My September

07

My September

『――経緯まではお伝えできませんが、止血も完了して現在は一命を取り留めて意識レベルも回復しています。外傷の治癒も終了しましたので、差し当たってのご報告となりますが――』
 差出人さえろくに分からない事務的な一報は、電子の海を駆け抜けて私の携帯に残されていた。前頭葉が麻痺しているのだろうか、思考が全く働かない。延々と繰り返される音声が脳内に反響するだけで、その意味を理解していない。――違う。本当はただひたすらに、理解を拒んでいる。
 無人のリビングに燃える夕影が忍び込んで、足元を覆い尽くす。まるで血の海に爪先を浸しているみたいだ。豊かな想像力は拾い上げた断片的な情報を元にして、頼んでもないのに惜しみなく作用した。
 ひとりの青年がそこの血溜まりに倒れ伏している。そういう凄惨な光景が再現される。至るところに切創が刻み込まれて、青痣が浮かび上がっている。絶えず流れ出る生温い液体に反して、体表温はまるで凍死体のようにひどく冷たい。このまま何の応急処置も施されずに放置されたなら、生命活動を維持する機能が全て停止して、やがて静かに息を引き取るのだろう。そういう極限の状態に追い込まれたのだ。たったひとりの弟が、――傑が。
 禍々しい血の色が網膜を突き抜けて、視界が横転する。激しい目眩に襲われた身体は、ずるりと夕闇の中へと沈み込んだ。瞳の奥に取り憑いた幻覚が、冴え冴えと抜け目なく思考までも蝕んでいく。
 安直だった。無責任だった。時に自分を犠牲にしてでも他者の救済を優先しようとする気質の傑と、時に命を賭してでも戦い続けなければならない宿命の呪術師。この両者が結び付くのだから、いずれは生命を脅かすほどの戦局に縺れ込むだろうと、予想できない筈がなかったのに。今の今まで見落としていた。脳内からその可能性が丸ごと欠落していた。愕然として、歯を食いしばる。渇いた口内に血の味が広がった。
 軽率に、そして自己都合を挟んで、私は傑の背中を押した。傑が呪術師になる決意を固めた一因を担っていると言っても過言ではない。愛しい弟が死の淵にまで追い詰められたのは、間違いなく私にも原因があった。


 あの留守電を受けてから思考が立ち直るまでに数時間を要した上に、意を決して傑に電話を掛けても一向に繋がる気配がなかった。呪いの一切を関知しない両親は、まさか我が子が危険と隣り合わせの職務を全うして瀕死の状態だなんて夢にも思わないだろうから、相談なんてとてもできない。いくら関係者から傑の安否が保証されていても、本人から直接事情を聞けたわけではない以上、不安は募るばかりだった。
 折り返しの着信音が鳴り響いたのは、二日後の夜更けだった。胸中に立ち込めていた暗雲が薄らいでいくと同時に、心臓が大きく跳ね上がる。騒々しい脈動に急かされた指先は震えて、まともに通話を繋げるのも一苦労だった。
『驚かせただろう。ごめんね』
 開口一番、穏やかな声でまるで見当外れな謝罪が飛び出してきたものだから、思わず声を失った。急停止し損ねた吐息だけが重々しく滑り落ちる。ただ呪術師としての使命を全うしようとしただけの傑に、非も落ち度もある筈がない。無関係の私に心配をかけたというだけで、彼はこんなにも自責を感じてしまうのだ。瞳の表面が震えて、視界が歪んだ。傑はこの優しさで何度も他人を救い、何度も自分を殺してきたのだろう。これから先も、ずっと。そう考えるだけで胸が張り裂けそうだった。
