かみさまの喪失

01

かみさまの喪失

 夕刻時、何処かしらから人の呻き声が聞こえた気がして、は足を止めた。高専の校舎は古式ゆかしい造形で無闇やたらに広いが、それに反して生徒数は極わずかだ。座学の授業が終わり生徒も先生も疎らになると、校舎内は閑散と静まり返る。不気味な虚無が満ちるのだ。各方から甲高い笑い声が響いたり、己の影が非ぬ姿へと変貌したり、そういう非現実的な空想がどうしても脳裏を過ってしまう。は術師の下層を占める端くれで、人間の畏怖嫌厭の感情から成る非現実と幾度か対峙してきた。耐性はあるつもりだ。けれど、優秀な同期生と比べて二歩三歩、或いはそれ以上に遅れを取る身である。未だ奇矯な現象に顫動することは否めなかった。己ひとりの力で悪を祓う境地に達しているとは思えない自信のなさも、また拍車をかけていた。
 はごくりと唾を呑み込んで、耳を研ぎ澄ませた。長く伸びる廊下に人影は見当たらない。ということは、どこかの空き教室だろうか。風が窓を叩く音や鳥の鳴き声さえ聞こえない、異様なほど深閑とした空気を前にして、は自然に息を潜めた。すると、廊下の一番奥に位置する教室から物音がした。机と机が擦れ合うような幽かな音。一瞬の出来事だったが、聴覚に全神経を注いでいたはその音を聞き漏らすことなく捉えた。忍び足でフローリングの床を踏み歩き、扉の前に立つ。恐る恐る窓から中の様子を覗き見ると、苦しそうに悶える人影が視界に入った。は思わず、何の考えなしに、引き戸に手をかけた。
「夏油くん……?」
 は辿々しく人影の名を呼んだ。あまりに弱々しく、呟いたという表現が正しい声音。しかし、呼ばれた本人は直ぐさまの存在を認知した。術師として類稀なる優秀な能力を発揮する彼女の同期生――夏油傑。温厚で冷静で、同い年にも関わらず見ている世界が数段違うような、大人びた思想を持つ青年。は彼をそう解釈していた。それが今は、見たこともない苦悶の色を瞳に湛えてを見遣っている。額には多量の汗が滲み、神経をすり減らしたような表情で机に寄りかかる夏油の姿に、は目を疑った。現状は何一つとして把握できていないが、それを推測する時間すら惜しい。にできることは限られていた。覚束ない足取りで夏油の元に駆け寄ると、鞄からハンカチを取り出して彼のこめかみ辺りを拭った。
「夏油くん、どうしたの。大丈夫?」
「……ああ、すまない。何でもないんだ」
「何でもないって顔じゃないよ。水あるけど飲める?」
 飲みかけのペットボトルを手渡すと、夏油は暫し逡巡するようにに視線を移ろわせたが、最終的にはそれを口にした。水分を欲していたのか、喉の隆起は長らく上下に動き、液体の嚥下に努めていた。飲み終えた夏油に、は先生を呼んで来ようと提案したが、彼は頑なにそれを拒否した。
「呪霊を取り込んだときの副作用みたいなものなんだ。直に収まる」
 夏油は簡潔かつ明瞭な理由をに提示した。呪霊操術の分野に明るくない彼女でも分かるように、というより、知られないよう敢えて重要な部分を削ぎ落とした説明であった。は決して聡明ではないが迂愚でもない頭でその事実に辿り着いた。言及する野暮はしなかった。
 夏油が副作用とやらで取り乱した姿は、が想像を膨らませていた完璧な人間とは乖離して、ひどく人間じみていた。その光景にほんの少し背筋が震えた。他人の秘密を覗き見てしまったときの背徳感に近い。夏油に対して純粋な心配の他に、別の邪な感情も擁してしまったは、己の劣悪なこころを呪った。
 時間の経過に伴い、夏油の尋常でなかった発汗も収まり、青褪めていた顔色も心なしか改善された。一先ずの安息に、は安堵の溜め息を洩らす。事態の深刻化を危惧していたが、その心配も杞憂に終わった。良いことだ。は手にしていたハンカチを鞄に仕舞おうとしたが、夏油はそれを手ずから奪い取り「洗って返すよ」と乱雑にポケットにしまい込んだ。その発言とちぐはぐな所作に、彼が紳士的なのかそうでないのか判断しかねる。夏油という男は表面上は良く見せる取り繕いに長けているが、決して人格までもが菩薩のように優れているわけではないと、このときのは未だ知り得ていなかった。
 落ち着きを取り戻した夏油は教室の外を睨め上げた。照準はついぞに定めずに。
