純潔が似合わない

02

純潔が似合わない

 この内なる不純な恋心を自覚したのは、傑が私と同じ中学に入学した年のことだった。骨の奥までじっとりと湿気が染み込むような梅雨入りの時期に、その事件は露呈した。
 体育館の隅に設えられた倉庫は、埃っぽい上に日当たりも悪い。太陽を覆い隠す鈍色の雨天も相まって、薄暗い内部は不気味さに拍車が掛かっている。大抵の生徒は好き好んで寄り付かないが、ゆえに人目を盗んで悪事や密談にしけ込むには打ってつけの場所となっていた。そう、例えばこんな風に。
「ひっ……あ、んぅ! はっ……」
 声帯をひっくり返したかのような甲高い声が、扉に伸ばし掛けた私の指先を引き留めた。その嬌声の発生源が今まさに進み入ろうとしていた体育館倉庫内からだと勘付いた瞬間、思わず後退る。視覚に頼らずとも聴覚からの断片的な情報だけで、この先に何が待ち構えているのかを察してしまったのだ。動揺した。しかし、次第にそれ以上の腹立たしさが上回っていく。一体どういう了見があって、明るい真昼の内からおっ始める必要があるというのか。しかも、本来なら勉学や部活動に勤しむべき神聖な学び舎で、人目を忍んでまで。体育教師に備品の確認業務を押し付けられてやって来た私は、不満の矛先を不届きな男女にすげ替えて、半ば逆恨みのような怨嗟を湧き上がらせた。かと言って、この激昂に身を任せて現場に突入し、説教を垂れることができるほどの度胸は微塵もない。先生には適当な理由をこじつけて、大人しく引き下がろうと決意を固める。身を翻した、そのときだ。
「ぁっ、もっと、げと、くん……」
 瞬間、血の気が奈落の底まで引いて、代わりに鉛を血管に溶かし込まれていくような錯覚を催した。全身が重い。末梢が冷たい。手足はびくともしない。この場から一刻も立ち去りたい願望の奥底から、この場に留まって事実を突き止めなければならないという拗けた使命感が芽生えてくる。だって、恐らく情事に耽っている女が煽情的に呟いた名前は、私と弟が冠する世にも珍しい名字であったから。となれば、女が相対している相手は必然的に……。
 ほとんど確信的な憶測を前にして、心臓は恐ろしい速度で鼓動を刻んでいく。信じられない。そんな筈がない。堅実で鷹揚な弟とふしだらな行為が一向に結び付かず、脳がその可能性をひたすら拒んでいる。虚しいだけの悪あがきだ。真実はもう、目と鼻の先に転がっているのに。
 一度は出口に向かいかけた爪先を、再び体育館倉庫の方角に整える。気配を押し殺して引き返し、扉に寄り掛かって聞き耳を立てた。内部の小窓から間断なく、澄んだ雨音が響いている。その伴奏を台無しにする女の鼻にかかった熱っぽい声が、鼓膜に纏わり付いた。どろりとした不快感が喉奥まで迫り上がる。気持ち悪い。もう、我慢ならなかった。意を決して、わずかに開いていた扉の隙間から視線を潜り込ませる。探し当てた現実は覚悟していたのに、それでも絶句せざるを得なかった。仄暗い倉庫の片隅に積み重なった体操マットの上で、発情した犬のようにふたりの男女が重なり合っている。制服と髪を乱して喘ぐ女に覆い被さって、背後から腰を穿っている男の後ろ姿は、見違えることなく弟に――傑に他ならなかった。
 その光景が私の限界だった。内奥から漂う茹だった甘たるい空気を肺腑に吸い込めば、毒でも盛られたみたいに気分が悪くなった。目が眩む。耳鳴りがする。あらゆる感覚器官が現実を直視できずに拒絶反応を起こしている。胃酸が逆流しそうになるのを必死に堪えて、足早に踵を巡らせた。人間にも帰巣本能が備わっているのだろうか。記憶すら曖昧な前後不覚に陥りながらも、どうにか私は帰路を辿ったらしく、気付けば自室のベッドに倒れ込んでいた。ろくに傘も差さずに小雨に降られたようで、制服の裏側までぬるい水分に犯されている。肌が息苦しい。
