祈りの葬列

04

祈りの葬列

 ようやく、満を持して春を迎え入れた。折良く桜前線が卒業式に駆け込んできたものの、生憎の俄雨によって微々たる花弁のほとんどは一掃されてしまった。水溜まりに沈んで精彩を失った桜は、この時期に芽吹いて蕾を膨らませたことを嘆いてはいないだろうか。同級生達との別れを惜しみながら、足許に這いつくばっている痛ましい落花に、そんな捻くれた同情を寄せていた。
 卒業式後に催された謝恩会は粛々と進行し、無益に時間を浪費することなくあっさりと閉幕した。良くも悪くも無難な会合では物足りないと感じた生徒の大半は、身内だけを招集した打ち上げ会場へと向かったが、私はその波に逆らって家路を目指した。帰途を催促してきた相手は勿論、他でもない傑だ。二次会に誘われる直前になって滑り込んできた「いつ帰ってこれる? 母さん達張り切ってるよ」のメール、そこに潜在する真意は考えるまでもない。実際、向こうに扇動する意図があったのかは定かでないが、私に齎される効力としては同じことだ。丁重に断りを入れて帰路を急ぐ以外の選択は許されなかった。
 桜の寿命を縮ませた俄雨は長引いて、それどころか人類に楯突くような豪雨となって、世界を蹂躪する。例に漏れず、暴風に巻き込まれて傘がひっくり返った私も全身びしょ濡れになっていた。中学生活がこんな世紀末じみた天候によって締め括られるとは思いも寄らなかった。反面、どこか腑に落ちている部分もある。この空模様は、己のよこしまな本性を自覚したあの日とそっくりだ。この天候こそが清くも正しくもない私の品行が加味された上での総括だというなら、甘んじて受け入れる他ないだろう。
「災難だったね」
 とは、玄関の扉を開けた矢先に飛び込んできた労いの言葉である。出迎えてくれた傑は勢いを増す雨脚の弊害を見越していたのか、バスタオルを広げて待ち受けていた。「ただいま」と「おかえり」の応酬さえ切り詰めて、いの一番に濡れ鼠の私を包み込んでくれる。力強くも優しい手付きが、余分な水分を拭い去っていく。いつかのフラッシュバックに意識を丸ごと飲み込まれそうになって、薄く目を眇めた。
「……傑、ひとり?」
「ああ、母さん達なら買い出し行ってるよ」
 やけに静かな室内に違和感を覚えていたけれど、そういうことかと納得する。留守番を任された傑は、抜かりなくお風呂を沸かしてくれていた。優秀すぎる弟は人徳だけでなく先見の明まで兼ね備えているらしい。底なしの包容力はありがたくもあり、少しだけ恐ろしくもある。この依存性から脱却できる自信がまるでない、なんて甘えた戯言を噛み砕き、私は逃げるように浴室へと駆け込んだ。冷え切った身体を余すところなく熱湯に沈める。否応なしに蓄積されていた疲労が、湯気と一緒に蒸発していくような心地になった。
 心ゆくまで湯浴みを堪能してからリビングに向かうと、ソファを陣取っていた傑が顔を上げて手招きした。隣に腰掛けようとするが、無言で手を引かれて彼の足許へと誘導される。ラグマットを敷いているのでフローリングに直で座るほど冷たくも硬くもないけれど、傑に見下されている感覚のせいで平静ではいられない。据わりが悪くてそわそわと肩を揺らしていると、今度は頭上から騒々しい音と共に突風がなだれ込んできた。
「な、何。急にどうしたの」
「今日の主役に手を煩わせるわけにもいかないだろう」
 どうやら卒業という節目を迎えた私を労い、阿ってくれる算段らしい。用意周到にドライヤーを確保していた傑は、まともにタオルドライすらしていない水気たっぷりの私の髪を乾かし始めた。温風に紛れて髪を梳く指先が、時折頭皮を掠めてこそばゆい。煩悩も打算もまるで窺えない真摯な手指に感化されて、自然と背筋が伸びていた。
 甘やかされて育ってきた。両親にも、実弟にも。その自覚があるし自責もあるのに、どうしてもこの手を振り払えない。今日は特別だから、最後にするから、なんて屁理屈を免罪符にして、この贅沢を貪ってしまう。どこまでも狡猾で貪欲な自分に心底嫌気が差して、虫唾が走った。