「……今日見たこと、誰にも言わないでくれないかな」
「誰にも?」
「ああ。先生にも硝子にも、悟にも」
 夏油が押し並べた人物達は、総じてよりよっぽど彼と親密な関係を築いている者達だった。故に気付く。己がこのような事態に陥ることを、夏油は誰一人として打ち明けていないのだと。即ち彼はこの状況が露呈することを良しとしないのだ。
 は慄然とした。その禁忌を犯してしまった。夏油への気遣いがその実、彼への冒涜と化していたと察したとき、ふつふつと産毛が逆立ち、冷水をぶち撒けられたように全身が震え上がっていた。
「……約束、します」
 絞り出した誓いの言葉に、夏油は「なんで敬語なんだ」と純真に微笑んだ。やさしい声とは裏腹に言葉の節々から滲み出る圧力に、は屈服して笑う他なかった。


 任務に駆り出されることが多い夏油をが久方ぶりに目にしたのは数日後のことだった。
教室で締まりのない同期生に活を入れる夏油は、誰もがよく知る等身大の夏油傑であった。あの日の夏油は幻だったのかと錯覚する程に、彼は普段通りの声色と表情でと接した。しかし、夏油は他の同期生の視線が外れた瞬間に、押収していたハンカチをに手渡した。彼女が使用する洗剤からは醸されようのないシトラスの香りが、鼻孔を擽る。先日の出来事が現実であるという幽かな証明だった。しかし、夏油自身はその現実をないものとして扱おうとしているのは明白だった。は彼の意を汲み、彼の意に順応に従った。本来ならば忘却という選択が一番正しく彼の望むところであるが、それは試すまでもなく不可能だ。完璧を体現する夏油が、唯一取り付ける島を見せてくれた瞬間を、心の奥底に留めておきたいというの身勝手な一握の願いだから。
 二度目の岐路は程なくして訪れた。夏油には非も落ち度もない。世界の秘密を知ったような気でいるが、以前までなら素通りしていた放課後の空き教室をひとつずつ一瞥するようになって、そこに偶々あの日と同じ夏油の姿を見てしまっただけ。選択権はに委ねられた。見て見ぬ振りを通すこともできた。しかし、は何の躊躇いもなく、引き戸に手をかけた。今度は目的を明確にした強靭な意思で、夏油の名を呼んだ。
 怖いもの知らずとは、少し違う。は確かにあの日の夏油に畏怖の念を抱いた。その上で彼女を突き動かす源泉が何かと問われれば、それは好奇心ではなく、背徳心だった。誰も知らない深淵をただひとり覗いてしまった。の背中を駆け上ったあくどい感情は今も尚、腹の内側で蟠っている。
 あの日と同じ流れで、困苦と物憂いに沈んだ夏油に献身を捧げたは、次に彼から浴びせられる提言を予想した。「今度からは放っておいてくれ」「最初から君に助けを乞うたつもりはない」想像上の夏油が冷徹な声で釘を刺す。は来る言葉をこわごわと待ち構えたが、それでも何か反論の一手を探していた。しかし、を襲ったのは冷淡な苦言でも鋭い視線でもなく、唐突な肩の重みだった。理解の追い付かない頭は、時間をかけて状況を理解してゆく。夏油は余りある身をかがめ、額をの肩口に寄せていた。野暮ったい高専独自の制服越しに、彼の温度が伝う術はなく、ただ遠慮がちに控えめな重量だけが感じられる。は思いがけない局面に硬直した。じっとりと掌が汗ばむ。無言を貫き通す夏油に、何か声を掛けるべきなのか、手持ち無沙汰な両手を背中に回して撫でるべきなのか。不埒に迷いはしたが、結局も無言と不動を突き抜いた。触れたのは額と肩だけで、互いの身体には巨大で確固としたあわいが広がっていたから、夏油が求めるところはこれだけなのだとは推測した。しばらくの間、静寂の溶ける空間にふたり、居座っていた。
「もし次に連絡を寄越したら、私の元に来てくれるかい」
 謎に満ちた極小の触れ合いのあと、から離れた夏油は何食わぬ顔でそう尋ねた。真意を図りかねて訝しむに、夏油はこうも付言した。「少しで良いからまた肩を貸して欲しい」と。呪霊操術の副作用の緩和と、肩を貸すことが等号で結ばれるとは到底考え付かない。ということは、夏油が求めるは症状緩和ではなく、精神面の安らぎということになる。はそこに行き着いて、更に思案の海に身を投げ打つことになってしまった。
――どうして、私?
