ひみつの亡き骸を抱きとめた

06

ひみつの亡き骸を抱きとめた

 ただでさえ実家や御三家の会合に顔を出すのは億劫だったのに、皮膚の裏側まで染み込んでいくような蒸し暑い空気は生き地獄そのものだった。肉体に宿された便利な術式を以てしても、あの熱気は弾くことすらままならない。森林と結界に取り囲まれた避暑地にもってこいの高専敷地内に戻ってきたとて、未だ灼熱の日差しに刺されるような感覚が残っている始末だ。遠路遥々と京都まで出向いてそんな洗礼を受けながら、収穫は何ひとつとしてなかった。久々に身内と過ごす盆休みにはまだ価値はある。けれど、東京の呪術高専に進学した俺の動向に探りを入れる、慎みの欠片もない爺婆達の相手をする時間は実に無益だった。体内にぎっしり蓄積された疲労と、自分も横から手を伸ばすことを前提にした菓子折りだけが、唯一持ち帰った手土産だった。
 呪術師は基本的に休暇らしい休暇を取れないまま任務に明け暮れている。とはいえ、俺達はまだ学生身分ということもあって、任務量はそれなりに酌量されていた。お盆に当たる数日間は座学や実務が挟まることもなく、短期休暇が認められた。多くの学生は帰省しており、俺も半ば強制的に実家に連れ戻されるはめになった。
 たった数ヶ月離れただけでは懐かしくもなかった故郷に比べると、空高く聳え立つ鳥居や足が棒になるほど長ったるい石階の方がよほど懐かしい。まだほとんどの連中が地元に滞在しているのか、敷地内は吐息だけで鼓膜が震撼しそうなほどの閑寂が占めていた。階段を上り終えて弾む息を思わず飲み込む。木洩れ日の中に溶け込む静寂を優しく踏みつけながら、寮までの道を辿った。
 自室の扉を乱雑に開け放って、ベッドに倒れ込む。せめてひとっ風呂浴びてから仮眠を取りたいところだが、とろとろと眠気が流れ込んでくる目蓋は意思に反してひどく重たい。睡魔への抵抗を諦めかけていた俺に再び戦意を齎したのは、壁越しの隣から聞こえてきた微かな物音だった。微睡みに勝負を挑んで打ちのめすことに成功した俺は、義務感に駆られたゾンビのようによろりと頭を擡げる。築云十年にもなる木造建築の寮では、廊下の話し声が筒抜けだったり隙間風によって至る所が軋んだりするのがしょっちゅうだ。今更、物音ごときで動揺したりはしない。無視するどころか認識すらしていないことがほとんどだ。――だが、それが隣人の滞在を示唆する音となれば話は別だ。こんな場所で惰眠を貪るよりも、この数日間の心労を発散するにはより良い空間がある。汗を吸い込んだTシャツを脱ぎ捨てて適当なTシャツを見繕い、入口に置き去りにしていた土産袋を持ち上げた。部屋出て、挨拶代わりに勢いよく扉を閉めてやる。隣室のアイツが飛び跳ねて怪訝そうな面差しになるのを思い浮かべると、小気味よく脳が冴え渡っていった。
 隣人の平穏なんてお構いなしに、隣の部屋の扉に拳を叩き付ける。こんな人騒がせなノックに対して、手厚い出迎えなんて端から期待していない。施錠される前に素早くドアノブを捻って隣室に侵入すると、不法侵入の自覚を捨て置いてずかずかと上がり込んだ。自室と同じ造りのしょぼいワンルームは、数歩進めばすぐに全景が見えてくる。ベッドの上で壁に凭れていた家主は、想像に違わず忌々しそうな睥睨を投げ掛けてきた。思わずくつくつと喉から笑いが洩れ出ていた。
「もう帰ってんじゃん。やっぱり傑は寂しんぼだな」
「……それはこっちのセリフだよ。少しくらい一人の時間を尊んだら?」
「あぁん? 寂しくて泣いてるオマエのために来てやってんだろーが」