 海馬に克明に刻まれてしまった情景が、何度かぶりを振ってもリフレインされる。知識でしか持ち合わせていなかった性行為を目の当たりにした衝撃も勿論あるけれど、それ以上に傑がその行為に及んでいる衝撃の方がずっと大きい。相手は恋人だろうか? 一体いつから? どんな経緯で? あの子のどんなところを好きになったの? 湯水のように湧き出る疑問は知りたいのに知りたくない、矛盾を孕んだものばかりだ。その事実を手に入れたところで、傑好みの女性に生まれ変われるわけでも、相手の女の子に成り変われるわけでもないのに。そこまで思い悩んでようやく、はたと目を瞠った。咽頭が干乾びる。胸の奥底がどよめいている。けして開けてはならないパンドラの箱を、意図せず抉じ開けてしまったような感覚だった。だって、おかしな話なのだ。傑の実姉である私が、弟と恋人の戯れに直面して塞ぎ込むことも、弟に異性として意識してほしい欲望が萌え立つことも、そもそも間違っている。これじゃあ、まるで私が傑のことを――……。
 篠突く雨が窓に直撃して、けたたましい音が轟く。きっとそれが合図だった。模範的な姉を貫いてきた私が跡形もなく決壊していく音を、確かに捉えた。メッキが剥がれ落ちて後に残るのは、弟に劣情を抱いている自覚だけが芽吹いてしまった、卑しくて憐れな女の本性だけだ。
 ひとたび自分の淫らな本質を認めてしまえば、そこから先に堕落するのに抵抗はなかった。体内に滞留している不埒な熱に浮かされて、歯止めがきかなくなる。スカートの裾から忍ばせた指先で、微かに濡れている下着の上から撫でてみると、下腹部が淡く疼いた。じわりと涙が滲む。ぼやけた視界に倉庫での一景が蘇った。触れられたい。あの静脈の浮き出た逞しい腕に引き寄せられて、足が攣りそうになるまでこよなく抱かれたい。よこしまな渇望は際限なく溢れてくる。全身を支配する快感に従って、私は往復させる指の強度を一段回上げた。
「っふ……、ん、っ……」
 あんなに軽蔑していた女の鼻声よりも、自分の声のほうがよっぽど間抜けで情けなく感じた。何やってるんだろう、私。溶け落ちていくなけなしの理性が問い掛ける。頭では生き恥のような醜い行為に溺れていると分かっているのに、今すぐにでも真っ当な姉に戻りたいと願っているのに、のさばる背徳感がそれを許してくれない。興奮を植え付けられた手指が布切れの更なる内側に侵入して、泥濘をかき混ぜていく。そうして確かな意思で突起を強く擦り上げると、折り畳んでいた足が震え、背中が弓なりに丸まった。意識が弾け飛ぶ。慰め終えた身体は糸が切れたように重くなって、敢えなく目蓋も下ろされた。
 どれくらい気を失っていたのか、再び目を覚ましたときには雨脚は遠退いていた。遮光カーテンの隙間からは世界の終焉を思わせる赤黒い西日が差し込んでいる。湿気のせいで髪はうねり、ふて寝のせいで制服は皺くちゃになってしまった。後者は自業自得とはいえ散々だ。泥沼に浸った後のような気怠い上体を起こし、床に落ちているティッシュ箱を拾い上げる。自分の性欲にまみれて汚れた指先を拭き取った、そのときだ。
「姉さん、帰ってる?」
