、着実に閉じる時間の方が延びていったときだ。
「身体とか、大丈夫?」
 が躊躇いがちにそう問うたことで、五条を蝕んでいた睡魔は一気に吹き飛び、快眠への導入は遮られた。
 今日こうしてが五条への心配を言い表したのはこれが初めてだった。それまでは先日の一件も相まって、ふたりのあわいには息苦しささえ覚える緊張で張り詰めた空気が広がっていた。だから、互いに気まずさを黙殺して必要最低限の会話に留めてきた。が自らその暗黙の了解を破り、能動的に心配してきたことで、五条の複雑に絡み合った感情の重圧が更に増長された気がした。自然と唇は歪んで、に向けられる言葉は鋭利に研ぎ澄まされる。
「別に。どうってことない」
「なら良いんだけど。……五条くん、何でも自分で気負おうとするって夏油くんが言ってたから、少し心配で」
 聴覚を司る器官がぴくりと大袈裟に反応する。五条にとってただ一人の気の置けない親友。がつらつらと押し並べる理由を聴くさなか、その親友の名だけが妙に際立って鼓膜に滑り込んできた。同時に、五条の心臓は面白い程に飛び跳ねた。別段彼女の口からその名が飛び出しても不思議ではないのに。昨日の一件で気を揉んでいるであろう夏油に、心配性のが声を掛けて、ひとりで病院へと向かった同期生の話題に自然と移行する。脳裏に浮かび上がる光景は想像の産物ではあるが、あり得なくはない、寧ろ理に適った光景だった。
 何故だか、五条はその情景を脳裏から振り払いたくて堪らなかった。五条の意思とは無関係に、脳内を占めるふたりは声を潜めて仲睦まじい関係を演出している。わざとらしく五条に見せつけるように。無論それは彼自身が生み落としたまやかしだと頭では理解していた。しかし、唇を跨いだ声は存外低くてを糾弾するような形を成していた。
「オマエに心配されるほどヤワじゃない。大体、俺が怪我しようが死のうが関係ないだろ」
「……関係なくない。私、五条くんの同級生だよ」
「それがなんだって? 、オマエあんだけ俺に言っといてよくそんな口きけるよな。オマエこそ弱っちいくせに強い奴の気持ち分かんのかよ。分かんねえだろ? 分かったような口きいて偽善ふりまいてんな」
 八つ当たりもいいところだ。かっと頭に血が昇り、五条は矢継ぎ早に言葉を捲し立てた。この憤懣は今日限りでない。先日の任務で突き付けられたの言葉が甦り、そのとき発露し損ねた鬱憤を倍返しにして晴らすかのように口が勝手に動いていた。怒涛の勢いで喚き散らすと、すぐさま後味の悪い虚しさが五条の全身を包み込んだ。隣で小さく呟かれた「ごめんなさい」の一言に、更なる悔恨が上乗せされる。それでも尚、何の謝罪も出てこない自分の体たらくに五条は心底嫌気が差した。
 こうまでに反発を示す自分の情緒を、五条は自分のことなのに理解が及べずにいた。あの日脳髄をぐらつかせたの表情は今も鮮明に眼裏に焼き付いていたし、そういう表情を金輪際見たくはないと思っていた。それなのに、だ。結果として五条は再びに心許ない非難を浴びせてしまったし、また彼女は五条に心を閉ざしてしまった。いつになっても進歩しない、それどころか後退し続ける関係。それを望んでいるわけではないのに、いつの間にかしでかして、あっという間に距離が離れている。
 そこから高専の最寄りの駅に到着するまで、五条もも一言も言葉を発さなかった。後を引く険悪な空気は途切れることなく、ふたりだけの空間に漂い続ける。ついぞその日の内に打ち払われることはなかった。


 五条との決定的な亀裂を生じた事件から一ヶ月が経過した。
 今年の梅雨入りは例年に比べてうんと遅く、ここ一週間は晴天の予報が連なっている。良いことだ。五条は梅雨が苦手だった。湿気に塗れた陰気な空気が肌を舐め回す感覚。それは、彼が実家に――五条の家にいた頃に常時感じていた、周囲から差し向けられてきた陰湿さとよく似ていた。特異な術式と眼を持つ幼子を見世物のように睨め回し、値踏みする大人達。今思い返しても辟易とする。そんな暗澹たる日々はあの頃だけで十分だと、五条はお門違いに日本風流の雨季に腹を据えていた。だから、今のこの暑くも湿っぽくもない季節は、彼の心に健やかな安息を与えた。