 帰省の間しばし休戦していた軽口の応酬は、ここ数日の空白を取り戻すように徐々に激化していく。やがて、ここで手仕舞いにしようとばかりに傑は苦笑を浮かべながら肩を竦めた。これは折れてやった体裁を装いながら、実際は俺に言い負けるのを忌避している、傑お得意の芸風だ。初めて顔を合わせてからたった数ヶ月しか経過していないとはいえ、三年間を同じ監獄に閉じ込められていただけのつまらない連中に比べたら、よほど打ち解けている。優等生ぶったコイツの腹黒い胸中なんて、六眼を通さずともお見通しだ。これ見よがしに鼻で笑ってやるも、傑は涼しい顔付きに憐れみの目付きを貼り付けるだけだった。こういうとこ、やっぱ気に食わねぇ。ベッド上のわずかな隙間目掛けて飛び込み、清潔感の漂うシーツに汗を塗り込んでやる。傑の方へと身体を転がして壁際に追い込むと、心底呆れ果てたような溜息が鼓膜を通り過ぎていった。
 舌戦と猛暑で白熱していた身体が、頭上から降り注がれる人工的な冷風によって沈静していくのを感じる。俺という贅沢な来訪者がありながら、傑は土産話のひとつすら寄越す気配はなかった。携帯を弄ってみたり、かと思えば突然窓の外に視線を放り出してみたり、ちぐはぐな行動が目に余る。上の空、という表現が何より的確だった。いざ帰省してみたら存外、郷愁が込み上げてきて、寮の中独りでにおセンチが発動している真っ最中といったところだろう。そんな風に解釈すると、途端に傑が思慮に富んだ十全の人間ではなく、まだ青臭さの抜けきらない一端の子どもなのだと気付かされる。ようやく実家から解放された充実感に浸る自分とは決定的に異なる価値観を囃すでも貶すでもなく、寧ろさり気なく胸を貸してやる気になった。俺の心は日本海よりも寛大な男なのだ。寝そべって頬杖をつきながら、じっと傑を見据えた。
「こっち来てから一回も帰ってなかっただろ。どうだった?」
「……ああ、みんな元気そうだったよ」
「良かったじゃん。彼女ともゆっくりよろしくできたわけ?」
「だから、そんなのいないって」
 とまあ、珍しく配慮を盛り込んだ俺の冗談を、本気で足蹴にしそうなくらいには殺伐とした切り返しだった。口角がひきつる。前言撤回、コイツただ拗ねてるだけのガキじゃん。俯きがちな傑から覗く冷酷な眼光からしても、逆鱗に触れたことは間違いない。吐き捨てられた否定は、俺とは別の誰かにも恋人の存在を茶化されたような言い回しだった。どんな会話の流れからその野次が発生したのか定かではないが、俺にまで持ち込んで依然として苛立っている傑も大概だ。とりあえず、その見知らぬ発言者には余計なこと口走るんじゃねえよと恨み節を念じておいた。
 微妙に暗雲の立ち込めた空気に、能天気な陽光が差し込む。網膜の奥まで染み込んでくる日差しから逃れるようにして上体を起こすと、同じく体勢を崩した傑と意図せず目が合った。不自然な沈黙が横切る。視線を逸らすのも口火を切るのも敗北宣言のような気がして癪だったから、そのまま真っ向勝負を挑んでやる。唇を尖らせて威嚇していると、先に白旗を揚げたのはあっちだった。失笑のような苦笑のような微かな笑いが溢れ落ちて、空気が震える。怒ったり笑ったり、気性の忙しないやつだ。毒気を抜かれたような微笑を滲ませる傑からは、先程の怒気もすっかり蒸散していた。
「それで? 悟の方はどうだったの。縁談は破談にでもなったか」
「んなもん、あって堪るかっつーの!」
 それでも、堂々と意趣返しのような法螺を吹いてくるあたり、完全に腹の虫が治まったわけではなさそうだ。気難しい性格だけど、これくらい依怙地で執念深い方がコイツらしい。ただでさえ億劫な実家への足が更に遠ざかりそうな想像は一旦脇に退けて、傑には手加減した拳を一発お見舞いしておいた。俺の一撃を受け止めた腹筋はびくともせず、勝ち誇ったように傑は優雅に口端を緩ませるだけだった。
