ふたりの隙間を埋める溝

02

ふたりの隙間を埋める溝

 悪意を剥き出しにした露骨な暴言がその実、愛情の裏返しであるとは、発言元の本人さえも不知の事実であった。
 五条悟は、の被害者ヅラをして自分勝手に塞ぎ込む性格が嫌いだ。まるで己に価値がないとでも言うような思想も腹立たしい。自分とは正反対の出自や家柄にも対抗意識が湧く。どこか他人任せな生き方なんて論外、以ての外だ。
 何より、五条がその嫌忌を露悪的に言い渡しても尚、平然として心傷を負った様子を見せようとしないの態度は、彼が一番気に食わないものだった。
 何処に怒りの沸点があるのか気になり、五条は幾度もに憎まれ口を叩いた。それがただの罵倒へと激化する直前に、決まっていつも夏油か家入が待ったをかける。五条の嗜虐心は不完全燃焼のまま、と相対する時間は打ち切られる。彼等の甘ったれた過保護には毎度反吐が出そうになった。蝶よ花よと育てた先にの未来が確約されているわけでもないのに、どうしてそうまで贔屓にできる? 無尽蔵に湧き上がる皮肉に近い疑問を、五条は「箱入り娘かよ」と称して揶揄したことがある。相手は夏油だ。彼はその発言に対して、呆れたような、子どもを宥めるような視線を投げやった。「それは君のことかい、悟」夏油の曇りなきまなこがそう暗に示唆しているような気がしてならなくて、彼を睨め付けた。妄想の範疇であっても図星を指されるのは、あまり気持ちの良いものではない。夏油は五条の心情も含め、すべてを察しているような穏やかな顔付きで微笑むだけだ。食えない奴だと思う。それが良くも悪くも夏油傑であると、彼を余すことなく知り尽くしている五条は思う。
 結局のところ、五条がを厭う理由は、己と真反対の境涯であるところに帰結する。御三家のひとつ――五条家の生まれである五条は、生前より呪術に携わる天命にあり、古から続く腐敗しきった思潮も伝統も一身に背負うさだめにあった。御三家の名に恥じぬ術式と特異な眼に恵まれた。それを使い熟せるだけの体術と英知を養った。そして本に五条を最強たらしめる要因は、彼の何者にも侵されない自由を希求する不屈の精神であった。ひとを救う生業に正しくあるべき思想。根っからの善人というわけでもないのに、彼はごく自然にごく当たり前に、ひとを救おうとする。術師としての本懐を生まれながらにして持ち得ていた。対するは、五条の意に反する生き方を選び続けた、謂わば対極の存在だ。一般人出の出自。持たざる才知。これらに齎される自尊感情の喪失や不自由。ふたりには雪と墨ほどの差異があった。だが、五条はの事情に露ほどの興味も湧かなかったし、この価値観の相違を是正しようとも思わなかった。五条は他人の人生に干渉する程の無粋でもなければお人好しでもない。彼女の好きなように生きれば良いと思う。五条はそういう生き方をするに嫌悪を露わにすれど、否定は一切しなかった。己と反りが合わない事実を前提として、度が過ぎたちょっかいをかけるだけ。大人であればそのような悪感情とも折り合いをつけて相手と接するのが社会の常であるが、如何せん、五条の精神面は未発達の境地であった。尖った才能を手にしただけの、まだ齢十七の高校生。己のありのままの感情を発露して何がいけないというのか。そんな捻くれた考えを言い訳に、五条はをせせら笑い、時に哀れ卑しむ行為を正当化していた。


 五条とをかけ隔つ溝が決定的なものになったのは、ふたりが高専生活の二年目を迎えた晩春のことだ。
 五月病と名のつくように、この時期は大型連休明けによって倦怠感や無力感を感じる人が多い。暗鬱とした負の感情が増幅し、やがて呪いに転じる。生まれ出づる呪霊に大なり小なり個体差はあれど、各地で発生するそれは人を更なる恐怖に引き摺り込む。つまり、この時期の術師は多忙を極めていて、圧倒的に人手が足りない状況であった。学生身分という未成年の特権を擁していようとも、この界隈に身を置く以上は通用しない。年功序列ではない、確かな強さを基にした階級序列。必然的に、大多数の術師以上の力を発揮する五条は、己の身の丈相応の任務に当てられた。彼より大幅に遅れを取り、後ろを振り向いたところで姿さえ視認できないような遠方で立ち竦んでいるも共に。
