遠く翳む夏

05

遠く翳む夏

 青空にたなびいている積乱雲を横目で追い掛けながら、坂道を下る。灼熱の太陽は容赦なく肌を焦がし付けた。汗が滑り落ちる。真夏の気配が滲んでいる。
 昨晩タイヤに空気を詰め込んだばかりの自転車は実に快調だった。捕まれば長いと専ら不評の踏切も、人でごった返す街路も、今日は難なく突破していく。スカートの裾が靡くことすら構わず、転がり落ちるような速度で立ち漕ぎをしていたのに事故が起きなかったのは、運が良かったという他ない。恵まれている。神様が味方してくれている。赤信号と遭遇することなく自宅まで辿り着いたとき、そんな都合の良い予感が芽吹いていた。
 息を弾ませながら玄関に駆け込む。真っ先に瞳が吸い寄せられたのは、丁寧に片隅に寄せられた大きい革靴だった。基本的にこの時間帯は家族全員が出払っている。そして、私は来訪者の存在に心当たりもある。携帯を振動させたひとつのメールが、彼の帰省を逸早く報せてくれていた。
 革靴の隣に揃える余裕もないまま、スニーカーを脱ぎ捨てる。リビングに繋がる扉を開くと、ひやりとした冷気が肌を掠めるより先に、心臓が跳ね上がった。懐かしくも馴染み深い気配が、視界を滲ませる。
「すぐ、る」
「おかえり、姉さん」
 紛れもない、私の愛しい弟がそこには立っていた。
 冷蔵庫の前でミネラルウォーターを口にしていた傑は、コップをシンクに避けるとこちらに歩み寄ってきた。眼前に立ち及んだ彼は、ラフな普段着で身を包んでいるのに、貫禄のような風格のような目に映らない迫力が感じられる。がっしりと厚みのある肩幅とか、袖口から覗く筋肉質な上腕とか、少し伸びて無造作に結われた髪の毛とか。生育環境は同じだった筈なのに、親元から巣立ってわずか半年にも満たない年月でここまで逞しく成長するものだろうか。感心や尊敬を通り越して、肉食獣に詰め寄られた小動物のように本能的な畏怖すら覚えてしまう。足が竦んで身動きが取れない。陽光を背にした翳りの中で、傑は以前と変わりない微笑を湛えた。
「久しぶり。ちょっと縮んだ?」
「……傑が、おっきくなった」
「そうかな?」
 そうだよ、とかろうじて絞り出せた声はあまりに弱々しい。声帯さえも震え上がっていた。私が萎縮しているのを見逃す筈がないだろうに、からかっているのか傑は首を傾けて喉を鳴らした。
 悠揚たる佇まいも、包み込むような温度の物言いも、ふとした瞬間の仕草も。そのどれもが私の知っている、傑を構成する要素だった。この鍛え抜かれた精悍な肉体だってその一端なのに、どうして今になって心を乱されているのか。それは気付いていなかったことに気付かされたからだ。私は本当に理解していたのだろうか。呪術師を生業とすること、そこに付き纏う厳しい修練や生死を彷徨いかねない戦局、摩耗する精神。それらを踏まえた上で、背中を押すことができたのだろうか。――そんなわけない。自分の都合を優先して、唆して丸め込んで追い詰めた。経緯はどうであれ、これが真実だ。堰を切ったように、その苦々しい実感が一気になだれ込んできて、胸が張り裂けそうになった。
 何かにつけて自嘲的な私の思考は、悪循環に陥ることだけは一丁前だった。恐ろしい速度で後悔ばかりが脈動している。そんな私の暴走を差し押さえるのも宥めるのも、いつも傑の役回りだった。今この瞬間だって。
「今日、駅前の方賑やかだったね」
 ぽつりと独り言じみた呟きが溢れ落ちるのと、ベランダに面した道路から興奮した子ども達の喧騒が通り過ぎていったのは、ほとんど同時だった。鼓膜に滑り込んできた情報によって、思考が緩やかに正の循環へと引き戻される。ええと、何だっけ。平日の昼下がりなのに人で溢れ返っている駅前のこと。それは予備校の夏季講習を終えて帰路を辿るさなか、横目ながら脳内には焼き付いた光景だった。思い当たる節はある。というか、それしかない。すれ違った小さな女の子達の華やかな浴衣姿は、私の憶測を裏付ける証拠だった。
「確か縁日だよ。屋台とか準備してた」
「ああ、もうそんな時期か」
