ほころびの孤独たち

09

ほころびの孤独たち

 光陰、矢の如しとはよく言ったもので、あれから二週間が経過していた。
 は心身の不調を理由に休学し、高専の女子寮へと居を移した。彼女に結界術や式神術を指南する役目は、新顔で業界に染まりきっていない、かつ俺の申し出を無下にできない後輩に一任した。生まれながらに術師家系の思想を捩じ込まれてきた俺が、生まれながらに健全な非術師として育った彼女に物事を教えるのは得策でないと判断したためだ。
 ちなみに、このように提言してきたのは硝子だった。寮での面倒を見てやってくれと頼み込んだとき、アイツは初対面ながらに平然と「似てないですね」と直球の感想を突き付けやがった。絶句する他ない。無神経と名高い俺でさえその一言は封印していたのに、どんな感性をしてやがる。しかしながら、俺の心労をよそには終始けろっとしていた。あまつさえ「よく言われます」なんて気楽な返事と笑顔を振りまくものだから、感心を通り越して脱力してしまった。常に周囲から言われ慣れていると予想はできたが、気付けば俺を差し置いて硝子に懐いている始末である。女同士の距離感とはよく分からない。
 ある日の昼下がり、珍しく埃臭い学舎を離れて太陽の下に出ているアイツらを発見した。紫外線を忌避した硝子だけは木陰に潜んでいたが、陽光を隈なく浴びるは手元のメモを見つめながらぶつくさ独り言を唱えている。宙をたゆたっている単語から推測するに、式神を顕現するための詠唱中らしい。指導者の真横に並び立って手を振る俺なんて意識の埒外だ。行き場のない屈辱を転嫁して隣の後輩に睨み付けると、ひっと大袈裟な悲鳴が上がった。俺のみみっちい八つ当たりに気付いた硝子だけが、鼻先でせせら笑っている。
「わ、私なんかが評価するのも烏滸がましいですが……要領も良くて飲み込みも早いと思います」
 退屈凌ぎとしての進捗状況を尋ねたところ、食い気味に伊地知が語り出して、最終的にそんな結論に落ち着いた。結界術を習得し終えて今は式神術を試している真っ最中というのだから、手放しで褒めちぎりたくなる気持ちは分からないでもない。どうしたって術師の大成には先天的な才能に左右されるところが大きいが、その基盤や素養は十分すぎるということだ。ふぅん、と俺は投げやりな相槌を打った。
 いち早く彼女が自衛の手段を会得することを目的としていた筈なのに、実際にはそれが良いことなのか悪いことなのか、判断に困った。ただひとつ確信できるのは、傑とほとんど接点のなかった伊地知と引き合わせたのが、間違いなくプラスに働いているということくらいだ。会話の中に下手な偏見や誤認が挟まれないぶん、は気を許して話しやすかったに違いないから。
 なかなか式神を呼び出せないのか、身を竦めながら伊地知に助け舟を求める視線を送り出したは、ぎょっと目を見開いた。知らぬ間に自分の鍛錬を見守る観覧者が増えていたのだから、一見芝居がかった反応でも納得できる。さも今し方到着した体を装って片手を上げると、彼女はぱっと顔を輝かせて手を振った。助言に向かった伊地知と対話している様子をぼんやりと眺める。読み通り打ち解けているようで、内心胸を撫で下ろしていた。
「これくらいのこと、さっさと教えてあげたら良かったのにねー」
 過保護すぎ、とぼやいた硝子の声を秋風が攫っていく。優雅に浮かび上がっていた紫煙はあっという間に霧散した。俺の鼓膜にだけ、その吐露がこびり付いている。
 きっと、傑は分かった上でそうしなかった。呪術や呪霊に纏わる知識をあえて提供しなかったし、こちら側の世界に関与することを拒んだ。だから、に代わって自分が特殊体質の根源や解決に繋がる手掛かりを探していた。その大元となる理由なんて考えずとも明白だ。大事な姉を厄介事に巻き込みたくない、醜悪な人間を近寄らせたくない、死線に立たせたくない。呪霊を飲み込み続けるなんて苦行を強いられている男が、その考えに至るのは妥当であり、必然ですらある。少し前まで無関係だった俺でさえそう思うのだから尚更だろう。そして、今になってとんでもない大罪に手を染めたような心境に追い込まれていた。傑が故意的に遠ざけていた世界に、俺が許可なく引き入れてしまった。
 道を違えた俺達が次に巡り会ったとき、きっとふたりが現世に揃う最後の日になるだろう。背中から滅多刺しにされても文句は言えないな、なんて近くて遠い未来を自嘲的に思い描いていた。


 結局、その日式神を顕現できなかった。どれだけ成長速度が凄まじくてもセンスが光っていても、才能が開花しなければそこで打ち止めだ。結界術を会得してるのだから上出来といえばそうだが、これ以上の成長は見込めない可能性も十分あり得るのが、才能ありきの無情な世界だった。いくら鍛錬を積み重ねたところで、その現実ばかりは覆らない。