 そんな雲ひとつ見当たらない日本晴の真っ盛り。五条は高専の誰もいない教室から、窓の外を眺めていた。厳密に言うなれば、目線の平行線上ではなく下層を、風景だけの虚空ではなくお目当ての人物を一辺倒に眺め続けていた。机の上に乗り上げて二階の教室から彼が見下ろしていることを、照準とされた少女は気付いていない。周囲を、増してや頭上を顧みることなく、ただひたむきに目の前の能事に打ち込んでいる。自分の身丈に合った呪具を必死の形相で振り回し、飛び回る呪骸を相手に奮闘する女生徒――は、何度も攻撃を受けて地面に転がった。その度に切創や青痣を作っていたが、何度でも立ち上がり呪骸に向かって走り出す。闇雲ではなく、自分なりに戦況を見据え、自分なりの戦法を思案しながら。
 ここ最近、が鍛錬に精を出す風景は然程珍しくない。寧ろ今となっては鍛錬を積まない日の方が珍しいくらいの頻度だ。が己の力量や境遇から劣等感に苛まれ、自暴自棄に術師の端くれを努めていた頃を省みると、実に目覚ましい進歩だった。
 五条はその変化に至った理由を、の心情が移ろったわけを、直感的にだが察していた。
「なに見てるんだ?」
 五条の背後から聞き慣れた声がかかる。驚くでもなく、その声の持ち主が来訪すると予期していた五条はそちらを静かに見遣った。次いで、こちら側に来るよう促す。教室の引き戸に寄りかかって五条の様子を窺っていたその人物は、促された通り素直に窓際へと足を運んだ。
「ああ、か。最近動きが軽くなったし、呪具もよく使いこなせてる」
 来訪者である夏油は窓の外を見下ろして、そう呟いた。五条が一途に視線を注いでいた焦点をであると断定して。そして、彼女の短所や弱点が補われた身のこなしに肯定的な評価を添えて。
 夏油がを見据えるまなこがやけに燦爛と輝き、したり顔を作り出したことを五条は見逃さなかった。
「……自分の手柄だって言いたいのか?」
「何の話だ?」
「傑だろ。になんか吹き込んだの」
 五条は今日まで自分の目でしかと見届けてきた情景を思い起こし、迷いなく断言した。
 いつの日からか、が夏油に向ける視線に変化が生じた。同期生に向けるそれではなく、どこか浮ついて地に足着かない視線。けれど、それには意中の相手に抱く好意のように邪な熱が入り混じっているわけではなく、淡くて脆い憧憬に似た感情が滲み出ていた。そして同時期から、は暇さえあれば夜蛾から特製の呪骸を借りて鍛錬を積むようになった。著しすぎる、目まぐるしいまでの変わりよう。落雷が如く唐突にインスピレーションが働いての心境に変化を来したと考えるよりかは、彼女が敬慕の対象として見据える夏油が根幹を揺るがす行動を取ったと考える方がよほど自然だ。少なくともふたりの間に何かしらの事象があったのは間違いない。五条はそう踏んで声高らかに主張したのだった。
 対する夏油は、五条に示唆された行為が何たるかを瞬時に察して、ふっと空気越しに伝わる笑みを零した。いつにも増して余裕が満ち溢れている。夏油は普段こそ落ち着いて物事を見極める観察眼を擁しているが、相手がこと五条となると話は別で、怒りの沸点が彼に対しては数段低く設定されていた。煽れば煽った分だけ堪忍袋の緒を切らすのが夏油だと解釈していたため、悠然とした佇まいに五条はわずかに戸惑った。
「吹き込むなんて心外だな。アドバイスしただけさ」
「アドバイスゥ?」
「そう。随分悩んでたみたいだから自分のやりたいようにやりなって。私はそれを尊重するからってね」
「ハッ、まるで教祖様だな」
 五条は明らかになった事実に、皮肉を交えて鼻で笑った。なるほど、が夏油に心酔したわけだと、ひとりでに納得する。己が散々呪詛を振り撒き続けてできた傷跡を、親友が庇い塞ごうとしていた事実に、五条は笑いが禁じ得なかった。何とも滑稽な話である。五条が顔に貼り付けた笑みは、或る意味で自嘲する類の笑みでもあった。