 そんな私の煮え切らない心境を、聡明な弟はどこまで見透かしていたのだろう。正直なところ、その全てを把捉した上で私を掌の上で転がしていたとしても、何らおかしくない。そんな憶測が脳内を飛び交うほどに、傑が火蓋を切って落とすタイミングとは実に絶妙だった。まさに今この瞬間も。
 無防備を晒していた首元に、微かな違和感が絡み付く。普段そういった類の宝飾品にまで気を配った試しがないから、何が起こったのか咄嗟には判断できなかった。それでも、徐々に乏しい知識が擦り合わさって、曖昧だった違和感が縁取られていく。まさかと思い首根に指を這わせると、そのまさかが直に触れる。心臓が生き急ぐように激しく波打った。
 触覚だけを頼りにした推測にはなるけれど、疑う余地はほとんどなかった。秘密裏に、さり気なく、私の首に小ぶりのネックレスが仕込まれていた。この空間においてそれを為せるのは、私を除けばひとりしかいない。
「傑、これ……」
 高揚を悟られないように、ゆっくりと顔を上げる。何食わぬ顔でドライヤーの電源を落とした傑は、私の愚直な反応を待ち構えていたかのように口端を上げた。涼し気な瞳は、混乱している私なんてまるで眼中になく、盤石の余裕だけが広がっている。一体どこまでが彼の筋書き通りなのだろう。少しだけ身構えてしまう。
「卒業記念にどうかと思って」
「どうって、こんな、高そうな……」
「安物だよ。私の呪力を込めただけの、呪霊避けの効果があるだけの、ね」
 混乱が押し寄せて、軽く目眩まで催しそうになる。言い聞かせるように添えられた言葉は、ただの補足に留まらない膨大な情報量を有していた。贈呈品の価値が値段で決まるわけがないのは当然として、問題はその後だ。私に纏わり付く呪霊を処理してくれていた傑本人の呪力が込められているとなれば、このネックレスに呪霊避けの効果が内包されていても不思議ではない。そうだとして、どうして今になって傑はこのような対処法を閃き、実行に移したのだろう。中学と高校とで活動拠点が異なり、呪霊の迎撃に間に合わない可能性があるから。主たる理由として妥当なのはこれくらいだけど、それだけが理由とは考えにくい。この妙案に思い当たった契機がある筈だ。私の突拍子もない直感は、あながち的外れでもなかった。
「来年、呪術高専に行くよ」
 激しく忙しなく波打っていた心が、途端に静まり返る。その簡潔でいて明快な事実は、傑の声を纏ってすんなり胸に落ちてきた。理に適っている。こうなる未来を渇望していた。それなのに、辿り着いた未来の先で素直に喜べる気概は微塵もなかった。ただ、漠然とした虚無感だけが内なる心を巣食っている。
 傑の決断はまさに英断だった。一般的な高専のように、専門的な教育を施すだけが呪術高専の方針ではない。実務を通して呪術師としての素養を高めていくのも立派な教育だと捉えている。つまり、呪霊と対峙する機会が多く、死屍累々の戦線を余儀なくされるのもままあるということだ。賢明な弟のことだから、そこも踏まえて熟考した上での結論だろう。対して愚姉である私は、自分の卑俗な感情との決別ばかりに気を取られて、こうなるように仕向けてさえいた。浅はかな自分が不甲斐ない。そして、地元を離れて呪術高専の寮に住まうことになるであろう傑との離別に、一抹の寂しさを覚えている身勝手な自分が何より情けなかった。
「姉さんが火を付けたんだ。これくらいの我儘は許してほしいけどな」
 そんな暗澹とした心境を洗い流すように、冗談めかした柔い声で傑が笑った。我儘なんていう自虐は傑らしいけど、まるでそぐわない。私に施してくれたものには相応の労力と至上の価値が詰め込まれている。甘い罠だ。これを受け取ってしまえば傑への傾倒が強まるばかりだと理解していても、無下になんてできる筈がない。触り慣れないネックレスの感触をぎこちない手付きで確かめながら、下唇をきゅっと噛み締めた。
「いつもありがとう、傑」
「これからはいつもとはいかなくなるよ。肌身離さず持っていること」
