夢の底

05

夢の底

「気分でも悪い?」
 の頭上に降り注いだ声は柔らかく、やさしさを凝縮したような心地よい濃度をしていた。その声の持ち主が先日凄惨な現場を目の当たりにして消耗していた人物だとは想像が結び付かないほどに。
 誰も彼もが任務の補助やら事件の聴取やらで出払った空っぽの教室。そこにだけが取り残され、だらしなく両腕を垂れ下げて机上に突っ伏していた矢先のことだ。星漿体の件についての仔細を説明する旨で上層部に呼び出されていた筈の片割れ――夏油が、を気遣わしげに見下ろしていた。顔を伏せていかにも就寝中であるという風体を装っていただが、思考は鮮明でしっかり機能を果たしていた。だから夏油の声が鼓膜に届いたとき、空寝を忘れて反射的にうつ伏せた顔を上げていた。彼はが寝入っているわけではないと薄々察していたのか、ばっちり視線が交錯した彼女に意地悪く目を細めた。
「おはよう、
「……おはよう、夏油くん。もう終わったの?」
「ああ、私だけね。悟はまだかかりそうだ」
「そうなんだ。お疲れさま」
「ありがとう」
 夏油は疲労を体現するように肩をすくめながら、の隣の席から椅子を引いて腰を下ろした。そこは夏油の席ではなく家入の席だったが、彼女は反転術式を使える貴重な術師として別件の任務に駆り出されている。優等生らしい振る舞いが習性として身についている夏油でも普通の男子高生のように他人の席に座ることもあるのだと、は少なからず驚いた。そして、大して仲睦まじい間柄でもない一同期生の彼が、自身と対話を試みようとしている状況に関しても。椅子から横向きにはみ出された脚の末梢、薄べったい靴に包まれた爪先は一直線にの方角に向けられている。
「悟と何かあった?」
「え?」
「いや、君が悟と何かあるのは常々だけど……。昨日ふたりで帰ってきたときには特に落ち込んでたから」
 夏油の言葉は疑問の形を成していたが、ほとんど断定に近かった。確信をもって、の答えをある程度予期して雄弁に語りかける。夏油のそういった自発的で入れ込んだ接触は、意外なことにこれまでには訪れたことのないものだった。五条がからかい半分でを虚仮にする様を叱咤したり宥めたりすることはあっても、彼女の心情に深入りすることはなかったから。
 が呪術を学ぶ生活を送る上で、夏油という存在の意義は実のところ非常に大きい。代々術師を排出する家系は、幼少期からそれ相応に呪術への知識や経験が積まされている。反して非術師の家系というものはそれらが圧倒的に乏しく、呪術を認知する前段階にすら立っていないことも多い。詰まるところ、非術師の家系にある者は術師の血筋や御三家が蔓延るこの世界において肩身が狭いのだ。だからこそ、非術師の生まれである夏油の存在は、例え遠巻きに見るだけの存在であってもにとっては心強い存在だった。
 そういう事情があるからこそ、雲の上の存在であった夏油に心配された状況に、嬉しいという感情よりも申し訳ないという感情が先行した。見て見ぬふりもできない程、五条との関係が拗れて見えたという事実が夏油の言動から見え隠れして、思わずは頭を抱えたくなった。何の関係もなくしがらみもない同期生を巻き添えにしてしまったことに対して、とてつもない罪悪感が全身を襲った。
「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だよ」
 ここで否定したところで勘が冴え渡る夏油に確信を持たれている以上は無意味な所業だろう。だからと言って、昨日の全容を詳らかに開示すれば夏油の鋭い叱責の矛先は間違いなく五条に向かう。それを分かっていて明るみに出すのは告げ口のようで、気が引けるし後味も悪い。そうした思考が巡ったこともあり、は事をできるだけ穏便に済ませようと試みた。会話のひとくさりとして、否定も肯定もせず曖昧な返事を添える。
 だが、夏油の方が遥かに上手だった。が誤魔化そうとする意図を瞬時に悟った彼は、巧みに会話の流れを引き戻そうとする。
「私はそんなに頼りない?」
「え、ううん、そんなことは……」
「無理強いするつもりはないけれど。本当に辛くなったときにはいつでも話して欲しい」
 ――ちからになりたいんだ。
 そんな映画や漫画の中でしか聞いたことのない絵空事のような夏油の発言は、の心をぐっと引き寄せた。まるで万有引力だ。自分の気を攫って有無を言わさず心を傾かせる。そういう有りもしない空想のちからが、夏油の言葉には備わっているような気がした。