「傑、オマエあいつの神様にでもなろうとしてんの」
 自分の無様な有り体を隠蔽するように、五条は夏油の行いを間接的に揶揄した。自分がやらかしてきた不始末を棚に上げて、その行為は同期生に対する言行から逸脱しているだろうと、神様気取りの親友にそう苦言を呈した。実際のところそういう経緯を辿った元凶は自分であると五条は分かっていたが、それでも口を割かずにはいられなかった。常に最強のふたりを自負し、時に張り合い続けた親友だからこそ、猛烈な負けん気が発揮された。
 夏油は五条の揶揄を受けても尚、慎み深ささえ感じる平生の表情を保っていた。それどころか、まるで五条が意図して狙った反応をわざと回避して、彼の神経を逆撫でするかのように無垢を振る舞った。
「いいや、神様は御免かな。信仰されるよりは自然体で接して欲しいしね」
「何だそれ。のこと好きなの?」
「そうだって言ったら、悟、君はどうする?」
 今の今まで強気に応対してきた五条だったが、その発言で一気に毒気が抜かれた。五条にとっての最大の急所を狙い撃ちされたも同然だったから。に対する感情を未だ適切な形で形容できない五条にとって、その詰問はされた時点で敗北の判定が出てしまうから。分かっていてその問いを投げ打った夏油は、悪びれもなく余裕が見え透いた微笑みを浮かべている。
 五条は恨めしげに夏油を睥睨した。手も足も出ない、口すら及ばない完全降伏とも言い換えられる投降のすがた。今自分が完全に夏油の掌の上で踊らされている事実を呑み下して、五条は険しく眉間に皺を寄せ、唇の端を歪めた。
「……どーもしない。勝手に神様ごっこでも恋愛ごっこでもやってろ」
「悟がそう言うなら遠慮なく」
「本気じゃないだろ」
「どうだろうね。でも、本気になっても悟は良いんだろ?」
 良いわけあるか、と口を衝いて飛び出そうになった反論は、既の所で抑えて喉奥に押し込めた。その反論は、夏油の思惑通りに事が進んだ証明になり得たからだ。夏油は五条から、に向ける感情を表明させようとしている節があった。夏油のそうする心理がてんで理解できなかったが、何れにせよ、喧嘩を吹っ掛けられた相手の意向に沿うのは得策でないと五条は判断した。尤も一番初めに喧嘩を吹っ掛けたのは他でもない五条自身だったのだが。
「ほんっとに食えない奴だよ、オマエは」
「お褒めに預かり光栄だよ」
 ふたりの会話の中で、を想起させる話題がそれ以上飛び出ることはなかった。互いにちからを認めて食えない相手だと認識しているからこそ、ふたりの利害が一致した落としどころを据えて話題を打ち切った。
 ふたりの視線を一身に受けていたは、頭上で己の話題が飛び交っていたなど微塵も想像せず、脇目も振らず地面を転げ回っていた。


 その日の夜、五条は欠伸を噛み殺しながら寮の食堂で食事にありついていた。生姜焼き定食の芳しい匂いが飢えた食欲を刺激し、見る見るうちに胃袋へと姿を消していく。食事も終盤に差し掛かった頃合いに、できれば五条が今日この日には顔を合わせたくなかった人物――が、珍しく接触を図ってきた。は手にしたトレーを五条の眼前の空きスペースに置き、同様に五条の眼前の空席に腰を下ろした。彼女は食欲をそそる生姜焼きでも湯気を立てる味噌汁でもなく、一直線に五条を見つめた。迷いも愁いも全て消し飛んだような、溌溂と漲る英気が五条を射抜く。
「五条くん、私、明日二級昇格任務なの」
「…………あっそ。精々死なないようにな」
「うん、頑張る」
 二級昇格への意気込みを五条にぶつけたは、彼の興味なさげな返事を聞き届けても尚のこと満足そうに唇を緩ませた。手を合わせて箸を持ち、生姜焼き定食を口に運び始める。一方的な宣言を受けた五条の心情は豆鉄砲を食った鳩のようだった。明日の糧になるような返答を期待していた素振りでもないが、五条相手に高らかに宣誓した理由。いくら考えても分かりようがなかった。