 いいね? と囲い込むような傑の念押しに引きずられて深く頷いた。今になって、優しい自慢の弟を突き放して焚き付けるような真似をしたこと、後悔している。どれだけ罪悪感を育んだところで、傑が自らの選択を反故にすることも途中で引き返すこともないだろう。責任感と自律心の鑑のような人間だから。傑が見据えた遠い未来では健やかに生きてほしいと祈ることさえ、今の卑怯な私には烏滸がましい。
 古臭い学び舎に押し込められた三年間を振り返れば、至る所に傑との思い出が散らばっている。私の仄暗い劣情なんて知る由もない傑の、春先のような淡い微笑が脳裏を掠めるたび、胸が潰れそうになるのだろう。色褪せない記憶によって拗れきった呪縛は、今日も明日もその先も、私に取り憑いて侵食している気がしてならなかった。


 地元の公立高校といえど、新たな環境や人間模様に順応するにはそれなりの時間と気力を要した。ただ、そんな心労が微々たるものに感じられるくらい、厄介極まりなかった私の体質が一転した。起因は言うまでもなく、傑から貰い受けたネックレスだ。呪霊避けの効果は絶大で、あれだけ蛆虫のように湧いては擦り寄ってきた呪霊達は、そのほとんどが私に見向きもせず通り過ぎていく。そもそも存在が可視化されていないような、まるで透明人間にでもなった気分だ。非凡な特性を身に纏った私は、ようやく念願叶って平凡な高校生としての一歩を踏み出していた。
 安息の日々を招き入れたことで、私と傑の関係にもわずかに変化の兆しが見えていた。呪霊が寄り付かなくなれば当然、その処理を請け負ってくれていた傑は時間を割かずとも良くなるし、わざわざ触れることもない。つまり、もはや懐かしくさえある極々普通の姉弟としての日常が息を吹き返したのだ。変わらず傑はこんな姉の身をを案じてくれる心配性の弟で、変わらず私はそんな弟の過保護に甘えきっている怠惰な姉で。でも、交わす会話は他愛もない雑談ばかりが占めて、傑から自発的に呪霊や高専について言及することはなくなった。私が呪霊を視認できると発覚するまでの、いわば秘密を共有するまでのふたりに立ち返ったような心地だ。私も手ずから話題に捩じ込むような不躾な真似はしなかった。
 そうして、私が一般的な高校生の軌道に乗り始める一方で、傑は特殊な稼業を担うための下準備に取り掛かっていた。テスト休みや長期休暇の度に「社会見学だよ」と曰くありげに言い残して家を空けるようになったのだ。憶測にはなるけれど、呪術師に帯同して祓除を見学しているか、或いは補佐的な役割まで引き受けているのだろう。その細部が傑の口から語られることはなかったので、実際に何をしていたのかまでは定かでない。詮索しようにも、きっと傑お得意の口才でうまくはぐらかされるのがオチだ。それに、このネックレスに込められた効果とその本意に鑑みれば、傑が私を非日常から遠ざけようとしてくれているのは明白だった。その厚意を蔑ろにはできないから、傍観する以外の余地はない。衣服の隙間から覗く皮膚を盗み見て、新たに手傷を拵えていないかを確認するのが精一杯だった。
 呪術高専にはお飾り程度の入試制度はあるようだけど、実情としてはスカウトによる入学が生徒の大半を占めているらしい。だから、体練を積む片手間で勉学に励む傑を視界に入れるたび、思わず首を傾いだものだ。
「どういう進路を取るにしても、学術や教養がお荷物になるようなことはないだろう」
 私の声なき疑問を悠々と汲み取って、あまつさえ真っ当な持論を唱えてしまう傑は、本当に私と血が繋がっているのだろうか。リビングのソファに寝転がりながら、漫画片手にアイスを齧る私には耳が痛い話だ。反面教師としては正しい在り方かもしれないけど。開き直りたい私欲を押し留めて、せめてもの自省として上体を起こして背筋をぴんと伸ばした。テーブルにノートと参考書を広げていた傑は、間に合わせの更生を一瞥すると、不意を突かれたようにふっと微笑を弾き出した。とんだ赤っ恥、とんだ生き恥晒しだ。
「……笑わないでよ」
「ごめん、従順だなって。姉さんはそのままが一番だよ」