 だからはつい固く閉ざしていた唇を緩めてしまった。同時に、檻の中に仕舞い込んで鍵をしていた心の内をいとも容易く開いてしまっていた。
「昨日帰りに五条くんに無神経なことを言ってしまって、怒らせちゃって……」
の方から? 珍しいね、いつもは逆なのに」
「そんなことないよ。この前の任務でもついかっとなっちゃって。五条くんが助けてくれたのに、自分のことばかり考えてしまって……」
 先日の任務の一件がの頭を過った。思えば五条の怒りを頂点まで引き上げた発端は、あの日の口論に決着をつけることなく燻っていた蟠りを放置したからだ。自分で蒔いた種が回り回って不本意な終結を迎えた事実に思い及んで、は再び暗然とした心地に沈み込んだ。
「気にすることないよ。悟に普段からかっとなること言われてるだろ。お互い様さ」
「そうかな……」
「そうだよ」
 限りなくの思いに寄り添いつつも、五条を根っからの悪として罵る素振りは見せない。そういう絶妙な塩梅で夏油はに慰みの言葉を贈った。夏油は周囲の空気や関係を逸早く察して、相手を尊重した立ち回りをすることが多々ある。年相応の男子からかけ離れた、想像もつかないような大人びた視点を有している。彼の切れ長で落ち着いた瞳には、真摯的な情熱が揺らめいていて、やはりの心を鷲掴みにして離しはしなかった。発語器官は正直で、何もかもを舌に乗せて打ち明けてしまいたいと希ってしまう。
「でも私、やっぱり術師に向いてないんだと思う」
 零れ落ちた呟きは、夏油の瞳に澱みをつくった。怪訝な表情が浮かび上がったが、がそう言葉を見繕った理由を夏油は薄ら察していた。
 は目線を夏油の爪先に移ろわせて、彼の顔を視界に入れることを拒んだ。これから発露してしまう無体を嘆かわしく思われることも、哀れむような眼差しを向けられることも、どうしようもなく怖かった。
「自分が弱いなんてずっと前から分かってたんだ。分かってたのに、迷惑をかけて初めて自分の弱さが他の人を危険に晒しかねないってことに気づいた」
「……
「勝手だよね。それでも辞めたくないなんて。自分のばかみたいな矜持のためだけに術師を続けようとしてる」
 捻じれた紐の結び目をもたつく指先で解くように、は自分の心情を拙いながらも丁寧に吐露した。声は情けなく震えた。誰にも明かすことなく胸の底に沈めてきた思いの丈を、まさか他でもない彼に晒すことになるなんて。は汗ばんだ掌をぎゅっと握り締めた。俯き加減は徐々に深くなって、ついに彼女の視界には自身の膝小僧しか見えなくなった。
 許しが欲しいわけではない。けれど、誰かに聞いてほしかった。認めて欲しかった。決して純然な思いだけでこの世界を渡り歩けるわけではないのだと。そういう心理が働いたのは確かだった。
 は夏油からの発語をこわごわと待った。期待半分、不安半分。長ったらしい爪が握り締めた皮膚にめり込んで痛覚が刺激される。じくじくと、自分の言動を忌々しく祟るような痛みが局部に走る。
「……私は、の言い分が愚かだとは思わないな」
 だから、ほんのわずかな期待を超越する答えが返ってきたとき、思わず頭を持ち上げてしまっていた。
 の視界に広がる、夏油の澄み渡って凛然とした表情が、彼女の胸に真に迫ってくる。握り締めた拳を胸の前に手繰り寄せた。
「どうしてそう思ってくれるの? 私は皆みたいに強くないのに」
「……そうだね、確かにはこの世界では生き辛いかもしれないけれど、弱者が弱者であると自認することは容易じゃない。それだけ君は自分を理解しているんだ」
「それは……」
「失うものがないなら、もう後はがむしゃらに進めばいい。弱きを助け、強きを挫く。私は君の選択を尊重するし、邪魔をする悪から君を守る。強者としての使命を果たすよ。君は君らしく生きればいい」
 その夏油の言葉で、の閉鎖的で息苦しい世界は天変地異のように、瞬く間にひっくり返っていた。
 許しでもなければ慰みでもない。それは後押しだった。夏油はが立ち止まって足踏みしてばかりの状況を打破すべく、背中を押したのだ。ただの力任せではない。夏油自身がそれを支持するという、何にも代え難く揺るぎない信頼性が言葉の裏から滲み出ていた。
