翡翠の告解

08

翡翠の告解

 一体何のために俺は見知らぬ土地に降り立ち、見知らぬ人々の啜り泣く声をくぐり抜け、この場所に行き着いたのだろうか。分からない。ここに至るまでの冗長な過程を顧みても、その衝動の原因を突き止められない。切羽詰まって今にも破裂しそうな心臓に語りかけたところで、何も教えてくれない。ただ、そうしなければという使命感だけが、俺の両足を支配している。理屈じゃなかった。俺が為そうとすることも、アイツが為そうとすることも。
 嗅ぎ慣れた線香の匂いには辟易した。色彩の乏しい室内には気怠い空気が循環している。故人の冥福を祈るための静謐なんてものはどこにもなく、あるのはろくに事情も知らない参列者の露悪的な噂話ばかりで、反吐が出そうだ。
 前代未聞の百名余りの虐殺は、呪術界だけの事案として処理するには被害が甚大すぎたため、やむを得ず一般社会にも報道された。何かしらの圧力があったのか、未成年が引き起こした凄惨な事件にしては規模の小さい報道ばかりだったが、それでも大衆の好奇心を刺激した。しかも、この葬式は実子に殺害されたと推測される肉親を弔うものであり、参列するほどの関係者ならば騒ぎ立てたくなる心象も分からなくはない。犯人の素性を知っている俺ですら擁護できる罪状だとは到底思えない。だからこそ、余計にやり場のない怒りで胃が焼け落ちそうになる。今でもまだ、俺はこの状況を信じられないし、受け止められていない。
 そうして、囁き声の絶えない喪服の群衆から爪弾きにされたように、葬儀場の片隅に立ち尽くす少女の姿を視界に捉えた。瞬間、俺の肉体を籠絡していた使命感が泡沫のように消え去っていく。呼吸を忘れて、吐息が滞った。
 ――間に合った。まだ、生きている。肌の粟立つ感覚は武者震いなのだと気付いた。得意の眼を使うまでもない。朧気になった画質の荒い写真を想起するまでもない。本能で、彼女の正体を見抜いてみせた。
「……
 古い記憶から呼び覚ました声を真似て、重ね合わせるように呼び掛ける。その模倣行為に意図があったわけじゃない。この呼び名しか、この響きしか、彼女を表す術を知らなかった。おもむろに少女は床に伏せていた視線を持ち上げた。
 瞳の光線がぶつかり合って、弾ける音がした。真っ赤に泣き腫らした後の枯渇したまなこが静かに揺らめく。海底に落ちる月光のような仄かな光が、ぼんやりと浮き上がった。
「……さとる、さん」
 惑うことなく、少女は俺の名をそう呼んだ。繭の中に包まれたような柔らかい響きがじんわりと鼓膜に染み込む。その一言で、彼女が俺をどういった人間として解釈しているのかは想像に難くない。ただ、そこに介在しているのは彼女ではない別の人間による見解だ。少なからずバイアスがかかっている。そして、それは俺も同じだった。
 対面しての第一印象は、やはり似ていない、ということだった。つぶらな瞳も、丸みを帯びた輪郭も、喪服越しでも分かる華奢な身体付きも。身内からの偏見に違うことなく、本当にどの要素を切り抜いてもあの男の特徴とは結び付かない。同じ血が流れているという前提から疑いたくなるほどに似ても似つかない。そんな印象を抱いた。結局、俺もアイツの――傑というフィルターを通してしか、彼女を見ていなかった。
 そうして、夏油と出逢った。術師の心身を蝕み続けていた残暑がようやく引き際を覚えた、夏の瀬戸際のことだった。
 これは夏油傑というひとりの男に導かれて、結ばれて、繋がれた運命なのだろうか。傑という結び目がなければ簡単に解けてしまう運命なのだろうか。
 そうだとしたら、惨めで虚しくて、あまりに悲しすぎる。


 俺の全身を掌握していた使命は、傑の実姉にあたるの安否を確認し、保護することだった。
 傑が任務先の村民を、そして実親を手に掛けたと知らされたとき、地上に隕石が落下したような衝撃が脳天を駆け抜けた。記憶の中に溢れ返っている、俺の隣で軽快に笑っていた親友の笑顔がぐにゃりと捻じ曲がる。これは本当に現実なのか。熱に魘されて見る悪夢じゃないのか。それとも、昨日までの傑が白日夢だったとでも言うのか。あらゆる可能性が雪崩込んで脳内が錯乱するさなか、ふいに微かな違和感が去来する。思考の端に絡み付く違和感の正体は、新宿で傑と対峙し、背を向けられた後になって思い至った。
 ――私は母さん、は父さん似なんだ。
 淡いまぼろしのように霞がかった声が蘇る。自分を育て上げた親を家族という名の特別な縁から切り落とし、非術師という大多数が属する枠組みに押し込んだ。術師だけの世界をつくるということは、裏を返せば非術師を世界から排斥するということだ。傑はその世界を選択した。親だけ特別というわけにはいかない。――ならば、実姉は?