偶然にも秘密を目撃してしまった都合の良い女だからか、はたまた、何か別の意志が介在しているのか。思い巡らしたところで無意味な所業であると、は頭の片隅で理解していた。そうして、いつぞやと同様に、また彼女は言及しない道を選んだ。己の中で消化しきれない事象であると分かっていても、夏油の意の侭に、円滑に事を運ぶ方が正しいと信じて。夏油の問いにはこくりと頷いた。「いつでも使って」と彼女が呟くと、夏油はほんのわずかにさみしさを押し殺したような笑みを浮かべた。
 夕刻時の奇異な遭逢は、そこから少しだけ続いた。
 は何をするでもなく、苦しそうに喘ぐ夏油の傍にいて、介抱して、肩を貸すだけだ。夏油は一度たりともにそれ以上の接触を要求しなかったし、強制もしなかった。ひたすらそれの繰り返し。その繰り返しのなかで判明したことがあった。夏油の言う副作用は厳密に言えば、呪霊を取り込んだ後に稀に発生する、彼の降伏させようとするちからに抗う呪霊の最後の悪足掻きみたいなものだということ。低級呪霊よりも特級や一級呪霊を対象とした祓除任務の後に、彼が苦しむ姿が多いことから推論した机上の空論であるが、は確信をもっていた。「抑えが効かないときがある」と一人でに呟いた夏油の言葉も、その推論を確たるものに底上げした。当然ながらは呪霊を取り込んだことも使役したこともない。禍々しい穢れを凝縮したかたまりの味を知らないし、体内で醜穢なばけものが暴れ回る感覚を経験した試しもない。彼の抜きん出た術式は、術師として効力を最大限発揮できても、人としてはありとあらゆる尊厳を踏み躙られる、負の遺産だ。彼が術師として生きていく以上逃れられない天命。それを全うしようと藻掻き続ける夏油に対して何もできない自分が、はただ歯痒かった。それなのに。
「これはやさしさの搾取だよ」
 寮までの帰り道。普段と変わりない道程のさなかで、夏油は普段と異なる発言をした。焼け爛れた色の夕暮れが、彼の全身を包み込み赤々と燃えている。烏の群れが一斉に鳴き交わし、不吉の予兆を想起させた。
「私はのやさしさにつけ込んで利用している。骨の髄までしゃぶり尽くすつもりの、外道だよ」
 夏油の言うやさしさがの空しい献身を指していると認識したのは、後のその発言があってからだ。
 は甚く混乱した。慰めにもならないと思っていた己の献身を、彼が予想以上に必要としていることに驚きを隠せなかった。つけ込むとか、利用するとか、彼とのささやかな触れ合いの中にそんな下衆な思想は見出だせなかった。の思い描いていた夏油と正反対の言葉は、混乱を加速させると共に、自分の行為を顧みるきっかけにもなった。何もできないのに彼の傍にいる理由。ただ夏油がそう乞うたからではなく、もっと己の根幹を成す理由だ。はふと、夏油ではないもうひとりの同期生の言葉を思い返した。「オマエの言うことは全部偽善だよ」何の負い目もなく、寧ろを傷つけようとわざと悪辣で鋭い指摘をした男。その男の言わんとすることが、ようやく理解できた気がした。
「夏油くん、私のやさしさは偽善だよ。何もできないのに、何かできることがあればって驕ってる」
「……
「だからね、夏油くんの好きなようして良いよ。私の偽りのやさしさで良いならぜんぶあげる。骨の髄までしゃぶってよ」
 今度は夏油が驚く番だった。するするとの唇から紡がれた言葉は紛うことなき本心で、いたいけに、健気に、全幅の信頼を寄せる発言だった。夏油の露悪さえも丸ごと享受して、自分を差し出そうとする。夏油にはそうまでするの心理を解することができなかった。いったい、どうしてそこまで。必然的に湧き上がる疑問を戸惑いがちに声に乗せた。知りたかったのだ。彼女の内に、己の存在はどこまで広がっているのか。
「……君にとって、私は一体何なんだい」
 ――かみさまだよ。
 の持ち得る正答は、外界に発現することなく、彼女の脳裏を掠めただけであった。
「大切なともだち」