 私達の生家が聳える町内では、お盆のこの時期に小規模な夏祭りが開かれる。駅前の通りには出店も並ぶけれど、飲食系よりも射的や金魚掬いのような出し物系が多くて、どちらかと言えば幼い子ども向けの内容だった。メインイベントが打ち上げ花火や神輿担ぎではなく盆踊りなあたり、地域活性化としても後一歩な印象だ。こうして回顧してみると高校生身分には物足りないけれど、幼少期の自分には夏休みの風物詩として刻み込まれていたのだろう。毎年性懲りもなく下駄で駆け回り、足の親指と人差し指の間の皮がめくれては不貞腐れていた記憶が蘇る。そこにはいつも私を慰めながら手を引いて、両親の元へと導いてくれる傑がいた。美味しかった筈のかき氷や楽しかった筈のヨーヨー釣りではなくて、そんな些末なエピソードを縁日の象徴として掘り起こしてしまうあたり、私の性根は昔から揺るぎないようだ。そして、眼前の弟も昔と変わらず、他人の心情を手に取るように汲み取っては慮ってくれる。
「行ってみる?」
 ふと妙案を思い付いたような気軽さで、傑は誘いを持ち掛けてきた。胸が淡く高鳴る。いつかの夏で脳内が埋め尽くされている今、その提案に食い付かないでいられるわけがない。それこそ餌を鼻先に垂らされた馬のように心が前のめりになったが、はたと我に返って慌てて引き下がる。変なところで人間の自制心とは発動するものだ。
「……私で良いの? 折角戻ってきたなら、こっちの友達とか彼女とか」
 やんわり断ったわけでも遠慮したわけでもなく、純粋な本心から成るものだった。いくら地元の慎ましい祭事とはいえ、滅多には催行されない行事なのだから、連れ立つ相手は何も私じゃなくともと思ってしまったのだ。日々の大半を祓除任務やその移動時間に費やしているらしい呪術高専の学生は、一般的な学生と比べるとそのぶん自由の幅が狭い。せめて帰省が許された数日間くらいは、私のお守りに徹する不自由ではなく、羽を伸ばす自由があってもいい。そんな目論見だった。
 ただ、その思惑とは別の側面で傑の顰蹙を買ってしまったらしい。頭上からささくれ立った眼差しが飛んできて、ひやりと肌が粟立った。その睥睨は傑本人すらも意識していなかったようで、固唾を呑んだ私からばつが悪そうに視線が逸れていく。それでも、端正な横顔の眉間には深く皺が刻まれていた。
「彼女……って恋人ってこと? いないよ、そんなの」
「えっ、……そうなの?」
「そうだよ。別段欲しいとも思わない」
 ――それじゃあ、中学の頃に目撃したあの光景は何だったのだろう。雨雲の底に沈んだ体育館倉庫で重なり合っていた人影は、今となっては霞がかった情景とはいえ、けして見間違いではなかった筈だ。この戦慄く心臓が、あの日の鮮烈な衝撃を嫌でも覚えている。この記憶が本物だとして、傑が生理的に不快感を露わにするほどに恋人がいるとは勘違いされたくないのだとして、あの女性は一体どんな存在なのだろう。
 縺れ合っていく思考は中々解けない。知恵の輪よりも高度に密に絡まったそれを、私は手ずから放棄した。考えるだけ無駄なのだ。秘密主義の傑から体よく本音を引き出すなんて無謀に等しいし、あの日の営みを覗き見ていたと激白するのは自ら首を差し出すようなものだ。触らぬ神に祟りなし、を信仰する気持ちがよくよく理解できた。
「行くよ、姉さん。予備校漬けの夏休みなんて勿体ないだろう」
 極め付けとばかりに今度は面と向かって、有無を言わなさない口振りで断言される。夏祭りに赴くのは既に決定事項のようだ。刺々しかった刹那の雰囲気は鳴りを潜めて、底抜けに優しい微笑を差し出される。躊躇すら戸惑われる空気に圧倒されて、ひたすら従順な犬のようにかぶりを振るしかできなかった。内心、願ってもない提案の実現には舞い上がっていたけれど。


 高校の同級生に誘われて出向いた花火大会以来、タンスの肥やしとなっている浴衣には、そのまま眠りに就いてもらうことにした。今夏に一度くらいは出番を与えたかったけれど、身内のために着飾るのは些か気恥ずかしいし、第一ひとりでは着付けも満足にできない。浮き上がった前髪を押さえつけて、制汗剤を至るところに振り撒いて、手頃なハンドバック片手に私室を抜け出る。階下では準備を整えた傑が待ち構えていた。偶然にも玄関で入れ違いになった母には「すぐ戻ってくる。夕飯も楽しみにしてるよ」と伝え置くあたり、隅から隅まで抜け目なく策士だ。