 俺の激昂を諌めて項垂れる先生からも、淡々と己の本音を連ねていく傑からも、という名前は一切出てこなかった。少なくとも今は行方知らずの両親ほど逼迫した状態ではないという証拠であり、だからこそ腑に落ちない。自ら手を下すほどの価値を見出だせない存在なのか、寧ろ自ら縁を断ち切れないほど格別の存在なのか、それとも全く別の思惑が蠢いているのか。どんなに頭を捻ったところで部外者からは見当もつかない。それでもこびり付いた奇妙な違和感は無視できず、わずかな望みに賭けて俺は傑の両親の葬儀へと足を運んだのだった。五体満足の彼女に巡り会えた時点で、この賭けには勝利したといえるだろう。俺が到着するより先に、傑の理想が一歩近付いてしまう事態もあり得たのだから。
 はこの春、地元の高校を卒業して地方の大学へと進学した。実家を出て一人暮らしを始め、ようやく新生活に慣れてきた矢先の事件だったそうだ。傑が決意を固めたとき、彼女は実家を離れていた。ただそれだけが、実姉が惨劇を免れた理由に足るのだろうか。大儀ですらあると言い放った傑が、そんな理由で彼女だけを見逃したりするものだろうか。正直、納得とは程遠かった。不自然な違和感は拭いきれず、別方向の邪推にばかり拍車がかかっていく。
 いつかに傑が吐露した通りなら、は呪霊を引き寄せてしまう体質を擁している。先天的なものか後天的なものか、そもそも本当にそんな特異な性質が内在するのか、俺の眼を以てしても判別できない。とはいえ、呪霊を目視できるという前提も組み込むなら、彼女が非術師寄りの人間でないのは明らかだ。今はまだ顕現していないだけで、生得術式が刻まれている可能性も十分あり得る。いずれ術師として開花するかもしれないを生かすことは、傑が追い求める理想への筋も通っている気がした。
 辛気臭い葬儀場から連れ出したにどこまで説明すべきか迷いに迷って、結局一から十まで事細かに打ち明けた。非術師を受容できない傑の本心、荒唐無稽に思える理想、親を殺さなければならなかった理由。俺が知りうる限りの真実を赤裸々に伝える。術師や呪術にどのくらい理解があるのか探りながら言葉を選んだが、その必要もないほど彼女は真剣に耳を傾け、動揺を抑え込むように表情筋を引き締めていた。元々感情の機微が乏しいのか、それとも葬儀が執り行われるまでの数日で、ある程度の非情な現実は覚悟できていたのか。どちらにせよ、いつ泣き崩れるかと身構えていた俺は拍子抜けした。残された人間に憐れみだの慈しみだのを押し付けるのは、それこそ傲慢かもしれない。途端に不安を煽るような自分の仰々しい言行が浅ましく思えてきて、強引に唇を縛り上げた。
「……さとるさんは、どうしてここに?」
 そんな俺の自省を阻むように、は沈黙の隙さえ与えず続けた。確かに傑の事情ばかりを明け透けにして、俺自身の事情は何も話していなかった。彼女の食い入るような目付きには、素性の知れない男への警戒というより、純粋な興味が滲んでいる。いくら事前に弟の友人と認識していたとはいえ、こうも無防備に信頼を寄せられると却って虚しいだけだ。三年近く隣に居座っていたくせに、人知れず苦悩して憔悴していた親友の内情にこれっぽっちも気付けなかった俺なんて、信頼するに値しないだろう。
 居心地の悪さに耐えきれず、俺はわざと刺々しい視線を突き返して、その盲信的な眼差しを制した。ただ、その行為は不発だった。怯えるでも目を背けるでもなく、は平然と視線を重ね合わせている。
「アンタが危ないと思って、保護しにきた」
「……保護、」
「傑がどういった狙いで見逃してるのか分からない以上、自衛も何もできない状態は危険だろ」
