いつわりごと

03

いつわりごと

 休日の繁華街は身動きも取れないくらいの人混みで溢れ返っている。さながら日の出前の初詣みたいだ。目当ての店にまで無事辿り着けるだろうか。せっかく市街地に繰り出したのに、懸念ばかりが蓄積されていく。真夏の日射と過密区域の洗礼を受けて、私は既に憔悴しきっていた。加えて、物陰に潜むあやかしの舐め回すような視線。普段よりも禍々しい造形が、不気味さを助長させている。面倒事に巻き込まれないよう意識して目を逸らしていたけど、それが却って通行の妨げになってしまう。行きずりの人と肩がぶつかって、不意によろめいた。重心が傾きかけたのを転機に、怒涛の勢いで人波に揉みくちゃにされていく。けれど、慌てふためく暇は一瞬たりとも与えられなかった。雑踏の濁流に危うく飲み込まれそうになった私を瞬時に引き上げてくれた、頼り甲斐のある優しい手のひらがあったから。
「姉さん、こっち」
 通行人の隙間から伸ばされた手に、軽々と腕を引き寄せられる。そのままビルの庇の下に連行されて、私よりも一回りも大きい身体に遮られて、灼熱の陽光は姿を晦ませた。群衆の渦から逃れたことも相まって、皮膚に纏わり付いていた熱気が微かに和らぐ。私を強引な手段で避難させてくれたひと――傑は、この窮屈な空間をも含めて都会を満喫しているような笑みを滲ませていた。
「すごい人だかりだな。一旦休憩しようか」
「でも、買い物……」
「時間は十分あるよ。冷たいものでも飲みに行こう」
 有無を言わさない提案は、けして自分本位なものではなく、私を気遣ってのものだろう。いつも気が利く傑らしい誘導の仕方だった。本来の目的と人流から逸れて、私達は近くの空いてそうな喫茶店に入店した。
 昭和のレトロテイストな外観の喫茶店は、内観も格式高そうなテーブルや家具が敷き詰められていた。心なしか客層も、淑やかに談笑している上流階級のような人ばかりだ。中学生身分相応の服装やメイクを纏っている私はその優雅な雰囲気だけで萎縮したけれど、隣の傑は平然と店員に呼び掛けていた。確かに彼は大衆向けの賑やかなカフェよりは、気品に富んだ静謐な喫茶店の方が好みそうだ。日当たりが良い窓際の一角に案内されて、傑はアイスコーヒーを、私はアイスティーを注文した。
「疲れた?」
「……ちょっとだけ」
「だろうね。電車乗ってるときから顔険しかったし」
 やはり傑には全て見透かされてしまっていたようだ。陽光を吸い込んだ黒目が柔く撓んで、私の胸中が静かにどよめいた。束の間の心労を悟られる程度ならまだ良い。でも、私の内側には絶対に世に露呈してはならない内情が潜んでいる。傑の理知的な瞳にひとたび囚われてしまえば、ひた隠しにしてきた実弟への劣情さえも暴かれてしまいそうで、生きた心地がしなかった。目線や仕草、呼気のひとつさえも油断ならない。さんざめく鼓動が沈静化するのを待って、細心の注意を刻み込んで私も笑顔を差し向けた。
 今日、姉弟揃って珍しく都心に趣いたのは、私達の両親がきっかけだった。一週間後には彼等にとって節目となる結婚記念日が控えている。ふたりが喜びそうなプレゼントを贈りたいという意見が合致して、数ヶ月前からお小遣いを貯めて準備に取り掛かっていたのだ。今日はそのプレゼントを見繕うという任務を遂行するための、貴重な一日だった。私の不調によって計画が頓挫してしまう事態だけは何としても避けたい。早急に体調を整えたくて、運ばれてきたアイスティーをストレートで喉奥に流し込んだ。上品な味わいが干乾びていた咽頭を潤していく。芳醇な甘さはちょっぴり大人の味だ。背伸びしすぎたそそっかしい自分を恥じながら、手元のシロップとミルクを続々と投入する。姉の軽はずみな醜態を見留めて微笑んだ傑は、澱みのない液体にストローを差し込んで口に含んだ。ブラックの風味にも顔色ひとつ変化のない表情は、私と対照的に余裕を持て余しているように見える。悔しくてこっそりストローの端を噛んだ。
 店内を循環する冷風と提供されたドリンクのおかげで、皮膚にべったりだった汗も引いていく。うなじに貼り付いていた後れ毛を整えながら、アイスティーを飲み干した。猛暑の日照りが、ガラス越しにも氷の存在を脅かしていく。