 はこうも五条に威勢よく話し掛けられる性分をしていなかった。自分の弱さも脆さも掛け値なしに認めて、抜きん出た才を持つ同期生から一歩も二歩も下がって謙遜する。そういう気質の人間だ。しかも、ついこの間に悪罵を浴びさせられたばかりの相手に、ぬけぬけと会話を持ち掛ける割り切った強かさを擁してはいなかった。この変化は、今まで謙りすぎていた彼女にとって決して悪い変化ではない。そう理解していても、その変革にはきっかけを齎した人物の影がどこまでも付き纏ってくるのだから、嫌にもなる。五条は蜃気楼のようにふとした瞬間浮き上がる妄想の情景を薙ぎ払い、皿を平らげようと黙々と咀嚼に勤しんだ。
 しかし、またもやの突拍子もない発言によって、それは打ち切られた。
「私ね、早く五条くんに追い付いてみせるよ。そうしたら、君にたくさん言いたいことがあるんだ」
「……ハァ?」
 世間話のように、平坦な声でが思いもよらない発言をするものだから、五条は素っ頓狂な声を上げた。目玉をひん剥いて、箸に挟んでいたトマトをぽとりと皿の上に落とす。五条の希少な狼狽える様子など気にも留めず、は美味しそうに顔を綻ばせながら生姜焼きの一切れを食していた。
 の言いたいことが、明るい話題ではないという五条の予感は誠に正しい。彼女が五条に対してそういう感情を抱くかと問われれば首を捻らざるを得ないし、ならば対極の感情を抱く方が極々自然であった。は、自ら掟を定めて、その感情を発露させて欲しいと言う。なんだって、そんな面倒なことを。五条がそう思うのもやはり自然だった。
「そんなん今言えよ」
「弱い奴に強い奴の気持ちは分からないし、分かったような口振りきかれるのも嫌なんでしょう」
「……それは、オマエが最初に言ったんだろ」
「うん、自分で決めた縛り。だから五条くんに散々言われ続けた分を言い返せるくらい、強くなるの。それまで首を洗って待ってて」
 やはりは一方的に言い放ち、それにて充足感が満たされたのか箸を動かし始めた。五条の意思なんぞ関係なく自分が決めたからやると言わんばかりに、己の意思だけを簡潔に述べた。傍から見れば身勝手で独りよがりな暴論だと捉えられても致し方ない徹底ぶり。しかし、今まで五条とが積み重ねてきた会話を顧みれば、真っ当な持論なのだった。それは五条にも分かっていた。寧ろ、彼だけが分かり得た。
 五条の胸の内で膨れ上がる感情は、彼女の意思を推測しかねる疑心でもなければ、言われっ放しの憤怒でもない。五条はとこうなることを心の片隅で望んでいた。階級や才能が上だからとか、御三家だからとか、そんなつまらない序列やしがらみに囚われない対等な関係。同期生として在るべきかたち。互いの気質や外的因子ゆえに拒み続けてきた境地に、ふたりはようやく立ち及んでいた。
 しかし、それは決して五条によって齎されたものではない。
 の自発的な改善で、更に言うなれば、その変革を齎したのは五条がよく勝手知る親友だという事実。手放しには喜べない。それどころか、彼だけは介在して欲しくなかったとさえ思うのだ。五条が唯一心を許し対抗し合えると認める存在の夏油だからこそ、余計に。
「……精々頑張れば」
 その激励が五条なりの精一杯だった。
 素気ない応援を、先程と同じようでいてわずかに込めた意味の異なる微分な差異を、は笑って享受した。五条が今までの腐っていた自分から腰を上げ、だけに任せきらず自分も歩み寄ろうとするすがたを、しかと見届けた。目映いものを慈しむように目を細めた。
 ――本気になっても悟は良いんだろ?
 今日の夏油の問い掛けが、五条の脳内でリフレインする。五条を試すようで、反応をほくそ笑むようで、どこか本気で投げ掛けているような夏油の相好が五条の脳裏を掠めた。
 良いわけがない。それが今この場で五条が認識した、紛うことなき本心から成る回答だった。
 のこの晴れ渡った笑顔を一度真正面から受けてしまえば、他の誰にも見せたくはないと、そう思ってしまっていた。