 代わりに用意された答えは嘘ではなかった。だから、迷いも戸惑いもなく、はっきりそう答えた。には、夏油を友人として想うこころが確かにあった。それとは一線を画した感情も有していることは、この世界でただひとり、彼女だけが知り得ることだ。
 は術師の家系ではない。家の血筋を辿っても術師どころか呪力保持者すら見受けられない、一般社会におけるありふれた家庭。その中で特異的に呪霊を視認でき、人並み以上の呪力を保持して生まれ落ちたのがであった。家においては異端の存在であっても、術師界隈においては物珍しいだけで異端でも貴重でもない、ありふれた術師のひとり。この世の強者である筈の術師の中でも、は限りなく弱者に近い存在だ。術式という先天的な素質による異能を許されなかった。抜群の運動神経もなければ富んだ英知も持たず、呪具を使用することで辛くも呪霊と善戦できる程度の戦力。有り体に言えば、適性がなかった。一般社会の異端であるがゆえに転がり込んだ呪いの世界は、残酷で、辛酸で、決して快くはを受け入れなかった。この世界でしか生きる術がなかったのに、そこでも拒絶される。何たる苦行か。悔いを噛み締めながら屍と化していく術師は大勢いる。突出した才知を持たないは、きっと彼等と同じように、或いはそれ以上に凄惨な最期を迎えるのだろうと予期していた。
 けれど、在りし日の夏油がに放った言葉が、彼女の堕落的な生き方の指向を少しだけ変えた。
 ――そうだね、確かにはこの世界では生き辛いかもしれない。けれど、弱者が弱者であると自認することは容易じゃない。それだけ君は自分を理解しているんだ。失うものがないなら、もう後はがむしゃらに進めばいい。弱きを助け、強きを挫く。私は君の選択を尊重するし、邪魔をする悪から君を守る。強者としての使命を果たすよ。君は君らしく生きればいい。
 冷たくて静かで死んだような濁りの海に、一石を投じられた。夏油のやさしく語らいかける言葉に、の目頭はじわりと熱くなっていた。彼は自身を見ていたわけではないかもしれない。ただ強者である己の存在価値を、という弱者の存在を使って証明しようと言い聞かせていたのかもしれない。としては、例えそうであっても構わなかった。おざなりに身命を投げ打つ生き方に区切りを付け、己が己であるために生きる人生のしるべを垂らした夏油をは嫌いになれなかったし、好き嫌いの物差しで測れるような存在ではなくなってしまった。
あの瞬間、の中で夏油は神様へと昇格したのだ。


 ひとりのおんなの生き方を変えてしまったかみさまの選択は、すぐそこまで迫っていた。
 残暑が迸る三年生の夏、は夏油に呼び出された。いつもの空き教室ではなく男子寮の一室に。並の道徳心を兼ね備えるは、さすがに異性と隔たれた生活領域への侵入に難色を示した。しかし、もし夏油が呪霊に体内を蝕まれていたらと思うと、結局足を運ぶしかなかった。夏油が自室までの道筋を懇切丁寧にメールで教えたため、は周囲の目を懸念しながらも何とか彼の部屋に辿り着くことができた。
 夏油は、窓に隣接して置かれたベッドに浅く腰掛けていた。ノックと共に入室したを視界に捉えている筈なのに、何処かぼんやりとして、より以遠を見つめるように照準が定まっていない。シャワーを浴びた後なのか髪はわずかに湿り気を帯びていて、結われることなく、だらりと無尽蔵に垂れている。いつもの様子と違う夏油に、は少なからず身体が凍てついた。呪霊を取り込んだわけでもなさそうな彼が、どうして自分を呼び寄せたのか。が疑問を呈するより先に、夏油の低く掠れた声が室内に響いた。
「少し、話をしたいんだ」
「……うん?」
は、術師のゴールがどこにあると思う? 何であると思う?」
 夏油にしては随分と抽象的な質問であった。彼は何事も形を縁取って明瞭な言葉にして紡ぐひとだ。だから、この質問の本質をは最後まで見抜くことができなかった。
 ゴール。終点、終着、行き着くところ。術師として生きたとき、何が待っているのか。何を以てその生業を終えるのか。術師としての自分のイメージが浮ついて、未だ闇の中を彷徨っているには、答え倦ねる質問だった。