「受験勉強は順調?」
 休息の時間を引き伸ばしたのは傑の方だった。唇からストローを遠ざけて、私に向かい合う。正直あまり芳しくない、けれど家族ならば危惧して当然の話題だった。中学生最後の夏休み、その真っ只中。心残りがない程度に遊び尽くしたい反面、どうしたって受験や勉強の文字が脳裏をちらついてしまう。今の私も漏れなくだ。誇れるような進捗でも成績でもない私は、口角を引き攣らせてあからさまに目を背けてしまった。順調ではない確証を得たであろう傑の忍び笑いが漂って、頬が熱くなる。観念して口を割った。
「……実はあんまり。そろそろ本腰入れないとだめだなあ」
「姉さんなら余裕だよ。狙ってる公立、本当ならもう少しレベル上げても良いくらいだろ」
「買い被りすぎだよ」
 豚もおだてりゃ木に登る、の検証でもしてるのかと疑いたくなる褒め殺しだ。残念ながら木には登らないし登れない。とことん身内に甘い傑からの評価は程々に聞き留めて、ふいに来年の今頃を思い描いてみた。無事、志望校に受かって憧れの制服に袖を通すことができているだろうか。念願の女子高生ブランドを手に入れた空想上の自分は、いまいちしっくりこない。違和感の正体を見破るのは簡単だった。隣に、傑がいないからだ。小学校中学校と私が先に足を伸ばしても、一年経てば傑が後を追い掛けてきた。けれど、高校はそうもいかない。志望校選びは進路の分かれ目と称しても差し支えないくらい大事な選択だ。家から近くて通学が楽だから、なんて怠惰な理由で徒歩十分の公立高校を受験する私と違って、傑は安定した道を進むだろう。それを可能にするのに申し分ない学力も内申も揃っている。これまで至れり尽くせりだった弟の過保護から抜け出すにはうってつけの機会だと、そう思い込もうとした。それなのに。
「一年離れるのは、さすがに心配だけどね」
 寂しい感傷に浸るより先に、憂色を纏った傑の声が鼓膜を揺らした。唖然とする。開いた口が塞がってくれない。今の私は、きっと及びもつかないほど間抜けな表情を晒していることだろう。絶句するのも当然だった。一年、と妙に強調された期間には、彼も同じ高校に進学するという意思が宿っている。狼狽えている私の視線を面白がっているのか、傑はアイスコーヒーを啜りながら口元を緩ませた。その鷹揚とした態度は、この仮定の確かな裏打ちでもあった。
「まさか同じ高校にするの? 傑こそいくらでも上を目指せるでしょ」
「興味ないかな。進学校に行くことだけが正解とも限らないだろう」
「……」
 真面目な性格の割に退屈を疎んでいる、傑らしい持論だった。納得はできる。嬉しいとか安堵したとか、そういう感情も控えめながら湧き上がった。でも、それ以上に私の胸中を占有したのは不甲斐なさだ。傑が溢した発端の一言が、脳裏に反響する。恐らく彼は、否応なく化け物を引き寄せてしまう私の体質を懸念しているのだろう。もしも同じ進学先に決めた理由が私を心配して目が離せないからだというなら、それは私の存在が傑の人生の足枷になっているということだ。情けない。一緒にいるのも助けられるのも当たり前になっていた。今になって、その優しさを搾取し続けていた己の醜悪さを自覚して、下唇をきつく噛み締めた。
 本当は、これが最後の機会になる予感があった。傑を異性としてではなく、血の繋がった弟として正しく認識できる最大の転機。色濃く刻み込まれている拗けた恋心は、ただ野放しにしておくだけでは成仏も滅却も不可能だろう。例えばそう、物理的に距離を取るくらいの強硬手段に出なければ、この爛れた盲目的な錯誤を改めることはできない。この件に際して、高校受験は最も効果的で現実的な別離の手段だった。
 できることなら、私だってありふれた平穏な姉弟に戻りたい。いずれ傑に紹介されるであろう恋人を心から祝福できる、弟思いの良き姉でありたい。願わくはを叶えられるターニングポイントは、この機を逃せばそう何度も訪れないだろう。根拠のない推論だけど自信だけは潤沢に備わっている。食い入るように傑を見つめて、決意を秘めて唇を開いた。