 返事に窮した私の湿っぽい気配を察したのか、傑は冗談めいた口調で『怒ってる?』と注ぎ足してきた。反射的にかぶりを振る。そんなわけがない。もし憤るとしたら、その対象は思慮と知見が欠如している自分自身だ。こんな自虐的な否定に身振り手振りで必死になったところで、傑には伝わりようがない。その筈なのに、慣れ親しんだ微笑が通話口越しに漂ってきたから、張り詰めていた肩の力が一気に抜け落ちた。まさか千里眼でも習得したのだろうか。私の一挙一動を見透かしたような傑の反応に、荒んだ胸の内が懐柔されていく感覚がした。
「怒ってなんか……。それより身体は大丈夫なの?」
『平気さ。姉さんが心配することなんてひとつもない』
 その完成された返答に、喉奥が痙攣したみたいにひくついた。ほとんど余白を挟まずに断言した傑の背後には、私に要らぬ心配をさせまいとする配慮が窺える。ただ、それを牽制だと捉えてしまう捻くれた自分がぬるりと顔を覗かせた。当然ながら、私は傑の姉ではあっても呪術の世界には精通していない、呪霊を目視できるだけの一般人だ。いくら血縁者とはいえ、そんな人間に業界の機密事項を漏らしたりはできないだろう。だから、傑が巻き込まれた騒動の詳細を明かさないのも、余計な詮索をしないよう釘を刺すのも、納得はできる。それでも、身の程知らずな私は勝手に疎外感を覚えて、勝手に情けなくなっていた。
 本人から直々に連絡がきたということは、ひとまず難局は逃れて戦況は落ち着いている、という認識で良いのだろう。これ以上の言及は傑にとって負担にしかなり得ない。お節介な唇を閉ざして、やむなく引き下がった。私の杞憂を揶揄するように、まだ心臓は忙しない脈を打ち続けている。
『そっちの方はどう? この前、模試だって言ってたね』
 突発的に話題が切り替わると同時に、泥中のように息苦しかった空気が澄んでいく。これっぽっちの悪意も他意も孕んでいなさそうな傑の明朗な声は、本当に私の近況を案じているようだった。姉思いな弟を全面に出された手前、その質問を蔑ろにするわけにもいかない。乱雑に散らかっていた思考を力任せに押しのけて、狼狽していた神経を集中させた。
 高校もあっという間に最終学年を迎え、周囲は最後の夏に向かって部活に打ち込んだり模試の判定に塞ぎ込んだりと、緩やかに波立っていた。それなのに私だけが台風の目にいるような、見せかけの静穏を纏って残された時間を過ごしている。勉強を疎かにできる学力なんて微塵もないけれど、将来を見据えて机にしがみつく活力なんて露ほども湧いてこなかった。
 私の日常に傑の不在が当たり前になってから、世界は良くも悪くも単調で、当たり障りのないものになった。時間の流れが微睡みを帯びたようにゆったりで、激しく心を揺さぶられる瞬間はすっかり途絶えた。退屈とはまた違う、無心の日々が続いた。出家してあらゆる煩悩を断絶した僧侶とはこんな心境なのかもしれない。ただ、私と僧侶とで決定的に異なるのは、物理的に距離を置いたところで傑への逸脱した執着が薄れることはなかった点だ。寧ろそれだけが、陳腐な私の世界が腐り落ちるのを食い止める、最後の砦だった。
 この二年半で一度だけ、告白された同級生と付き合ったことがある。年齢に見合わないくらい謙虚で寛容で、とても誠実なひとだった。異性として意識したことはなかったけれど、こめかみの奥まで突き抜けてくる真摯な眼差しは、空虚だった私という人間を肯定してくれた。彼からこよなく注ぎ込まれる愛情は、うららかな春の日差しに似て心地良かった。でも、それで満たされることはなかった。結局、半年を待たずして私から別れを告げて、恋愛途上でその関係を締め括った。彼は何も悪くない。愛する人との追憶と幻想に縋りながら、彼の優しさを都合よく利用している不誠実な自分が、何よりも劣悪だった。最低な己の人間性に虫酸が走る一方で、彼ほどの善人にも傑以上の愛情を抱けなかった事実は、私の心に巣食っている諦念を増幅させた。