 人間相手には馴染みのない言葉だけに、いまひとつピンときていない様子だ。舌先で転がすだけで意図を掴み倦ねている。いかにも平和ボケした反応は、凄惨な呪いの類が関与しない平穏な人生の示唆でもあった。特殊な体質でありながら非術師らしく真っ当に育ったからは、並々ならない傑の苦労が透けて見える。高専の書庫で熱心に繙いていたあの姿は見せ掛けではなく本物で、こそ術師として家族として守り続けたかった存在なのだと痛感した。そんな彼女を今度は俺の手で守ろうとしているのだから、おかしな話だ。どんな因果の巡り合わせだというのか。
「……強制はしねぇけど、今は高専に来るのが一番良いと思う」
 俺の憶測通りに傑がを生かしておくつもりだとしても、いつ何時その心積もりが翻るか分からない以上、自衛の手段を覚えるに越したことはない。その環境として呪術高専は最適だ。簡単な結界術や護身術なら術式がなくても付け焼き刃でどうとでもなる。それに敷地内であれば、敵を感知する結界も張り巡らされているし、応戦できる手練の術師が彷徨いていることも多い。防衛機関としては十分すぎるくらいだ。いくら何百匹の呪霊を引き連れようと、まず手出しできないだろう。そういう込み入った話も含めて提案を持ち掛けると、は素直に頷いた。これで丸く収まったのに、もっと他人に疑いの目を向けろと説教したくなるほどに単純で無警戒だった。
 こうした経緯もあり、は葬儀を終えた半日後には荷物を纏めて高専に足を踏み入れていた。電車を乗り継いで高専を目指すまでの道中は静かだった。彼女の薄べったい喉からは今後の不安だとか疑問だとかは一切発露されず、代わりに空っぽの胃袋がべそをかくだけだ。だから、敢えて俺も余計な情報は仕込まなかった。例えば、呪術界は傑の離反もあって混沌の最中にあること。そのせいで肩身が狭いかもしれないこと。俺の独断で巻き込んでいること。とても有益とは言いがたい情報をわざわざ開示する必要はない。売店で手に入れたおにぎりをはにかみながら頬張る彼女を横目に、そんな不誠実なことを考えて、なけなしの良心を虐げていた。
 高専の廊下で最初に出食わしたのが担任だったのは、正直かなり恵まれている。あらゆる面倒な手順をすっ飛ばして交渉できるという点でも、複雑な事情がある彼女を見捨てるような冷酷な人柄じゃないという点でも。俺の背後から軽く会釈をした見覚えのない少女に、夜蛾先生は硬直した。けれどそれも一瞬で、訝るような蔑むような眼差しの矛先が俺へと切り替わる。休講になり自室での待機を命じていた筈の生徒が、見慣れぬ喪服姿の女性を連れて出歩いていれば、その反応が普通だろう。ただ、この形相から察するに大体の経緯には見当が付いているらしかった。溜め息混じりの「ちょっと来い」という存外落ち着いた声に導かれ、俺はその場にを置いて空き教室へと連行された。
「……彼女が救われる準備のある奴、か?」
 想定していた詰問に至る前にそんな前置きをされたから、いささか意表を突かれた。まさかつい先日俺がぼやいた呟きを引っ張り出されるとは夢にも思わなかったのだ。
 は救われたのだろうか。大切な人達を失って、新生活を捨て去って、こんな辺境地にまで追い詰められた。無事なのは命だけだ。これから先の未来だってろくに思い描けない過酷な状況に陥っている。そんな彼女を救えたと豪語できるわけがない。少なくとも今の俺には、まだ。
 口ごもって目を泳がせた俺を、先生は鋭い眼光で射竦めた。眉間には蜘蛛の巣みたいな無数の皺が寄っている。
「あの事件に関してはまだ捜査中だ。勝手な真似をするなとあれほど、」
「何も知らないですよ、彼女。傑と繋がってる線はマジでない」
 覆い被せるように毅然と主張すれば、益々先生は顔を顰めた。オマエに何が分かる、とでも言いたげな怪訝な眼差しが突き刺さる。
 傑の手から逃れて生き残った血縁者、という時点でが特殊な事例なのは明白だ。こっちの上層部は彼女が被害者を装って裏で傑と内通していると睨んでいるし、その懸念がある以上快く迎え入れたりはしないだろう。しかし、今日の対話を通して確信した。あの少女には離反の教唆も殺人の扇動も到底できない。術師の実弟がいるだけの、無知で純粋な一般人であると。今この段階では根拠のない推測に過ぎないが、その結論に至った第六感は確固たる自信を漲らせている。後はどう納得させるかではなく、どう首を縦に振らせるかの問題だ。