 都内二十三区の中でも比較的閑散として流動人口も少ない高級住宅街に、ふたりは祓除任務のため降り立った。眼前に聳え立つは日本独特の奥ゆかしさを醸す御屋敷だ。立派な門構えから茫漠な庭園をわずかに覗くことができるが、建物は老朽化し、緑も散々に生い茂っている。いわゆる廃墟と化していた。周囲に軒を並べている住宅はいずれも煌びやかに整備された豪邸ばかりで、此処だけが不調和を生じている。だが、ふたりが真に着眼したのは廃れた様相ではなく、屋敷の奥よりうすら染み渡るおどろおどろしい呪力の気配であった。現代の住宅街にひとつ取り残された旧代の遺物。照り上がる真昼の蒼天下でも気味が悪いその屋敷は、周りの住民から負の感情を炙り出し、一身に引き受けていても可笑しくない。窓からの報告によれば昨晩から行方不明者が数人出ており、この屋敷で肝試しを行う密談をしていたとの情報も入っている。呪力を持ち得ない一般人がみすみす呪いの巣食う屋敷に入り込むなど、自殺行為も同然。一刻も早く救助に向かわねばならなかった。
 送迎車でふたりを運んだ補助監督から任務の詳細を聴いている間も、五条はまどろっこしいとしか思わなかった。自分の力を以てすれば、この程度の呪力しか享有しない雑魚など容易に片付けられる。過信でも慢心でもない、己の実力を正当に評価した上での五条の判断だ。しかし、今日はいつもと勝手が違うと分かっていた。補助監督の説明に口を挟んで早々に切り上げる野暮はせず、五条の隣で神妙な面持ちを浮かべるが納得いくまで説明を聴いてやった。足手まといとして切り捨てることも五条にはできるが、いくら気に食わないとは言え数少ない同期生を生命の危機に追いやっては目覚めが悪いというものだ。せめて自分の身ひとつくらいは自分で守れよ、という彼なりの配慮であった。
 補助監督が帳を下ろしたのを確認し、五条は颯爽と歩を進めた。長らく人が寄り付かない屋敷の筈だが、玄関前の地面には数人が通ったであろう真新しい足跡が散見される。行方不明者は十中八九、此処に忍び込んだに違いない。客観的視点と経験則からそう確信し、五条はひょいと屋敷の敷居を跨いだ。飄々と、しかし決して驕ることなく、全集中を注ぎながら。人知れず神経を研ぎ澄ます五条を、はただ追い掛けるのみであった。彼女が自分の思考を働かせる前に、大抵五条がその先を行ってしまう。一年の間に同行した任務を通して、は五条との間に広がる能力や頭脳の差を身に沁みて感じていた。だから今回のように早急な対応が求められる事案には黙って着いていく他なかった。歯痒く思えど、この劣等感が五条ではなく己のせいであるとも、彼女はよく理解していた。
 腐敗が進んだ家内は、ありとあらゆる汚物を煮詰めたような空気が漂っていた。年月の経過によるものだけではない。すぐそこまで呪霊が来ている。足を進めるごとに気を引き締める五条は、広大な居間に到達して、横たわる数人の人影を発見した。駆け寄り、呼吸や心音を確認すると、いずれも正常に動作している。本当にただの眠りに就いているだけのようだ。五条は安堵と同時に思案する。呪力の源泉地が居間であることに間違いはないが、ならばどこにその呪力を享有する呪霊はいるのかと。この頃の五条はそんな陳腐な疑問を解するより先に、呪いを祓えばみな解決という短絡的な、或る意味で手っ取り早く終結を得るスタンスであった。
「おい、俺は上見てくる。はここで待機してろ」