 枯れ果てる寸前のような今の日常、それが永続的に続いていく未来には、一体どれほどの価値があるのだろう。この腑抜けた人生に活路を見出せないまま、怠慢な日々を積み重ねている。
「……手応えは全然なかった。勉強サボりすぎたかも」
 長い長い記憶を辿り終えて、ようやく問い掛けに沿った返答を導き出す。杜撰な生活を送っているおかげで、先週受けた模試はもはや滑稽なくらいに歯が立たなかった。この時期に志望大学すら決めかねている体たらくにお灸を据えられたような気分だ。幻滅される覚悟で正直に白状したものの、返ってきたのは気楽な笑い声だった。
『そう言ってちゃんと勉強してるだろ。根が真面目だから』
「それ、傑のことじゃない」
 私のことになると見境なく過大評価するのは、傑の稀有な悪い癖だ。そこまで買い被られたら、恥ずかしいを通り越して居た堪れなくなる。それに実際、謙遜しておきながら本番で高得点を叩き出すタイプの秀才は傑の方だ。平均点から大きく逸れることのない、どちらかと言えば根は不真面目な私と違って。
 訪れたのは短い静寂だった。冗談っぽく指摘しただけなのに、傑が返答に詰まっていると咄嗟に分かる。私が発した言葉はそこまで難解だっただろうか。今一度内省しようとした矢先、思いも寄らない反応が跳ね返ってきた。
『姉弟だからね。血が繋がってると変なところで似るんだ』
 一語一句、そこに内在する意味を刻み込むように丁寧に、傑はそう言い切った。淡い微笑がたゆたう。直接息が触れたわけでもないのに耳元がこそばゆい。その返答をどれだけ脳内で反芻してみても、傑が仄めかした秘密を見抜くどころか認識すらできなかった。賛同しかねて首を傾ぐのみだ。
 努力と研鑽を怠らない傑が私に似ているとは到底思えないが、そんな私達に通ずるところがあるとすれば血脈以外に他ならない。漠然と、その程度の意味に捉えていた。本質をまるで掴めていないのに、勝手にそう解釈していた。
 全然似てないよ。傑の方がちゃんとしてる。用意した無難な返答は、発露されることなく喉奥に押し戻された。遮るように差し込まれた傑の声によって。
『もう切るよ。これ以上話してると、顔見たくなって困るから』
「え、待っ……傑?」
『姉さんも身体に気を付けて、無茶しないようにね』
 さらりと自分の要望だけを通話口に流し込むと、傑は一方的に電話を切ってしまった。電波の片側に取り残された私は、唖然として携帯の画面を見つめる。どんなに目を凝らしたところで、暗闇の中に傑の姿が浮かび上がってくることはない。室内に鳴り響く機械音も唐突に途切れて、余韻にさえ浸らせてくれなかった。嵐のように現れて、嵐のように去っていく。私の静穏を乱すのも整えるのも、いつだって傑の役目だ。ここにきてようやく、彼の無事を実感してほっと胸を撫で下ろしていた。
 そうして安堵に浸っていられたのも束の間だった。消息が途絶えるようなことはなかったけれど、その夏、傑は帰省しなかった。
 呪霊が絶えなくて困ってる、と部外者からは口を挟みようがない理由を持ち出されては、抗議のしようがない。それに多忙だとしても連絡の付く限り、傑の無事は保証されている。自分にそう言い聞かせて、押し付けがましい干渉を自制して、頑張りすぎないでねと返事を打った。年末には帰ってこれそう? という余計な文章は丸ごと削除して。それなのに、正月には帰るよと私の核心を捉えた一言が返ってきたものだから、変に手汗が滲んだ。千里眼を会得したという推測はあながち間違ってないのかもしれない。頭の片隅でそんなことを考える余裕が、まだこの頃には残っていた。