「……難しいね。でも、術師の本懐は、悪を祓い人を救う。理想論でしかないけれど、人に巣食う負のこころがなくなったときがゴールなんじゃないかな」
「……負のこころ、ね」
「自分で言ってみても馬鹿げた話だね。それができないから術師は永遠に呪いを払い続けるし、歴史を繰り返してるのに」
 だったら、と夏油は口を開こうとした。
 でも、それはが付け加えた発言によって――本懐によって遮られた。
「でも、そこで諦めるのも違う気がしてる。できないことを不必要だと退けても何の解決にもならない。……前に夏油くんが言ってくれたみたいに、私は私なりに、ひとのためにできることをしたい。それがこの世界に影響しなくても、その天寿を全うできたなら、それは次に繋がるゴールなんじゃないかな」
 の本懐は夏油の質問によって導き出されたが、その形を明らかにしたのは、自分の確かな意思によるものだ。言葉にして初めては自分が術師としてどうありたいのかに気付いた。自分を救うために術師という手段を取った。それは或る意味で正解で、別の側面から見れば間違いだ。術師の本懐が悪を祓い人を救うのならば、今まで対峙してきた悪を、自分の価値を証明するために祓ってきたは、自身しか救うことができていない。本来呪いに纏われるひとを救うこころが微塵もなかったのだ。大きな間違いだ。は認識した事実を静かに呑み下した。術師としての正しい生き方。夏油に救われて、己の価値を証明する道を選んだは、今度は自分の価値を賭けて、ひとを救わねばならない。
 が正しく進むべき道を定めた裏で、夏油は己の心に巣食う負のこころに気付いていた。
 彼女の語った思想は、つい先日夏油が語り合った、今は亡き後輩の思想に少し似ていた。ふたりが掲げる理想は術師ならば誰しも思いつくところだ。そして、夏油はその先を知ってしまった。救う対象であるひとの、強欲、醜態、下衆な生き様。純粋にひとを救おうとする灰原や、が、知らない境地。夏油はひとり深淵に立たされていた。
 そして、ふと思う。
 己がにこの境地から抜け出させて欲しかったのだと。己の選択をただ受け止めて欲しかったのだと。
 だから今彼女に向ける感情は、失望だった。
「……げ、とうくん……?」
 立ち及んでいたを引っ張り、ベッドに押し倒した。無理やり唇を押し付けて、服を剥がして、あとはもう。澱みを孕んだ海に堕ちていくだけ。
 は泣かなかった。何をされているのか理解はしているようだが、拒否を示すことも、助けを求めることもしなかった。ただ夏油を迎え入れることもしなかった。人形のように固まって、全身に走る苦痛を耐え忍ぼうと唇を噛み締めるだけ。情緒もへったくれもない、ふたりの間に聳え立つ相違が浮き彫りになるだけの性行為。何の意味も、生産性もない、泥濘のぐちゃぐちゃ。
 ――大切なともだち。
 の言葉が夏油の頭の中でずっと燻っていた。期待していたのだ。彼女の中の自分の存在がより大きく強固なものであることを。友人として片付けて欲しくなかったという、彼女の知りようがない我が儘。どうして今になってそれを思い出したのか。を想う気持ちは本物だったと自分に言い聞かせていたのだろうか。夏油には分からなかった。
 行為を終えた後、意識を失ったは四肢をシーツの海にだらりと投げていた。せめてもの償いとして布団を身体に掛ける。噛み締めていた唇から血が滲んでいたから、夏油は指でそれを拭い、舐め取った。
、これからはそのやさしさを、誰のためでもない自分に向けてくれ」
 ――君のやさしさを搾取しすぎた。毒が回るみたいに、ゆっくり蝕まれていきそうだよ。
 夏油は明け方に自室を出た。今日はとある村落の変死に纏る呪霊の祓除任務が控えていた。もう部屋を出なければならない。健やかな寝息を立てるに向けて、届く筈のない言葉を囁いた。
 夏油傑はその日、己の本音を選択した。
 そうして、のかみさまは、彼女の目の前から姿を消した。