 肩を落として眉を曇らせるに、伊地知は必死になって賞賛の言葉を並べ立てていたが、満足には程遠かったようだ。実技修練を終えた後、彼女の習学用に与えられた空き教室へと向かったかと思えば、難しい顔付きでノートにペンを走らせていた。どうやら伊地知から指南を受けた内容や要点を書き留めているらしく、手元を覗き込んで白目を剥きそうになる。すこぶる律儀で真面目な性格は、傑と同じ血の通った姉弟なのだと改めて認識する部分だった。
 徐々に日が傾いていき、の横顔が夕焼けに浸食されていく。硝子は運ばれてきた怪我人対応の補佐として呼び出され、伊地知は明朝の任務に備えて男子寮に戻った。俺だけが隣の空席に腰を下ろし、頬杖をつきながら彼女の復習風景を見守っている。室内灯を付けようか、そろそろ打ち切って帰宅を促そうかと逡巡していると、ふいに指先が止まった。折良く一段落ついたらしい。の熱心な視線が、磁力のようへばり付いていたノートを離れてこちらに吸着する。ぱちんと目が合うと、彼女は照れ臭そうに笑って筆記用具をしまい出した。
「悟くんと会うの、久々だね」
 自分よりふたつも年上のに、さん付けだの敬語だのを使われるのは抵抗があり、早々に変えるよう命じていた。この二週間を経てようやく定着してきたところだ。世間話の一貫のように、彼女はそんな一言を切り出した。
 勝手に高専を抜け出して傑を引き止めなかったり、逆にを引き連れてきたりして、俺は暫くの謹慎と分厚い反省文という大目玉を食らっていた。謹慎が解かれてからも延々と大物呪霊の祓除任務に駆り出されていて、高専に立ち寄る暇もなかった。もちろん、硝子や伊地知にはこまめに連絡を取って気に掛けてはいたが、には知る由もない話だ。ただ、こうして面と向かって指摘されると、途端に赤子の世話を放棄していた極悪人のような心境になる。こっちも任務さえなければ毎日でも顔を見に行くつもりだったってのに。不貞腐れたくもなる。
「どうせ俺は薄情者だよ」
「まさか。とんでもない」
 いかにも卑屈な独り言にも気を悪くするどころか、忙しいのに見に来てくれてありがとう、とは屈託なく微笑んだ。見頃の終盤に差し掛かっても気丈に花弁を維持している向日葵のような、明るさの中に儚さの滲む笑みだった。条件反射みたいに、胸の内側が切ない潤みを帯びていく。
「……どっか、行きたいとこねぇの」
 妙ちくりんな感傷が俺をおかしくさせたのか、そんな呟きが咄嗟に口を衝いて、帰り支度を整えて立ち上がったを呼び止めた。影のように伸びる睫毛が繰り返し上下する。かっと燃えるような血流を節々から感じた。瞬きの回数だけ辱めを受けている気分だ。軽く首を捻った彼女は、意味を探るように俺の発言をなぞり直した。
「行きたいとこ?」
「買い物とか、ここ暫く行けてないし不便だろ。硝子は一人じゃ外出れないし、伊地知はそういうとこまで気回んねぇし。それか、実家の整理でも……」
 デートの誘いじゃないという釈明を前面に押し出したいあまり、堰を切ったような勢いで捲し立ててしまう。実際のところ、俺なりに今日まで放任していた無礼講を詫びるつもりでそう尋ねたのだが、言葉にすると下心から口説いてるようでもあって癪だった。何より、言及されてもいないのにこうして弁明を図っている自分が心底間抜けで情けない。沸々と羞恥以上に怒りが込み上げてしまった。
 冗長な釈明会見を終えて、沈黙が通り過ぎたのはほんのわずかな時間だった。呆気に取られていただが、俺が持ち掛けた遠回しの提案を理解できたのか、やがて穏やかな笑みが溢れ落ちた。
「じゃあ、悟くん達が過ごしてる教室見てみたい」
 ただ、その返答は俺が想像していた行き先とはだいぶかけ離れていた。明日のオフに連れ回してやろうと画策していたショッピングモールや若者向けの繁華街とは全く系統が違うし、そもそも高専の敷地内なのだから俺が付き添う必要のない場所だ。胡乱な眼差しを注いでも、彼女は慌てふためく素振りすら見せず、寧ろ瞳に爛々と輝く星空を浮かべている。大してこの空き教室と代わり映えしない、という念頭を耳にタコができるほど言い聞かせたが、の意思は堅牢で揺るぎない。やむを得ず予定を変更し、帰路に就く前に俺達の教室へと向かう段取りになった。