 正論を説いたその口で取って付けたようなフォローを入れられても、却って虚しいだけだ。ちっぽけな反抗心に駆り立てられて、参考書に向き直ろうとした傑の背中を爪先で柔く小突いた。また吹き出して「足癖が悪いのは問題だけどね」と言い添えた傑の小言には素知らぬ顔をしておく。こういう不誠実な素行を私は誰から学んでしまったのか。少なくとも傑からでないのは確かだった。
 こうして傑の傍で過ごせる最後の一年間は、なだらかに終着へと向かった。傑の卒業式は一点の曇りもない晴天に恵まれた。俊英な彼の人生を模したような鮮やかな青空は、間違いなく祝福の象徴だ。高校の授業を終えて早々に帰宅した私は、第二の祝福をスカートのポケットに忍ばせてキッチンに立った。いつにもましてご機嫌な母は、料理に精を出している。その傍らで私は申し訳程度に野菜を刻んだり小皿に分けたりするだけで、詰まるところ何の役にも立たなかった。謝恩会を終えて直帰した傑は、豪勢な料理にも怯むことなくしっかり平らげた。ちなみに、傑が家を出るまではお行儀よく陳列していた学ランのボタンは、今はもう跡形もなく引き千切られている。想像を遥かに絶する弟の女性人気を目の当たりにして、戸惑いを隠せなかった。
 賑やかしい祝宴が閉幕したところで、隙を見計らって傑に一声を投じた。携帯に視線を落としてソファで寛いでいた傑が、呼び声に反応して目線を上げる。傑の抜け目ない洞察力を警戒してしまい、咄嗟に目を逸らしてしまった。勘付かれただろうか。別に勘付かれたからといって減るものでもないのに、無性に落ち着かなくなる。愚直で迂闊な自分の眼球を呪っていると、平然と穏やかな目付きを保ったまま、傑は薄い口唇だけを動かした。
「どうしたの。ここ、座る?」
「すわ……る」
「いらっしゃい」
 みだりに広がっていた長い両足が、折り目正しく揃えられる。私ひとり座るのに十分なスペースを確保すると、傑は座面を叩いて腰を下ろすように促した。こんなときまで親切を欠かさない。祝福する側が歓待される側に回るなんて、私の目論見は既に破綻しかけているのに、心はまだ浮き足立っている。改めて傑の隣に浅く腰掛けた。垂れ流している騒々しいバラエティ番組の隙間を縫って、ダイニングにいる両親のささやかな談笑がたゆたっている。代わり映えしない、いつも通りの夏油家だ。
「……ピアス、そんなに開けたかったの?」
 ふたりの沈黙を含んでいた空気が、わずかに震える。不貞腐れたような私の言及に意表を突かれたのか、傑はぱちぱちとまじろいだ。いくらか唐突な気もしたけれど、私にしてみればその疑問ばかりが脳内を埋め尽くしているので、仕方なかったりする。厚ぼったい耳朶に密着している透明な異物が視界の端を掠めるたび、胸の奥がさんざめいた。
 優等生じみた言行の裏で、退屈や凡庸を好き好んではいないあたりが、傑の人間味溢れる本質だと思う。だから、ピアスを開ける行為自体にそこまで驚きはない。ただ、私の眼裏にはいつかの記憶に取り憑かれた幽霊が棲み着いている。私がまだ中学に在席していた頃、体育館の倉庫で傑と身体を重ね合わせていた女子だ。傑の周囲には浮いた噂もなければ女性の影もなかったけれど、あの衝撃的な場面に遭遇してしまえば、公表していないだけで恋人がいる可能性を否定できなくなった。それどころか、三年という月日を煮詰めて、あの子との純愛を育んでいる可能性だって大いにあり得る。もしもこのピアス穴が、卒業を機に別離に向かう恋人達を繋ぎ留めるための空洞だったら。いずれお揃いの飾りが揺れて、ふたりが一心になるのだとしたら。そんな可能性の話だけで気分が悪くなった。
 私の醜い嫉妬を知ってか知らずか、傑は何食わぬ顔で微笑み返してきた。まるで子どもの地団駄を宥めるときみたいに、悠然とした余裕を靡かせている。
「どちらかと言うと、開けてみたかった、くらいの感覚かな。深い意味はないよ」
「……そうなんだ」
「姉さんも興味ある?」
「わ、私はいい……!」
 大袈裟なくらい身振り手振りで遠慮を示すと、傑は「冗談だよ」とからかうように笑った。
「姉さんはだめだよ。母さん達から貰った身体は大事にしないと」