「私のことなら気にしないでね。傑がいなくても、全然……」
「……はは、よく言うよ。今日だってこんなに連れ立ってさ」
 茶化しているというよりは端から拒絶するような口振りだった。穏やかに凪いでいた傑の瞳に冷酷な色が灯される。彼が鋭く見据えたのは私――ではなかった。目の前に掲げられた手指が、宙を掴むような動作を示す。はっと息を呑んだ。もう幾度となく見慣れた光景だ。私の背後から吸い寄せられた異形は、一瞬の金切り声を落として凝縮された。首尾よく傑の手のひらに収まった球体は、華やかな店内に馴染まない怪しげな色彩を帯びている。
 見せつけられているようだ、と思った。特異的な私の体質は傑の能力なくしては対処のしようがない実情を、揶揄を混じえて披露する。皮肉屋なきらいがある傑のやりそうなことだ。それでも、そこには一切の虚偽を挟まない、紛うことなき真実が広がっていた。現実を突き付けられて、決意もろとも心臓が萎んでいくような心地になる。どんなに否定しようと説得力の欠片もない。結局、将来性に富んだ優秀な弟を、私のつまらない人生に縛り付けてしまっている。これまでも、きっと、これからも。
「すみません、少しよろしいですか」
 そんな淀んだ空気の狭間を、聞き慣れない第三者の声が横切っていく。反射的に首を擡げると、いつの間にか見知らぬ男性が私達を見下ろすようにして立っていた。三十代くらいの、かっちりスーツを着こなした清潔感のある男性だ。胡散臭い笑顔を浮かべるでもなく、かと言って不穏な会話を垂れ流す私達を白眼視するでもなく、真剣な眼差しで私達を――とりわけ傑を注視している。状況を飲み込めず助け舟を求めて目を泳がせると、真向かいの傑は露骨に憮然とした面持ちを貼り出していた。どっと、滝のような冷や汗が背中を伝っていく。無害な他者にはそれなりの礼節で対応する弟のこの剣幕からして、相当腹の居所が悪い証拠だった。気道が締め上げられるような感覚に陥って、肩を震わせた。こういうときの傑は、どんな論説を繰り広げて相手を貶めるか、分かったものではない。
「素性の知れない不審者に費やす時間はありませんけど」
「ちょっと、傑」
「失礼。私、こういう者です」
 取り付く島のない、骨の髄まで凍て付きそうな冷淡な声が空気を切り裂いた。無関心を通り越して敵意さえ感じさせる眼力は、対象じゃない私まで寿命が縮みそうな威力だ。しかし、男性側もかなり豪胆なようで怯む気配は見せない。刺々しい睥睨を意にも介さず、すかさず懐から名刺を取り出した。端から聞く耳を持たない傑にではなく、目を見開いて惚けていた私の元に、それが差し向けられる。思わず受け取ってしまった。高級そうな手触りにたじろぎながら、紙面に目を滑らせる。大々的に記された名前よりも、片隅に伏在する長々しい所属と肩書きに意識が向かった。
「……東京都立、呪術高等専門学校?」
「宗教系の私立高として認知されています。表向きは、ですが」
 文面をなぞっただけのがらんどうな私の呟きに、待ってましたとばかりに男性は補足を付け加えた。他人の興味を惹き付けるのが巧みなひとだ。何か裏のありそうな含みを持たせた物言いに、単純な私は勿論のこと、警戒していた傑さえも少なからず反応した。明確な嫌悪を湛えていた瞳が揺れ動き、わずかな関心に染まる。微細な表情の移ろいを察知したのは、きっとこの場で私限りだ。その機微を見抜けなかった男性は、流暢な語り口で説明を続けた。
「本来は、貴方が先程収集したような異形を退治する若輩を育成する機関です」
「……!」
「私はその方々を補佐する役割、それから才能がありそうな人材を各地からスカウトする役割を担っています」
 現実味のない情報が滔々と流れ込んできて、思考が忙しなく狂奔している。耳を疑うような話だ。架空の作り話としか捉えられなかっただろう。……この世界の裏側に潜んでいる、常識を覆すほどの壮大な真理を知らなかった頃の自分ならば。至る所に蔓延るあやかしを認知している今となっては、その存在を示唆した初めての人間をただの詐欺師だと一蹴することはできない。素直に受容できる。それどころか喜ばしいことだとさえ思う。男性の陳述を鵜呑みにするなら、この世界には私達以外にもあやかしを認識して対処できる人間がいるということだ。それはとても心強く、頼もしい現実だった。