 調達してきた菓子折りの外袋を抉じ開けて、寝転がりながら京菓子を貪り食う。遠慮も行儀も弁えない俺が食い散らかしていくのを見届けながらも、傑は諭すことなく、それどころか自分も手を伸ばしてきた。互いの食い意地と張り合いながら小腹を満たしていき、忽ち外箱はもぬけの殻になっていた。これがもうひとりの同期と先輩達への土産も兼ねていたことに気付いて血の気が引くのは、もう少し後の話だ。
 菓子折りでご機嫌も取ってやったところで、本来の目的に突入する。土産程度に対価を求めるほど狭量な人間ではないが、地元で拵えてきたありったけの不平不満が喉元に控えている。発散させてやらないと俺が癇癪を起こしそうだ。舌鋒鋭くここ数日間の出来事を捲し立てると、傑は落ち着けよと言わんばかりに柔く目を眇めた。
「どうせ指を咥えて見てることしかできない連中なんだろう。悟が気を揉む価値すらないよ」
 適当にあしらうではなく、本心から労うように総括されたから、俺の荒んだ心はいくらか平穏を取り戻していた。年に数回あるかないかの会合に頭を悩ませるなんて、確かに骨折り損もいいとこだ。何だかんだ真摯で面倒見が良い傑に感謝しつつ、思いきり四肢を伸ばす。溜め込んでいた恨み言を放出してしまえば、筋肉も神経も締まりなく脱力するのみだった。
 夕飯までの暇を持て余すようにジャンプの先週号を読み流していると、ふいにそれは訪れた。微風に乗って一枚の紙切れが俺の胸元に降りてくる。どうやら傑の机から滑り落ちてきたらしい。指先を伸ばしてみると、艷やかな光沢紙の手触りがする。拾い上げてそれを視界に閉じ込めると、一枚の家族写真であることが分かった。中学の入学式なのか、立て看板の傍には若かりし頃の傑が立ち及んでいる。髪が短くて、今より図体も小さい。その隣には一際小柄な少女が並んでいた。丸顔でつぶらな瞳、そして全体的に華奢で薄そうな体躯をしている。――似ていない。隣り合って比較できるぶん、素直にそう感じた。逆に、少女の隣で幸薄そうな笑顔を浮かべる女性は、目鼻立ちや口角の癖が傑の映し鏡のようにそっくりだ。多分これが傑の母親で、父親はカメラのシャッターを切る役目でも担っているのだろう。何れにせよ、その一景は絵に描いたような円満で明るい家庭を彷彿とさせた。
「傑、これ」
 邪推を重ねたものの、答え合わせに興味はない。それを摘み上げて、ひらひらと傑の目線に翳した。俺の扇動によって首を擡げた傑は、はっと目を丸くする。溢れ落ちそうな真ん丸の金色が水平線上の夕陽のように揺らめいた。よほど大事な写真だったのか、傑は戸惑いながらも慎重な手付きでそれを俺の掌中から抜き取る。手元に視線を注いだ傑の横顔は、西日を溶け込んで柔らかく、そしてどこか切なく映り込んだ。
「……これ、どこから」
「さあ、知らね。机から落ちてきたけど」
「……そう。参考書にでも挟まってたかな」
 その曖昧な呟きにつられて、机の方に目を向ける。机上に積み重なっている参考書の山には、数学や英語なんかの一般学科もあれば、呪術に特化した専門的な書物なんかも紛れ込んでいる。暇さえあれば勉学に勤しみ呪術の知識を蓄え、更に極小の合間を縫って体術まで鍛え上げているような男だ。どうせこの帰省期間中も、研鑽の手を怠る日はなかったに違いない。そんな傑が、まるで拠り所のように家族写真を手近に置いておく意味を、俺は薄ぼけた記憶の中からすくい上げていた。


 あれは俺達が入学してからまだ一ヶ月も経っていない、初夏にも届かない季節のことだ。非術師の家系でありながら特異な術式を使い熟し、おまけに武闘の腕まで優れている同期生のことを、当時はまだ掴みかねていた。特に、人工的に貼り付けたような笑顔は芝居がかっていて、何とも胡散臭い。いかにも二面性を隠し持っていそうな外面が気に食わず、信用ならないとさえ思っていた。その第一印象の悪さは傑とて同じだっただろう。両者共に、生まれも育ちも中身も異なる生命体に神経を尖らせて、水面下で腹を探り合っている。不毛な対抗意識にようやく幕を下ろしたのが、その日だった。