 二階を確認して他に生存者がいなければ、この数人を運び出して無下限呪術で屋敷ごとぶっ放せば終了だ。己の強さに裏打ちされた暴力的な解決を思案し、五条は後方で周囲を見渡していたに声を掛けた。連携とは程遠い命令であったが、は少なからず五条に頼られた事実に、瞳を瞬かせた。彼女がこくりと頷いたのを見届けて、五条は居間を後にした。
 二階にも目星い呪霊は見受けられず、生存者もいなかった。取り越し苦労に五条は頭を掻く。相も変わらず夥しい呪力の気配は階下から流れ込んでいる。その要因を考えるのは後回しだと、五条は脳内で練っていた計画に着手しようと意を決した。その瞬間、階下から土砂の崩れるような、激しい木割れの音が屋敷全体に轟いた。ベキベキという音と共に、木造の屋敷はわずかに揺れ動く。只ならぬ状況を察知して、五条は階下へと移動した。音の発信源である居間に辿り着いて見たものは、彼の予想の斜め上をいくものだった。
「……ごじょう、くん」
 居間の中心部にある木製の床が抜け落ち、地の底まで続くような筒抜けの古井戸が姿を現していた。そこから数多の低級呪霊と、飛び抜けて巨大で魑魅魍魎を圧縮したような異形が這い出てきている。考えるまでもなく、あれが呪力の発生源で間違いない。けれど、五条が気を散らしたのはそのせいではなかった。
 先の行方不明者達を後ろ手に守りを固めていたの額から多量の血が漏出し、彼女の顔を濁った赤色に塗れさせていた。
 五条の頭にかっと血が昇ったのと、順転術式でばけもの紛いの異形を捻り潰したのはほぼ同時だった。
 跡形もなく消し飛んだ雑魚に五条は然程の興味もなく、既に彼の碧眼はの姿のみを捉えていた。無言で彼女の脇に片腕を差し込み、そのまま身体を持ち上げた。呪霊が消えた今、優先して救出すべきは出血量の多いであるという判断だ。腰に手を回して支えながら歩行を促すと、彼女は五条に重心を傾けながら辿々しく歩き始めた。
 後から聞いた話だが、この屋敷は古井戸の上に被さるように建築されており、居間は丁度その古井戸の真上に位置していたようだ。古井戸の内側には数え切れない程の呪符が貼付されており、呪霊の封印として作用していたが、時間の経過と共に効力が落ちていたようだ。封印としての効力は残されておらず、呪力を押し込める作用だけが働いていたようで、それが裏目に出たらしい。が古井戸の真上を踏み込んで、今にも朽ち果てそうであった木造の床は崩壊し、溢れんばかりの呪霊が這い上がってきたというわけだ。滲む呪力を屋敷の内にあると想定していた五条には、屋敷の外――床裏に源があるとは想定外であった。
「ごめん、五条くん。ただの足手まといで……」
「……そう思うならさっさと辞めれば」
 補助監督の待つ帳の外へと向かうさなか、から零れ落ちた謝罪を、ぴしゃりと五条はねじ伏せた。驚くほど冷徹で淡々とした声に、は言葉を失った。
 これも後から気付いたことだが、その日五条は初めて他人の人生に――の人生に干渉しようとしていた。
「人間、適材適所。術式がないなら窓や補助監になれば良い。少なくとも、オマエに術師は向いてないよ」
 紛れもなく五条の本心であった。もし己がこの任務に同行せず一人で遂行する手筈になっていたら、彼女は死んでいた。絶対にだ。の階級である準二級に相当する任務ならば辛うじて熟せていたかもしれないが、彼女がそれ以上に上り詰めるビジョンは五条視点でも見えて来ない。このまま突き詰めれば繁忙期に駆り出された任務で、己の手に余る呪霊に嬲り殺されるだろう。間違いなく。
 その光景を想像して、五条は居た堪れない気持ちに陥った。ひとの死を見過ごせない良心の呵責とは少し違う。が死にゆく瞬間を、今日を通してまざまざと実感させられたからだ。彼女が無駄死にしようが関係ないと忌避し続けてきた。そんな己と乖離した内なる本心が透けて見えた気がして、異様に胸がむかむかした。
「そうだね、私もそう思う」
「分かってんなら、次誰かに迷惑かける前にとっとと補助監にでも希望出せよな」
「……五条くんは正しいね。眩しいくらいに」