 けれど、胸を弾ませて傾聴していた私に反して、傑は険しい剣幕を崩さなかった。依然として、怪訝そうな眼光が男性に突き刺さっている。一体、何がそんなにも傑の顰蹙を買っているのだろうか。言動にしても立ち振る舞いにしても、作為的なきな臭さは微塵も感じない。誠実そうな印象の方がよほど勝っている。同じ境遇に身を置く人間がいること、その異才を十二分に発揮できる機関があること、総じて傑には悪くない話のように思えた。なのに、彼の表情は沈んだままだ。
「ほんの少しで結構です。お時間を頂けませんか」
 畳み掛けるように長広舌を振るった男性は、最後には至ってシンプルな問い掛けを用意した。これで傑が矛先を収めて押し切られてくれるとの判断だろうか。雲行きの怪しい空模様でも眺めている気分になりながら、未だ難色を示したままの傑を見据えた。
 もしも、だ。この話題に少なからず食指を動かされている傑の、その本音と乖離した冷酷な態度に、何か理由を与えるならば。それはきっと私に他ならないだろう。この特殊な機関に所属するとしたら、傑は家を離れ、私とは別の進路を取ることになる。名刺に記載された高専の住所からしても、この見込みは正しい。私の厄介な体質を誰よりも実感して対処してくれている彼は、間違いなくその選択を渋るだろう。ならば、取るべき行動はひとつだった。私の存在が傑の決断を鈍らせているなら、私の言動で傑の決断を後押しすることもできる筈だ。
 財布から取り出した新札をそっと伝票の下に忍ばせる。ハンドバッグを抱えこみ、椅子を引いて立ち上がった。淡々と店を出る身支度を始めた私に、傑も男性もその意図を察したようだった。空々しい芝居を卒なく披露してみせる。
「ね、話だけでも聞いてみたら。先に出てお店いくつか回っておくから」
「……姉さん」
「この人の話が本当だとしたら、傑にとって大切なことが聞けるチャンスだよ。……きっと、私にとっても」
 我ながら卑怯な誘導だと思う。傑が気乗りしていないのを承知の上で、きっとこの男性からしか得られない情報があると扇動した。私を心配してくれている傑の温情を逆手に取ったのだ。不誠実な一手に心苦しくなりながらも、この邂逅が傑の将来の幅を広げてくれる期待を込めて「お願い、傑」と言い添えた。
 正直、納得とは程遠い表情だった。未だ深く刻まれた眉間の皺が、彼の荒んだ心情を物語っている。けれど、私に便乗して立ち上がることも男性を追い払うこともせず、席に座り続けている。私の真意を汲んでくれた上で、最大限彼なりに譲歩してくれたのだろう。その優しさに甘えて、男性に軽く会釈をした後に喫茶店を後にした。獰猛に襲い来る真夏の日差しが、人でなしな私を糾弾しているように思えてしまった。
 合流しようという旨の連絡が入ったのはそれから三十分後だった。目星を付けていた雑貨屋の一軒目に立ち寄ったばかりだったので、そこから数分店内を物色し続けていると、女性客ばかりの店内にそぐわない精悍な巨体が現れた。あんなに気色ばんでいた形相がいくらか穏やかに凪いでいる。……そんな印象を抱くのは都合が良すぎるだろうか。視線を彷徨わせていた傑は逸早く私の姿を捕捉すると、軽やかな足取りでこちらに歩み寄った。
「お待たせ。良さそうなもの見つかった?」
「あ、まだ……」
「そう。もうひとつの店も回ってみようか」