 傑は嘘つきの常習犯だ。字面通りに受け取ってしまえば悪口のようだけど、もちろんそんな意図は含まれていない。言うなれば、傑は優しい嘘つきだ。誰かを謗るため傷付けるためではなく、誰かを守るため傷付けないために嘘を吐く。だから、正直期待していなかった。例え学生身分ではあっても、一筋縄ではいかない特殊な稼業を請け負っている以上、カレンダー通りの休みを取得できるのかは甚だ疑問だったから。
 そんな斜に構えた先入観を裏切って、予告に違わず傑は本当に帰ってきた。年を跨いだたった二日間の帰省だとしても、声を交わすだけより肉眼で生身の健康体を確認できる方が良いに決まっている。私はもちろん、何も事情を知らず高専で勉強に明け暮れる息子の心身を慮っていた両親は、大層喜んで歓迎した。迎え入れられた傑は、血痕も傷跡もまるで見当たらない、夏油家で生まれ育った頃と変わりない純朴な表情ではにかんだ。
 年末の特番を流し見ながら年越し蕎麦を啜る大晦日のルーティンを熟して、新年の幕開けに立ち会って、家族揃って初詣に繰り出した。私の受験祈願という名目で向かった学業成就の神社は、元旦ということもあってさすがの賑わいを見せていた。人混みに圧倒されながら参拝し、お賽銭を投げ入れて両手を合わせる。欲張って溢れんばかりの願い事を神様に送り付けてしまった。無作法な人間だと鼻であしらわれても文句は言えないだろう。
「あと三週間もないのか。緊張するね」
 湯気のように真っ白の吐息が傑の横髪を揺らす。もはや禁句になりつつあるその話題によこしまな含意はなく、それどころか真剣な顔付きで吐露するものだから、何だか脱力してしまった。まるで自分の身に降りかかる一大事のような口振りの傑は、茶化しているわけではなく本当にそわついているみたいだ。
 夢も希望もないからと感傷に耽っていたアンニュイ期は、担任や両親にせっつかれて中断となった。志望大学を決めてからは遅れを取り戻すように血眼で勉強して、その甲斐あってか直近の模試でもそこそこの判定に漕ぎ着けた。誠意はなくとも勉学に打ち込めば余計な思考が紛れ込むこともなかったから、それが却って精神を安定させるのに適していた。もし仮に合格できたら、生まれ故郷を離れて地方の大学に通うことになる。初めての一人暮らしだ。これほどまでに大々的な人生の岐路という岐路に立たされたことがなくて、受験直前にして既に抜け殻になりそうだった。そんな私を見兼ねて外に連れ出してくれたおかげで、どうにか鬱々とした気分も一新できそうだ。本殿の階段を下りながら、口元を引き締める傑の横顔を見つめた。卒業に際して贈ったピアスが、今日も厚めの耳朶に我が物顔で鎮座している。
「もう今から吐きそう。代わってほしい」
「代われるものなら代わってあげたいけどね。普通に姉さんの方が受かる確率高いよ」
「やだ、やめて。私の学力見くびらないで」
「寧ろ敬ってるんだけどな」
 同じ食卓を囲んでいた頃によく交わしたくだらない会話に、当人達よりも後ろで静観していた両親の方が嬉しそうだった。私達を仲睦まじい極々平凡な姉弟として見守ってくれる両親の姿には、胸が掻きむしられたような心地になる。唇によく馴染んでいる言葉の応酬は、きっとこれから先、徐々に私達の狭間から抜け落ちていくのだろう。どんなに親密な姉弟であっても、距離と時間による風化は免れない。私達もそうなる。そうでないといけない。受験以上に、心の底に根差した異常な執着から解放されることを、密かに切実に望んでいた。
 境内に並ぶ屋台を散策しに行った両親を送り出して、私と傑は御守りと絵馬を目当てに社務所へと足を運んだ。お互い示し合わせたわけでもないのに、私は厄除、傑は必勝祈願の御守りを手にして戻ってきた。腹が捩れるくらい笑い合いながら、それを交換する。御守りを後生大事そうに眼差しながら「私の元に呪霊が寄り付かなかったから、それはそれで困るんだけどね」と呟いた傑は、どこか切なげに唇を緩ませた。