「あ?」
 は五条の言葉に俯いて、唇を歪めた。そうして、彼女の空気を伝った小さな呟きは、五条の鼓膜にはしっかり届いた。皮肉としか思えない発言に、圧をかけて聞き返す。
「ねえ、五条くん。きっと君の言うことは正しいし、強さこそ正義なこの世界では君は正義で、私は間違ってるんだと思う」
「……」
「でもね、自分の愚かさに気付いても戻れない瞬間も、曲げられない瞬間もあるんだよ。私は、誰かに指図されて生きる人生は嫌だし、自分で決めた道を折り返すこともしたくない」
 ――五条くんは強いから、弱い者の気持ちなんて分からないかもしれないけど。
 吐き捨てるように付け加えられた言葉に、五条は何も言い返さなかった。言い返せなかった。彼女の真意を噛み砕けば噛み砕くほどに、口内を苦々しい味が染み渡っていく気がした。怒気でも罪責感でもないどろどろの感情が、腹の内をのたうち回っている。喉の奥でまごついていた謝罪の言葉は、ついぞ発現することはなく、元来た道へと踵を返していた。
 五条は正しい指摘をした。だが、正しい指摘がいずれもひとを正しく導くとは限らない。五条はを一瞬でも理解しようとした試しがなかった。だから、彼女はその無責任な干渉を許せなかった。の何を理解したわけでもない五条が、いったいどうして。どういう了見で、他人の人生に口を挟むというのだ。正しさだけがすべてではないと、は五条の耳元で怒鳴り散らしてやりたかった。
 五条が初めて他人に干渉した瞬間は、こうして呆気なく過ぎ去った。とても功を奏したとは言えない惨状となって、過去の産物と化して。五条はこの一瞬を一生忘れられないと思った。
「……迷惑かけてごめんなさい。五条くん、助けてくれてありがとう。今日のこと、自分なりにちゃんと考えるね」
 帳の外に抜け、補助監督の車で傷口に簡易的な処置を施されたはそう言って謝罪した。彼女も決して馬鹿ではない。己が弱いことも適性がないことも、己が一番によく理解している。五条の指摘に反発しながらも、冷静になった頭で受け止めれば、それは自分で考えて昇華すべき案件だと分かっていた。
 対する五条は、まるでそれが自分への慰みのように思えてならなくて、つい舌打ちしてしまった。苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。己に遠慮して、やむなく謝罪したのだと、そう解釈したのだ。
 この頃の五条とはとことん噛み合わなかったし、交わらなかった。互いの視線はどこか焦点が合わず、見当違いな思いを馳せてばかりだ。
「オマエの言うことは全部偽善だよ」
 そう五条は言い捨てた。また反論されるかと思ったが、は悲しみを帯びた瞳で五条を捉えて、さみしそうに微笑むだけであった。
 普段は五条の憎まれ口を涼しい顔をしてのらりくらりと躱していたが、初めて己の感情を露わにした。その光景は、五条の心臓を鷲掴むような衝撃を与えた。じくじくと身体を蝕む痛みを逃す術を知らないで、五条は送迎車から飛び降りた。屋敷の中に居残る数人を運び出さねばならない。至ってシンプルでその場に見合った理由を述べると、は納得したのか「お願いします」と言って五条を送り出した。
 居間で放置していた行方不明者を運び出そうと腰を屈めると、横たわるひとの近くにこびり付いた血飛沫が目についた。の出血によるものだ。彼女のあの惨状が思い起こされて、五条はその情景を振り払うように、一人ずつ担いで車へと戻った。
 行方不明者を警察関係者に預け、の頭部の傷口のため病院に向かう道すがら、ふたりは無言を貫いた。いつしかは車窓に頭を預けて眠りこけてしまい、五条は彼女に気付かれぬよう眺めていた。
 どうしてこうも、彼女を前にすると己を保てなくなりそうなのか。五条はその疑問の答えに気付きたくなくて自ずと瞼を閉じる。眼裏で燻るのかなしむ表情は飽きもせず、ずっと五条のこころを揺さぶっていた。