 完全に先手を取られて、会話の主導権を握られる。男性から聴取した話の全容を明示するつもりはないらしかった。私からの追及を一切寄せ付けない柔らかな微笑が、傑の顔に固く縫い付けられている。我儘を通した手前、これ以上傑の気分を害する行為を連ねるのは誠実さに欠けるという他ないし、死に急ぐようなものだ。猫をも殺しかねない好奇心は奥深くに沈めて、唇には箝口令を敷いた。本来の目的を果たすため、炎天下の日差しと人工的な冷気を順繰りに浴びていく。店を渡り歩いた成果として、晩酌好きな両親にぴったりの徳利とお猪口のセットを手中に収めることができた。満足感に浸りながら、緩やかに帰路に就く。運良く席を確保できた電車の中では、どちらも口を割ることなく互いに無言を貫いた。車窓側に座る傑の双眸は、夕映えに染まる入道雲を映し込んでいて、どこか遠い場所に思いを馳せているようでもあった。


 帰宅したその日の夜、湯船に身を委ねて熟考すること四十分。いい加減上がりなさいと、母親恒例の小言が飛んできたところで、ようやく私も腹を括った。温もった身体に命令を下し、私の部屋――を横切って隣の部屋を目指す。傑の部屋だ。扉を叩こうと構えた拳が如実に震える。騒々しい鼓動を廊下に満ちた厳粛な静謐が打ちのめす。失意を秘めた眼差しに射抜かれる脳内の予行演習を繰り返し、意を決して控えめにノックをした。私が呼び掛けるより先に扉が開かれる。もう布団に潜り込む寸前だったのか、ラフな格好で髪も無造作な傑が顔を覗かせた。
「姉さん、何か用だった?」
「……今日の、あの男の人との話。どうだったの?」
 直球に、何の前置きもなく話を蒸し返す。そうでもしないと、きっと流れるように話題の矛先をすげ替えられてしまうと思ったのだ。傑は面食らったように瞠目した。そして案の定、お手上げだとばかりに長い溜め息を洩らした。
「……ほんと、姉さんのその頑固さは誰に似たんだか」
 右手の親指でこめかみを押さえた傑から、皮肉めいた愚痴が溢れ落ちていく。耳が痛い。ついでに鳩尾も痛い。ただ、その独り言を落としたことで決意は固まったようだった。額に貼り付いていた右手が剥がれ落ち、続けざまに手招く動作を見せる。立ち話もなんだから、と言外に承諾を示された。やっとの思いで終戦まで持ち込めた。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、傑の部屋に立ち込めているホワイトムスクが鼻孔を擽って、再び私は緊張の糸を固く結び直さねばならなかった。
 丁重な応接で皺の乏しいベッドの上まで導かれる。次いで傑も私の隣に腰を下ろした。ちろりと盗み見た先の神妙な横顔は、私の後悔を濃厚な味にするには十分だった。どうしてこう、私という愚かな人間は愛しい弟に心労を与えるような真似しかできないんだろう。冷房の機械音だけが流れる部屋で、ひとり居た堪れなくなる。沈黙に沈黙を重ねて傑の反応を窺っていると、彼は程なくして重い口を開いた。
 私達が視認している異形は呪霊と定義され、人間の負の感情から形成されていること。世界各地に潜在する呪霊の祓除を生業とするのが呪術師と呼ばれる人達で、呪術高等専門学校は彼らに仕事を斡旋したり補助したりする機関であること。また、優秀な呪術師を育成する教育機関としての役割も担っていること。そして、人間には少なからず呪力という可視化されない負のエネルギーが流れていて、傑のように呪霊に対する何らかの処理手段を持ち得ているひとほど呪力が豊満に流れていること。このノイローゼになりそうな莫大な情報を、傑は噛み砕いて分かりやすく説明してくれた。必要最低限しか綴られない赤本の解説よりよほど重宝できる人材だ。ただ、予想に違わず傑の締め括りは変わらなかった。
「有益ではあったけど、姉さんとプレゼントを探す時間に充てた方が有意義だっただろうね」
 こっぴどく吐き捨てた冷評から、呪術高専に手に入れた情報以上の価値を見出せなかったのだと、そう判断できる。あの貴重な談義が強情な弟に移り気を運んできてくれるのではないか、と仄かに期待を抱いていただけに、愕然と肩を落とした。
「……入学、する気ないの?」
「ないよ。初めから話を聞くだけって約束だったろ」
 それはそうだけど。でも、同じ境遇の人々が集う学び舎があって、稀有な能力を存分に発揮できて、困っている誰かを救うことができて。それって、責任感が強くて人情に厚い傑にすごく適した環境だと思わない? ちょっとくらい心境の変化があっても良いものじゃない?