「非術師なんだろう。事件と関係がないにしても、ここにいれば上から袋叩きに合うのは確実だぞ」
「でも、利用価値もあるし手元に置いておいて損はない」
 そうでしょ? と口ではなく目で畳み掛ければ、忽ち先生は唇を閉ざしてだんまりになった。反論の代わりに忌々しそうな睥睨が飛んでくる。もうそれが答えも同然だった。の内側に宿る異色の体質を、才能重視の連中がみすみす捨て置くわけがない。共犯やら幇助やらの容疑があるにしても、その危険性に劣らない対価が期待できる。監視下に置くという意味合いを含めても、高専で彼女を引き取るのは双方にデメリット以上のメリットがある筈なのだ。
 まるでを商品のように扱うのは後ろめたくもあるが、この際やむを得ない。そういう浅薄で打算的な腹積もりこそが、先生の逆鱗に触れたのだろう。一瞬にして、勝ち誇った俺の発言を抑圧するほどの重厚な静謐が立ち込めた。この先生とて伊達に問題児だらけの学年を受け持っていない。見た目からは疑う余地しかない人情味を隠し持っているし、名前に違わず真っ直ぐな正義を秘めている。今にも癇癪玉が破裂しそうな雰囲気に怯んで、微かな呼気すらも喉奥にしまい込んだ。
「上層部には俺から報告する。……悟」
「なに?」
「事情がどうであれ、引き込んだのはオマエだ。その責任を忘れるな」
 無責任に引き受けたつもりは毛頭ない。けれど、その忠告のおかげで目から鱗が落ちたように俺の視界は冴え渡った。
 をただ保護するだけでは救ったことにならない。上層部から下っ端まで、呪術の世界では瘴気じみた負の感情が渦巻いている。片手で足りる数しかいない特級術師、そしてこの界隈を追放された最悪の呪詛師。それが内面を度外視して表面をなぞっただけの、この業界における傑の認識だ。俺と並んで問題児だったアイツは特殊な術式や戦績を差し引いてもよく目立ち、注目を集めていた。皮肉なことにその求心力が災いして、今となっては虚構の悪評ばかりが出回っている。そんな世界に実姉が放り込まれようものなら、敵意むきだしの狼に取り囲まれた子羊になるのは必至だろう。憎悪や怨嗟なんて生温いくらいに煮詰まった感情が、一気に彼女へと押し寄せてくる。俺が手を引いて導こうとしている世界は、そういう陰湿な人間の巣窟だ。だからこそ、先生は正面切って警告したのだ。彼女を守り抜くというならその意味を見つめ直し、責任を果たせと。
 素直じゃない俺の表情筋がどう作用したのかは分からないが、先生は気色ばむだけでそれ以上追及しなかった。巨体を翻してさっさと教室を出て行ってしまう。取り残された俺は途方に暮れて突っ立っていたが、尻込みする自分をふるい落とすように勢いよく教室を飛び出した。廊下の真ん中で立ち尽くしていたの肩が、軋んだ轟音につられて跳ね上がる。世界から見捨てられた迷子のように悄然と眼差されてしまい、胸を掻き毟られたようだった。
「……私、やっぱり歓迎されてないんじゃ」
「アンタは何も疚しいことないだろ。堂々としてろ」
 躊躇いがちに表出された懸念をぴしゃりと遮って、俺も堂々と断言した。何の支えにも励ましにもならない無愛想な返事だったのに、は面食らったようにまじろいで、それから小さく頷いた。
 どこからともなく秋めいた風が流れ込んできて、背中を押し上げた。夏が過ぎ去っていく。大事な人が欠けた秋がやって来る。身を滅ぼすような感傷を噛み締めながら、重たい足を踏み出した。所在なげに垂れ下がっている細い腕を掴んで、俺の隣へと引き寄せる。今度こそ救うために、守るために、失わないために。その覚悟を胸に刻んで、ゆっくりと歩を進めた。
 茜色の薄日が窓から差し込んで、道標のように俺達の足元を柔く照り付けている。ここ数日の絶え間ない激動を中和する、優しい光だった。