 家の門戸を開いた頃はまだ辺り一帯が明るかったのに、最寄り駅に到着した頃にはもう日も沈んですっかり夜の空気が漂っていた。立ち並ぶ露店に吸い寄せられているのは、やはり幼い子ども達ばかりだ。思い思いに出店を駆け巡っては、黄色い歓声が弾んでいる。それを温かく見守る大人達の構図には、懐かしい感慨に浸らずにはいられなかった。私と傑が育ってきた町並みが、朽ちることなくここに在り続けている。
 腕試しとして最初に挑戦した射的は不甲斐ない結果に終わったけれど、傑は本職顔負けの射撃を披露して、私に小さなぬいぐるみを手渡してくれた。目立つ外見と類稀なる活躍も相まって注目の的となり、気付けば周囲からは熱い声援が送られたり、あれ取ってこれ取ってとねだられたりする始末だ。優しい傑は律儀にその要求ひとつひとつに応えてあげていた。私と同様にぬいぐるみやお菓子の詰め合わせを取ってもらった女の子達は、こぞって頬を真っ赤に染めていて、何とも言えない気持ちになる。誇らしいような面白くないような複雑な感情に囚われながら、隣の彼を睨めるように見据えた。魔性の男は絶えず柔い笑みを口元に乗せ続けている。まだ恋の味さえ知らない幼少期に、こんな色男に優しくされたら、間違いなく理想の男性像が拗けるだろうと心中で苦笑した。
 人波が去った時宜を見計らって、路肩に捌けて一息つく。傑はラムネ瓶を、私はりんご飴をそれぞれ道中で手に入れた。水飴に包まれた林檎は、夜色に飲まれることなく毒々しいくらいの赤に塗れている。縁日くらいでしかお目にかかれない象徴のひとつだ。そんな貴重な象徴に丸ごと齧り付き、小腹を満たしていく。順当に欠けていく林檎と同じ速度で、隣の炭酸水も干からびていった。
 生ぬるい夜風が肌を撫ぜ、ふたりの沈黙を縫い合わせるようにすり抜けていく。このみっともない妬み嫉みもかっ攫ってくれたら良いのに。そんなくだらない感傷が心臓を柔く締め付けた。
「……傑、モテモテだったね」
「はは。私というより射的の景品が、ね」
「そんなことない。女の子達、みんな傑に初恋奪われちゃったかもよ? かわいそう」
 茶化しているとはいえ、捻くれた性根を剥き出しにした露悪的な発言が口を衝いてしまい、我ながら辟易する。こんなところで傑の気分を害したいわけでも軋轢を生みたいわけでもないのに。肩を窄めて塞ぎ込んでいると、そんな私の物憂いを押し流すような一笑が吹き溢れた。何事かと見上げれば、傑は堪えきれないとばかりに腹を抱えている。何がそんなに愉快なのか理解できなくて、首を傾ぐことしかできない。私の胡乱な眼差しを感じ取ったのか、傑は「ごめんごめん」と笑いながら目尻を拭っている。
「冗談が過ぎる口だと思って。悟みたいだ」
「……さとる?」
 馴染みのない名前を反芻してみても、その人物らしい顔は浮かんでこない。記憶を掻き分けていく内に今度は逆方向に首が傾いていく。傑が両手で包み込んでいるラムネ瓶のビー玉が、からんと簡素な音を立てた。
「高専の同期。口は悪いし癇に障ることもあるけど、面白くて良いよ。毎日飽きない」
 丁寧に、けれど忌憚はひとつも含まれず、傑はその人のことをそんな風に述べた。空を仰いで思いを馳せているような横顔は、晴れやかに澄み切っている。
 その濃密な説明を鼓膜から取り入れた私といえば、正直驚きを隠せないでいた。私の知る傑は社交的で気配りが上手い優等生であるがゆえに、本当の意味で自分を曝け出すことが少ない印象だ。校内ですれ違うときも誰かしらと行動しているのに、その隣は特定の誰かというわけではない。心を許して気兼ねない関係になるまでに時間が掛かるとも言える。だから、入学してまだ半年にも満たないこの時期に、こうして明け透けに友人を紹介されることが信じられなかった。恐ろしく波長が合う人なのだろう。もう既に打ち解けて親交を深めている間柄なのだと、傑の語り口から用意に想像できる。私が押し出してしまった歪な世界に少なからず傑の理解者がいる。その事実に少しだけ目頭が熱くなっていた。