 足音は疎か呼吸の気配ひとつすら寄越さない客人が、部屋の扉を軽くノックする。更に切れ目なく、物柔らかな声が耳介に滑り込んでくる。肋骨を突き破りそうなほど心臓が跳ね上がった。間違いない、傑だ。私の聴覚が馴染みの弟の声を取り違えることはありえないし、そもそも姉さんという呼称を使用する人物が彼以外に思い当たらない。自明の真実には行き着いたが、背中を伝う冷や汗は止まらない。身の毛がよだつとは正にこのことだ。用済みになったティッシュをゴミ箱に投げ入れて、不祥事の証拠隠滅を図っている間に、無情にもその扉は開かれた。
「っ……な、に?」
「もうすぐ夕飯できる……って、どうしたの」
 慌てて乱れた制服を整えるのと、訝る傑の真っ直ぐな視線を浴びるのとは、ほとんど同時だった。バレてはいないだろうか。目敏い傑が露骨に胡乱な表情を貼り付けるものだから、余計に不安が大きくなる。狼狽を悟られまいと思わず目を伏せるが、逆にその不自然な挙動が仇となってしまったようだ。傑は何の遠慮もなしにずかずかと部屋に上がり込み、私と目線を合わせるように屈んだ。全てを見透かさんとする切れ長の瞳に食い入るように見つめられて、いっとき呼吸が浅くなる。なんて居心地の悪い。お臍の奥でまだわずかに居残る余熱がぶり返しかねない。まごつく私の心境を知ってか知らずか、傑は悠然とした指先で私の額に貼り付く前髪をすくい上げた。
「濡れてる。ろくに乾かさないで寝てただろ」
「ぁ、う……、だって」
「風邪引くよ。ちょっと待ってて」
 咎めるというより柔く諭すような口調が、達観していて私よりもよほど年上じみている。悪戯めいた表情で私の額を軽く小突くと、傑は腰を上げて部屋を出て行ってしまった。階段を下りる音、そしてまた上がってくる音が空気を伝ってくる。脱衣所からバスタオルを持ってきた彼は、頭から包み込むようにそれを被せて、優しい手付きで髪の水気を拭ってくれた。
「今朝、雨降るよって言わなかったっけ」
「……傘、途中で壊れちゃった」
「声掛けてくれたら一緒に帰ったのに」
 息をつくように嘘を吐いてしまい、後から胸が軋む。本当は弟と恋人の情事を覗き見てしまい、雨にも構わず無我夢中で逃げてきた、とは口が裂けても言えなかった。そして何よりも恐怖したのは、隠れていかがわしい行為に及んでいたにも関わらず、私の呼び出しに応えるなんて嘘を平然と紡いでしまえる弟に対してだ。こんな涼しい顔で虚言を弄することができる性分だったとは、全く思いも寄らなかった。きっと私が知らないだけで、傑の知られざる内面なんていくつも存在するのだろう。愛を分かち合う恋人にしか見せない顔も、きっとある。その事実を痛感して、また私の気分は最下層目掛けて落下していく。
 まるで猫と戯れ合っているような笑顔の傑は、大方の水分を拭い終えると、タオルを引き上げてゆっくり腰を上げた。私も立ち上がるよう、彼の穏やかに凪いだ眼差しに促される。そう、確か夕飯。一階から微かに伝う物音は、仕事帰りの母が料理に取り掛かってくれている際のそれだった。さっきまでは気にも留めなかった空腹が、急速に猛威を奮い始める。意地汚い食い意地を抑え込みながら、私も立ち上がった。
 食卓を囲んだ際には、私の苦手なピーマンをこっそり傑が貰い受けてくれた。食後はパピコを半分に割って分け合った。リビングで肩を並べて、よく分からない投げ技が乱舞している格闘技の試合を鑑賞した。
 傑と他愛もない時間を過ごす度、途轍もない幸福と途方もない虚無感が掠めていく。どんなに時間を共有して日々を積み重ねていっても、越えられない一線が確かに存在している。当たり前だ。私達は、血の繋がった家族だから。
 後ろめたくてやり切れないのに、恋しくて堪らない。こんな感情、知りたくなんてなかった。