 入学当初から傑が高専の書庫に入り浸っているのは知っていた。俺は自分の術式や戦術に活かせる必要最低限の知見だけを深める効率重視タイプだが、対して傑は幅広い知識を吸収してそれを礎に戦略を練るタイプだ。非術師家系という生まれもってのハンデを埋めようという自律的な思想も、その勉励に拍車をかけていた。自ら分厚い書物を繙いて読み漁っている傑は俺からしてみれば相容れない存在ではあったが、同時にその気骨のある性格は割りかし好意的に捉えていた。そうして偶々、ほんの気まぐれで書庫に出向いてみた先で、俺は傑の内なる真髄を知覚することになる。
 埃っぽい空気を掻き分けていけば、参考書の山を防護壁にして自習室の一角を牛耳る傑を見つけた。とはいえ、好きこのんでこんな煤けたカビ臭い場所にまで足を運ぶ生徒は少ない。ほとんど傑の根城と化していた。気配を押し殺して忍び寄ると、まず目に飛び付いたのは平積みになった書物の背表紙だった。よくもまあ、こんなマニアックな図書ばかりを引っ張り出してこれたものだ。明らかにその道の専門家向けの、初めて呪術を履修するには不向きなタイトルがずらりと陳列している。双眸がその文字列を追い掛けながら、徐々に脳内は不安に包まれていた。コイツの実直な性格が、勉学においても突飛な方向性に飛躍してはいないだろうか。そんな身も蓋もない可能性に行き着いた俺は、長考の末に仕方なく傑の前の席に腰掛けた。ページを捲るのに夢中になっていた傑は、数秒の間を置いてようやく本から目を離して俺を眼中に捉えた。視線がぶつかり、一瞬火花が散る。その拍子に何冊か本を取り上げて、わざとらしくタイトルを復唱した。
「えー、何々……。『日本被呪者実録』『呪霊を引き寄せる法則』……オマエ、すげー物好きだな」
 改めて反芻してみると、初心者だけでなく呪術に馴染みのある術師家系でも興味をそそられないような珍妙な題材ばかりだ。益々、不可解な傑の思考が理解から遠ざかっていく。そんな俺の心配なんて露知らず、机の向こう側で傑は眉根を寄せて顔を顰めた。わざとらしい溜息が鼻につく。
「わざわざご足労どうも。時間を割いてまで冷やかしに来たなんて、暇なのかい?」
「アホか。善意で見に来てやってんだよ」
 よほど俺の言行が癇に障ったのか、ご丁寧に捻くれた嫌味まで添えてきやがった。模範的な笑顔も、正論を突き付けるような語気も、そのどれもが俺を挑発するためのものだ。この辺りから、そろそろ俺も傑の気質の片鱗を嗅ぎ付けていた。相手の本質を見極めようと出方を窺いながらも、自分はいつでも優勢でいるために敢えて喧嘩腰の態度を取っている。そう、同じ穴の狢だ。この見解に思い至ってしまえば、自然と余裕が湧き上がってきた。売られた喧嘩は買うのが礼儀だが、その手には乗ってやるものか。そんな高慢な腹積もりで、俺は手に取った本を捲ってみた。適当に開いたページに陳列する文章を、理解するつもりもなく視線だけがなぞっていく。
「何でこんなややこしい本ばっかなわけ。もっと取っつきやすい本あるだろ」
「……」
「あー、呪霊から寄ってくる方が術式に都合が良いとか? 難しいこと考えてんのなー」
 張り合っている素振りは一切見せずに、純粋な疑問を装って淡々とけしかけた。こんな根拠のない推論の正誤はどうだって良い。傑への悪意や敵対心なんて持ち合わせておらず、親身になって寄り添っているという物腰が重要なのだ。短絡的に威を振るおうとする傑より、俺の方が温厚で寛容な男だと知らしめてやらなければ。そんな何とも不純な動機が働いていたのだが、ここで思いの外、傑の反応は素直だった。上辺だけの笑顔が剥がれ落ちて、鳩に豆鉄砲を食らったような表情が露わになる。そんなに俺が気さくに言及するのが意外だったのか、はたまた図らずしも正解を言い当ててしまったのか。可能性を列挙するならこの程度だが、どちらも絶妙に違うような気がした。やがて傑は吹っ切れたような吐息を零し、こめかみを押さえた。