 階を移動して到着した教室は、やはりというべきか先程の空き教室と瓜二つで、もはや双子同然だった。三年に上がってからは座学の時間も専ら減って実務経験を積む毎日だったから、俺達の私物なんてほとんど見当たらない。宛てどなく視線を放流していたに、奥から硝子、傑、俺の席だと説明する。彼女は何のてらいもなく真ん中の席に駆け寄り、腰を下ろした。次いで俺もその隣席に身体を預ける。ついさっきまで夕闇に染色されていた横顔が、もう今は薄闇に閉じ込められて色彩を失っている。窓ガラスに閉じ込められた夜空では、航空機のストロボライトが点滅を繰り返していた。
「あのね、悟くん」
 唐突に呼び掛けられて、おもむろに目線を傾ける。は俺のことを眼差していた。混じり気のない黒目は微動だにしない。光さえ差し込まないそれは月食のようだ。首根を鷲掴みにされたような感覚に喉が締まる。俺の返事を待たずして、彼女はその話題の核心に触れた。
「私が傑にここを薦めたの。その力はきっと役に立つからって」
 淡々と事実を告白しているだけなのに、罪悪感の荒波に攫われて溺れてしまいそうな声だった。重苦しい空気が微かに震えている。死に急ぐように激しく跳ねる心臓が、今にも肋骨を突き破りそうだ。
「ずっと許せないでいる。傑に背負わせてしまった無責任な自分も、何も気付けなかった自分も」
 は目を伏せた。膝上の握り拳が小さくなって、スカートに深い皺が刻み込まれる。叱られるのを覚悟して膝を抱え込む幼気な子どものようだ。けれど、その胸中には抱えきれないほどの後悔と絶望を蓄えていたのだろう。これは懺悔だ。この数年間、どこにも吐き出せずに心身を蝕み続けていた罪の自供だった。
 突然、鼓膜が取り乱しそうになるほどの静寂に包まれる。それは口を閉ざしてしまった俺達以上に、正常を取り戻した心拍の影響が大きかった。あんなに混迷を極めていた脳内まで冴え返っている。の告解を受け止めて、却って冷静になっていた。
 それは間違いだと、素直にそう思った。そして同時に、彼女に必要なのは断罪でもなければ贖罪でもないと直感した。傑がどんな思いで術師の道を選んだのかなんて知りようがない。けれど、アイツがどこまでも頑固で負けず嫌いで思慮深くて、優しすぎる男だという事実だけは知っている。その不器用な生き方をこの三年近く、ずっと隣で目に焼き付けてきたのだ。俺は室内の酸素を貪り尽くす勢いで吸い込み、そして二酸化炭素もろとも吐き出した。嘘でも方便でもない、純然たる俺の本心を。
「確かに傑はアンタのためになろうとしてた。大事にしようとしてた」
「……うん」
「でも、そんなのきっかけのひとつだ。アイツが術師を続けていたのも続けられなかったのも、全部が全部アンタのせいじゃない」
 露悪的な物言いしかできない普段のクソガキな俺が聞いたら卒倒するだろう。それくらい、自分でも信じられないくらいに穏やかな声色と柔らかな口調をしていた。意識せずしてそういう言葉を紡いでいた。
 の頭が持ち上がる。湿っぽく薄暗い瞳孔に、ようやく淡い月光が差し込んだ。
「全部、傑の意志で決めたことだ。アイツは誰かに口出しされて揺らぐような男じゃない」
 そう知っていたし、そう突き付けられた。鉄鋼のように頑強なあの背中は、俺なんかの言葉で踵を返したりしない。異論も正論も跳ねのけて、意地でも自分の本音を貫き通そうとする。そういう男だ。それはきっと、守り通そうとしていた大切な身内が相手だったとしても。
 こんな独り善がりな俺の主張が、気休めになるとも慰めになるとも思えなかった。そもそも見捨てられた側からの発言なんて説得力の欠片もない。ただ、の誤解を解きたい一心だった。彼女に非がないこと、そして傑にだって非がないこと。それを証明したかっただけだ。
 うだうだと必死に御託を並べている俺と裏腹に、の反応は実に素直だった。微かな瞬きの音がする。目蓋から弾かれたように頬を伝っていく流線に気付いた瞬間、さすがに血の気が引いた。いくら俺だって女の子を泣かせて興奮するような劣悪な趣味は持ち合わせていない。手汗が滲む。こんなときに限って、俺の声帯は日和ってまともに作動しない。の瞳に映った、ひたすら狼狽えている俺の姿が何とも滑稽だった。
「優しいね、悟くん」
 ぽつりと滴り落ちる雫のような呟きが、俺の鼓膜に漂着する。はっと息を呑んだ。は涙を滲ませながら微笑んでいた。凪いだ海面に浮かび上がる月のように静かな儚さを纏っている。安堵する一方で、反発したい精神も膨れ上がっていた。
 優しいのは俺じゃない。こういう弱者を尊ぶ生き方を教えてきたのは、俺じゃないのだ。
 傑の優しさが染み付いている俺にも、そんな傑の片鱗に救われているにも、胸が押し潰されそうになる。こんなに青春の日々が詰まった教室は夜に沈んで、今はもう虚しくて苦しくなる一方だ。