 夏油だけが纏うことを許された純度の高いやさしさが、の全身を包み、沁み込んでいく。目頭がじわりと熱くなった。水の膜でぼやけそうになった視界を掌で覆って、夏油から顔を背けた。背ける直前、わずかに目尻を下げて世話が焼けると言わんばかりの表情を成していたから、夏油はの情緒を汲んでしまっただろうと予感があった。
 込み上げてきた涙をやっとの思いで堪えて掌を退けると、夏油は口の端に笑みを湛えていた。悠然とした佇まいを崩すことなく、腹の前で手を組んで微笑んでいる。その振る舞いには安堵の吐息を洩らした。
「落ち着いた?」
「うん……。夏油くん、本当にありがとう」
「感謝されるようなことはしてないよ」
「そんなことない。私は救われたよ。夏油くんは誰にでも救いの手を差し伸べてくれるね」
 ――かみさまみたいだ。
 その言葉は、さすがのも同期生に掛ける言葉と乖離していると直ぐさま思い及んだから、ぐっと喉の奥に押し込めた。
「……本当に、そんなことないんだけどね」
 夏油が目を伏せて呟いた言葉を謙遜として受け止めたは、彼の裏側にひっそりと静かに潜んでいた、真の思いに気付けなかった。
 重たく閉ざされた他人の心を開けることを得意としても、自分の抑圧された心をどのように開けば良いのか分からない。持て余した負の感情は知らずの内に自分の肉体も精神も蝕んでゆく。夏油が今溺れている状況は正しくそうであったのに、それをも、夏油自身も感じ取ることはできなかった。いっときを共にした少女と家族の死を、才能を持たない者に圧倒された屈辱を、数日やそこらで昇華できる筈がなかったのに。
 は光に目が眩んでいた。夏油が人間ではない、救済を齎す神様のような存在だという確証のない空想に、目を眇めていたのだ。本当の夏油傑という男のすべてを知りも知ないで。見ようともしないで。
 真昼の陽気が満ちる教室で、不似合いな翳りを差す夏油の一瞬の表情が、今となってはよく思い出せるのに、その当時は全く視認できないでいた。


 懐かしい夢だった。
 微睡みの底から引き上げた意識は、浅瀬に寄るさざ波のようにゆらゆらと揺らいでいたが、あの一瞬の夏油の顔が頭を過ると視界が開かれた。体躯を覆っていた筈の掛け布団が床に落ちていたから、それを手探りで拾い上げて再び包まる。ひとりきりの寝室は底冷えしたような冷気が満ちていた。出ずっぱりの凍えた爪先を中に引き寄せ、赤ん坊のように丸まる。
 実際の記憶に象られたその夢は、を在りし日の学生時代に引き戻した。
 目蓋の裏側を止めどなく流れ行く記憶の軌跡を、意識が後を追っていく。辛い、悲しい、虚しい。そんな後ろめたい感情ばかりが先行していたけれど、決してそれだけではなかった。の根幹を揺るがした多くの事象が、人達が、記憶の縁で煌めいている。光が差せば影は付き物だ。彼女が享受してきたやさしく淡く、けれども凛々しさを兼ね備えた光は、影よりずっと確かであたたかい影響を与えてくれた。
 もう十年近く前の出来事を思い出したのは、それ相応の理由がある。
 昨夜、報告を受けた。仕事の場だけでなくプライベートでも顔を合わせる機会が多くなった五条から、それらの境目があやふやで不明瞭に入り混じった報告を。
 ――傑を殺した。もうあいつはこの世にいない。
 神妙な面持ちで、五条は淡々と告白をした。唯一を称してきた親友を殺めたという事後報告を。
 ショックではなかった。自分でも驚くくらい、の精神は不変を貫いた。元より夏油が離反したあの日から決心はついていた。袂を分かてば、何れこうなるさだめにあったと。違えた道を元に戻したとして、何処かで交じりあったとして、それはもう謝って済む問題ではない。ただひとりの死か、日本を危ぶませる大勢の死か。死による救済しか道はない。そういう未来をは思い描き続けていた。その未来に現実が追い付いたのが昨日だったというだけだ。
 は目蓋を閉ざした。当時の思い出が湯水のように湧き上がる度、そのぬるま湯のような温度に浸ってしまいたくなる。いつになっても足がすくんで動けなくなる惨たらしい現実の一切を切り離したくなる。この呪縛から解き放たれる日は訪れないのだろう。
 でも、一瞬だけでも夢で交じり合うことができるなら、悲惨で陰鬱とした現実も乗り越えられる。もう二度と相見えることのない夏油と、唯一巡り合いを叶えられる場所。あの日を救い出した夏油傑が、夢の底で彼女を待っている。
 それこそが、にとっての確固たる救済に他ならなかった。