 ちゃっかり自分のことは棚に上げて、いかにもな説諭を落としてくるあたりが傑らしい。同じ母体から生まれ落ちた片割れなのに傑はいいんだ? とぶちまけそうになった皮肉は舌で丸め込んだ。実際、痛覚を虐げてまで自傷じみた装飾をする気にはなれないし、大人しく忠告に従うまでだ。
 ピアスを開けた意図の真偽については、私には知りようがない。もし仮にあの理由が虚偽だとしても、傑の手厚く隙のない嘘で包み込まれてしまえば、それを見破る手段などないも同然だ。諦めて信じ込むしかない。とはいえ、傑に寄越された女色の薄い返答は、或る意味で好都合だった。これから始動するサプライズに、少なくとも邪魔にはなり得ないという保証が付いたのだから。
 意を決して、ポケットをまさぐる。こっそり取り出した小箱を素早く傑の手のひらに乗せてみた。傑の目が大きく見開かれて、一際鼓動が慌ただしくなる。
「え、これ」
「卒業おめでとう。……あの、あんまり期待しないでね」
 やっとの思いで漕ぎ着けたサプライズなのに、面と向かってしまうと羞恥が込み上げてきて、素気ない言葉でしか応対できなくなる。本当はもっと大々的に、傑が呆気に取られて身動きが取れなくなるくらいの規模で祝福したかったのに。まあ、用意しているプレゼントにそれだけの価値はないので、夢のまた夢ではあったのだけど。
 空回りしている私の熱意に対して、傑は冷静に謝意を述べるのだろう。そう見越していたけれど、そうはならなかった。思い掛けず、傑は照れ隠しのように片手を口元に添えて黙り込んだ。珍しく視線が彷徨っている。
「……開けてもいい?」
「え、う、どうぞ」
 期待値を下げようとしつこいくらいに「大したものじゃないから」「センスないかも」を繰り返したけれど、傑は聞く耳を持たなかった。淡々とした所作でリボンを解き、蓋を開ける。中では何の変哲もない、限りなくシンプルなピアスが待ち構えていた。余計な装飾がないぶん、無彩色の人工水晶が淀みなく艶めいている。いくつかの雑貨屋を巡って、最終的に行き着いたのがこのピアスだった。混じり気のない無垢な漆黒は、私を覗き込むときの傑の瞳によく似ていて、恐ろしく惹かれた。気付いたときには会計を済ませていたくらいには、運命的な出会いだったのだ。
 このピアスを傑は受け取ってくれるだろうか。付けてくれるだろうか。答えの分かりきった問いが延々と渦巻いている。なんて不毛な思考回路だろう。傑が、他者からの贈り物を目の前でぞんざいに扱うような人柄ではないと、私自身が一番に知っている。その見解は間違いではなかったけれど、同時に最適解でもなかった。傑の視線が手元から私へと流れ着くと、小箱をこちらに差し出してきたのだ。
「姉さんが付けてくれないか。記念にさ」
 まさかここまで好意的な反応が返ってくるとは思いも寄らなかった、というのが素直な感想だ。一直線に突き抜けてくる傑の瞳に囚われて、頷くしかできなくなる。震える手でその小箱を受け取った。
 ピアスなんて付けたことがないから、傑に教示してもらいながら辿々しい手付きで彼の耳朶にそれを装着した。見立てた自分が誇らしくなるくらい、よく似合っている。触れた耳朶は、分厚くてかさついた皮膚を擁する傑からは考えもつかないくらい柔らかくて、同じ人体とは思えなかった。愛おしさすら覚える。この機に乗じて耳朶を弄んでいると、傑から「くすぐったいだろ」と静止を促す声が飛んできた。後手に回っている傑はちょっと面白い。ちょっかいを堪能し終えると、その耳飾りから手を離した。
 私の首元には、片時も離れることなくあのネックレスが絡み付いている。残念ながら、このピアスは同じような神秘の効能を持ち合わせていない。本当にただの装飾品だ。それでも、ただの願掛けでしかないけれど、私はたくさんの祈りを詰め込んだ。傑が大怪我を負うことなく平和に暮らせますようにとか、心を許せる友人ができますようにとか、あわよくばこのピアスを見留めるたびに私の存在を思い起こしてくれますようにとか。この願望と欲望のひしめくピアスが傑の耳元できらめくことを、ずっと浅ましく、祈り続けている。