 徐々に夏祭りも終局に向かっていく。駅前の広場からは古めかしい音頭と人々の歓笑が漂ってくる。熱気に満ちていた人集りもいくらか疎らになっていた。私達は行く宛もなく、露店を覗き見る体裁だけを整えて夜道を練り歩いている。胸を撫で下ろして縁日を満喫している自分に反して、傑はどこか張り詰めたような面差しをしていた。
 発端はつい先程のことだ。中学時代の傑の同窓生と思しき男女グループに声を掛けられたのだ。卒業して以来それっきりの友人を偶然見掛けたとなれば、感極まって会話が白熱してもおかしくない。事実、傑を呼び止めた人達には本当に他意はなさそうだった。それなら、私だけ先に帰宅するから彼等と合流すれば良いと思い至ったけれど、それを発案しようと見上げた先で傑に目で制された。口を開かせてもくれない鋭い眼光からして、私の意向に応じるつもりは毛頭ないらしい。渋々口を噤むしかなかった。
 傑の同窓生達は良く言えば明るく朗らかな人柄の集まりで、悪く言えば人の機微に疎そうな人達だった。純粋な善意だけで他人の境界線を踏み越えてくるような、そんな印象を与えた。
「うわ、夏油じゃん。久しぶり」
「ほんとだ! そっちはお姉さんだよね? 仲良い〜」
「へぇ〜、あんまり似てないよね」
 会話というよりは所見のような感想のような一方通行の言葉達が、蒸し暑い空気と共になだれ込んでくる。傑の隣で置物と化していた私でさえ、その矢継ぎ早な発言には目が回りそうだった。それなのに、傑はひとつひとつ丁重に、軽口も挟みながら柔軟に応対していた。考え込んでは言葉に詰まって飲み込むを繰り返してばかりの私は、その手腕に感心するしかない。白旗を上げるような心持ちでその様子を見守っていたのも束の間、傑はその一言二言でうまく話を纏めて終えると、あろうことか颯爽と踵を返してしまった。積もる話の先端さえも話題に上げさせなかった技量には、果たして感心して良いものだろうか。呆気に取られて顔を見合わせている同窓生達には軽く会釈をして、頭ひとつ分飛び抜けている背格好を追い掛けた。人混みをすり抜けていく傑にどうにか辿り着き、そして今に至るというわけだ。
 ひりついた空気を吸い込むと、肺腑がどっと重たくなる。他者を寄せ付けなくなる傑の排他的な雰囲気は、けして多くはないが何度か体感したことがあった。ただ、いくらあの同窓生が気疎い言動だったとしても、彼の寛大な心を刺激するほど不躾だったとは思えない。何がそこまで傑の憎悪駆り立ててしまったのかも曖昧なのに、私は沈黙を縫い留めるようについ口を滑らせてしまった。
「傑、行かなくて良かっ……」
「行かないよ。今は姉さんといるんだから」
 ぴしゃりと跳ね除けた傑の言葉尻は、皮膚を滑る夜風よりよほど冷たく尖っていた。思わず硬直しそうになったのを、さすがの傑が見過ごしてくれる筈がない。はっとして私の方に振り向く。瞠目した瞳のかたちが揺らぎ、困ったように眉を寄せた。
「……ごめん、帰ろうか。もう夕飯できてるだろうし」
 先の発言とは打って変わってできる限り優しく落とされた声に、寧ろこっちが申し訳なくなってしまう。傑はこうして他人を優先しては自分の感情を無理にでも閉じ込めてきたに違いないのだ。
 けれど、だからこそ。高専の同級生について語った傑の、飾り気のない爽然とした表情が蘇る。毎日飽きないとまで言ってみせた「さとる」には、きっと自分の本心を曝け出すことができているのだろう。気を遣いすぎす張り詰めすぎず、心置きなく自然体で接することのできる相手なのだろう。「さとる」の与り知らぬところで、多くの褒章を授けながら、彼のことを考えた。例えこれから先の人生で相見えることがなくても、私の胸中には偉大なる人物として名を刻まれるのだろう。そんな予感が口元を緩ませた。
 家路を辿って歩けば歩くだけ、静謐な真夏の夜が深まっていく。華々しい光の束と、壮大な祭囃子が、夜の向こう側へと消えていく。
 一緒に肩を並べて歩くという機会が貴重で感慨深いものとなった今、この縁日の記憶は殊更に輝いて、私という人間を生かし続けてくれる。