 押し付けがましい主張は発露を躊躇われて、脳裏にに浮かんでは消えていく。これはお節介なんてかわいいものじゃない。傑に視野を広げてほしいという本心の裏側で、傑から逃げ出したくて堪らないという別の本心が画策しているのだ。弟のためを思う心配性な姉、その特権を乱用している。それも他でもない自分のために。強引にでも傑の傍から離れなければ、彼に抱く不健全な感情を断ち切れないから。どこをどう切り取っても私が元凶でしかないのに、その負債を傑にまで背負わせている。どこまで思考を広げても悪循環だった。行き着く結論は変わらない。やっぱり、こんな拗けた姉弟関係は正しく律するべきだと、なけなしの道徳心が声を荒げている。
 よほど私の目付きが未練がましかったのか、傑は半ば呆れ返っていた。乾いた失笑が宙を舞う。馬鹿にするでも嘲るでもなく、傑の湛えた微笑はどこか寂しそうに映った。
「心配なんだ。私がいないと、姉さんに悪い虫が寄ってくる」
「……どうとでもなるよ。傑が取り込んでくれるようになるまでは、数日も経てば離れてたんだし」
「本当に分かってるんだか……。呪霊だけの話じゃないからね」
 呪霊だけじゃないって、じゃあ何も含めての話? 意図を飲み込めず視線を彷徨わせる。その反応すら見越していたのか、傑は勝ち誇ったような「ほらな」を呟いた。正答に辿り着けないまま、私の脳内は益々混乱を極めるばかりだ。
 澱のように沈んでいく重圧的な雰囲気を遮ったのは、階下からの明朗な声だった。
「傑、お風呂空いたわよー」
 耳馴染みの良い母親の掛け声ひとつで、もはや懐かしさすら覚える日常に溶け込んでいく。非日常的な内容の会話はそれだけで気力を消耗するらしかった。全身が脱力感で包み込まれる。腑抜けた私の身体に魂を流し込んだのは、力強い傑の手のひらだった。話の着地点として良い頃合いだと判断したのだろう。私の腕を引き上げた傑は「今行く」と短い返答を放り投げた。滑らかに掠めた優しくて冷たい一瞥は、私に退室を促す密やかな通達だ。全く手応えの得られなかった説得を諦めて、やむなく足を進める。開かれた扉をすり抜ける寸前、傑の方を振り返って最後の悪あがきに挑んだ。この往生際の悪さだけは折り紙付きなのだ。
「傑。あなたが、本当に正しいと思うことを選んでね」
「……」
「私のせいで傑がしたいことを選べなかったら、きっと私は一生自分のことを許せなくなる」
 一体どの口がほざいているんだか。本心には違いないけれど、自分本位な綺麗事でもあった。こうして掛けた言葉が傑にどんな呪縛を課すのか、想像できない筈がないのに。口先だけは一丁前で、思考回路は浅薄そのもの。長所も魅力も欠いた不出来な姉を、早く見限ってくれたら良い。
 傑からの明確な返答はなかった。ううん、返答する暇を与えなかった。すぐさま薄暗い廊下に飛び出して、隣の自陣へと駆け込んでいく。命からがら逃げ果せて、ようやく不健康な鼓動の速度を痛感した。心臓が今にも破裂して、その役目を終えてしまいそうだ。
 傑の傍にいる限り、こうやって何度でも生死の境い目を彷徨うことになるのだろう。幸福の対価はけして小さくはない。秀でた弟の余りある将来の芽を摘む行為は、それほどまでに度し難い大罪なのだ。