「別に術式のためだけじゃない」
「ふぅん。じゃあどういう、」
「姉がそういう体質なんだ。元々のそれなのか、呪いの類なのか、もし呪いなら解呪できるのか……そういう参考資料集めも兼ねている」
 今度は俺が豆鉄砲を食らう番だった。良くも悪くもプライドの高いこの男が、まさか自ら内情を吐露するなんて。その上、当人に限らず傑自身も骨身を削って思い詰めていそうな内容だったから、益々言葉を失った。非術師家系の人間が並大抵の事情で術師を志すわけがないし、そこに鑑みれば傑だって何かしら複雑な事情を抱えていてもおかしくない。だから、この一驚は単に傑という人間への理解や興味が薄かっただけのことだ。そこでようやく、俺は目の前の男を真っ向から見据えた。凡庸とはかけ離れた見目と皮肉めいた物言いで武装しているが、本当は身内を思い遣るただの優しい青年であること。核心に触れるこの発言がなければきっと気付けなかった事実だ。拍子抜けだった。変に意識して反抗心を燃やしていた自分が実にくだらなく思えて、俺は脱力した。
「……オマエさー、フツーにまともなやつかよ」
「どこからどう見ても悟よりはまともだよ」
「入学初日からガン飛ばしてきてよく言うわ」
「それは君からだろう。私は受けて立っただけだ」
「やっぱ生意気」
 互いの喧嘩っ早い気性も好戦的な軽口も変わりなかったが、それが俺達が歩み寄る最初の一歩になったのは間違いない。意外にも波長は合うこと、とはいえ反りが合わないところはとことん合わないこと、それでも友情は芽生えてしまえば何だかんだで根付いてしまうこと。たった数ヶ月を通して、傑を通して、俺はまざまざと思い知った。
 掛け値なしで信用に値すると思えたその男は、写真から顔を上げると神妙な面持ちで俺を見つめた。燃え立つ落陽のような瞳が真っ直ぐに俺を穿つ。
「似てないと思うか?」
 どうやら写真を見ての感想を求めているらしい。率直な感想を欲しているというよりは、否が応でも肯定しか認めない口振りとも捉えられた。傑の真意は定かでないが、特に嘘を混じえる必要もないので、素直に感じたことをそのまま舌に乗せて転がした。
「あー、姉貴のこと? 傑と母親はそっくりだなって思ったけど」
「よく言われる。私は母さん、は父さん似なんだ」
 おおよそ俺の見立てた通りだったが、唯一引っ掛かりを覚える箇所があった。。話の脈絡からして、傑の姉貴の名前であることは容易に想像できる。ただ、弟である傑が姉をその名を呼ぶことには違和感があった。身内の存在が恥ずかしくて公の場では他人を装ってしまうような、思春期のそれとは別物だろう。そもそも傑の方から姉の存在を明かした前例からすれば、その線は限りなく薄い。うっとりと慈しむような柔らかい響きは、寧ろ他者の介入を許さずに庇護する意図が内在している気さえした。これは姉弟という未知の関係性を経験してこなかった俺の偏見だろうか。聞き返すのも指摘するのも自分の無知を晒すような気がして、そのまま黙り込んでしまった。
 やがて夕闇に沈んで部屋が真っ暗に染まっていく。照明を点灯すると、そこにはもう普段通りの傑が慎ましい微笑を掲げているだけだった。先程の会話にも家族写真にも言及することなく「夕飯、カップラーメンにでもする?」と立ち上がる。ベッドを降りて悠揚な足取りで食堂に向かおうとする傑の背中を慌てて追い掛けた。
 静かに陶酔感を噛み締めている傑に、感化でもされたのだろうか。胸が波打っている。脳が淡く痺れている。――夏油。顔も朧気で、内面すら全く知らないその女の名前が、鼓膜にこびり付いて反響している。聞き慣れないほど特段に優しく温かな傑の声に包まれたその名前を、何度も、何度も。