 肩を並べて絵馬を書き終えると、同じように隣り合った場所に吊るした。だらしなく間延びした文字の「志望校に合格できますように」と、厳格に整った文字の「周りが健やかに過ごせますように」から、ふたつの書き手が姉弟である事実を嗅ぎ当てられる猛者はまずいないだろう。何もかもが真逆で正反対だ。私は受験生として模範的な願い事のつもりだけど、隣にこんな高潔な絵馬がぶら下がっていたら、途端に安直で俗っぽい人間のように思えてくる。肩身が狭そうに気配を殺した絵馬は群衆に紛れ込むと、もう遠目からでは全く見分けが付かなくなった。
 屋台で小腹を満たした両親と合流する流れになり、待ち合わせの鳥居に向かって参道を歩いていく道中のことだった。唐突に、何の前触れもなければ脈絡もない申し出が切り出された。
「姉さんの第二ボタン、私が予約してもいいかな」
 人波の喧騒に逆らうように、淀みなく冷静な声が鼓膜目掛けて押し入ってくる。私は耳を疑った。ほんの数分前まで傑の声帯を占めていた話題とは内容も毛色も違いすぎて、理解が追い付かなかったのだ。何度も咀嚼を繰り返して味を広げるように、脳内で処理を繰り返して情報を拾い上げた。頭脳を駆使しなければ解読できないような複雑な中身ではなかったのに、受験用の記憶で限界まで圧迫されつつある私の脳はまともに作動してくれない。結局、理解に到達したところで真意までは掴めず、私はまじろぐことしかできなかった。
「第二ボタンって……制服の?」
 ほとんど復唱しただけの察しが悪い私に、傑は優しい一瞥を投じて頷いた。
「そう。もう先約がいる?」
「いるわけない……。傑じゃあるまいし」
「私も別に予約はされてなかったさ」
 口を尖らせて不満を訴える私に、傑は柔らかく目尻を下げた。全く、清々しいほどに白々しい。海馬すら抹消したがっていた、あの日の衝撃的な記憶が蘇る。数年前、卒業式を終えた傑の制服からはひとつ残らずボタンが消え去っていた。地元を離れて高専に入学するという前提があるにしても、当時そこまで熱狂的な異性に惚れ込まれていたとは知る由もなかったから、絶句したのを覚えている。嫉妬が煮え滾るくらい数多の好意を寄せられていた傑に比べれば、今の私なんて月並み以下の恋愛経験と人徳しかない。当然、第二ボタンの打診なんて雲の上の話だ。そんな物好きは後にも先にも傑くらいだろう。
 断る理由もなかった。深く考えずに承諾する。心臓に一番近い位置のボタンを貰い受ける儀式――まじないのように想い出を手中に収めることの意図を、私はどうしても傑の思惑と結び付けることができなかった。その可能性を端からありえないと棄却していたのだ。
「そんなもの貰ってどうするの?」
「大事にするよ。それ以外ないだろ」
 何の勲章にもなり得ないのに得意気に傑が微笑むから、私は「変なの」と盛大に吹き出した。大事にしたところで返礼があるわけでも幸運が降り注ぐわけでもない。それでも、純粋に胸が熱くなった。嬉しいという感情が脈打ち、全身に行き渡っていくようだった。
 そのときの傑は、どの角度からどの尺度から見つめてみても、私がよく知る傑だった。よく笑い、よく食べ、よく喋る。どこにもその「兆し」を見せなかった。どこにもその「異変」を滲ませなかった。
 傑は、嘘つきの常習犯だ。平気を取り繕い、大丈夫が口癖の、どこにでもいる十六歳の男の子。他人を思いやる余り自分を思いやれなかった、繊細な自分を内に秘めていただけの、普通の男の子なのだ。
 その日見た傑が、学生として呪術師として懸命に足掻いていた傑の、最後の姿になった。