不揃いのケロイド

01

不揃いのケロイド

 ――姉さん。
 甘い口溶けの声に内包されたその響きが堪らなく苦手で、どうしようもなく不快で、何度胃液が逆巻いたか分からない。恍惚感という麻酔を受けた身体が、薬効を切らせて徐々に正気を取り戻していくような、ある種の生体侵襲に似ている。高鳴る鼓動に反して、脳は残酷までに思い知らされるのだ。どんなに希っても叶わない無情の現実が聳え立っていること。――私と彼の間に繋がれた見えない鎖は、家族という血脈の切れない縁でしかないということ。
 空嘔吐きを抑え込んで、呼び声のした方角に視線を傾ける。幻聴ではなかった。見上げた先、日向の溢れる階段の踊り場から姿を現したのは、親愛なる我が弟だ。纏めた黒髪の毛先が軽やかに揺れる。慈愛の灯る麗らかな眼差しが私を射止めるとき、背骨の付け根の辺りが淡く疼いた。
「また憑いてる。こっち上がってきな」
 一体どちらが年上なのか審議を醸しそうな口振りを振りまいて、ひとつ年下の弟――傑は私を手招いた。骨ばった指先の仕草で、完璧な笑顔の引力で、私の身体は糸を括り付けられた傀儡のように従順になる。浅く頷いて、屋上に続く階段を一段ずつ噛み締めるように上った。そうでもして混迷した肉体を宥めないことには、まともに傑と向き合うことさえ困難を極めると思ったのだ。
 辿り着いた最上階の踊り場では、屋上に繋がる建付けの悪い扉から隙間風が忍び込んでくる。冬を目前に控えたこの季節は少しばかり肌寒い。外気に晒された指先をこっそりセーターの袖に引っ込めると、鋭い洞察力でその仕草を捕捉したのか、傑は隙間を塞ぐようにして扉に寄りかかった。一目では中学生だと結び付かない大人びた顔立ちや制服の着こなしも相まって、陽光の途絶えたアンニュイな佇まいも様になっている。家で寛いでいる等身大の姿とはまた違う、余所行き用の弟を不意に垣間見てしまったからか、心臓が一際張り詰めるのを感じた。
「動かないで」
 優しい声で静止を命じた傑は、大きな手のひらで何かを手繰り寄せるような所作を示した。やがて冥界の入口にでも繋がっていそうな禍々しい色調の球体ができ上がる。それが彼の手中に収まるのと、午後から苛まれていた両肩の重圧が和らぐのとはほぼ同時だった。一気に押し寄せる脱力感は、幾度となく体感しても慣れることはない。毎度私がよろめくのを今日も織り込んでいたのか、傑は直ぐさま片腕を突き出して私の腰を引き寄せた。身近に迫った分厚い胸板、そこから染み出る密やかな呼吸の気配に、いっとき息が詰まる。傑は倒れ掛けた私の体勢を元通りの均衡に押し戻すと、回していた腕を速やかに離した。得体の知れない塊は、いつの間にかポケットに仕舞われている。
 憑き物が落ちた、を文字通りの意味で体感する瞬間を、この世界で一体何人が経験したことがあるのだろう。俄には信じがたい厄払いを――非科学的な加護を、胡散臭い霊能者でも人当たりの良い僧侶でもない、ただひとりの弟から授かり受けている。
「ありがと、傑」
「少しは楽になった?」
「すごく楽になった」
「それなら何より」
 景気付けとばかりに豪腕ピッチャーよろしく肩を回すと、傑は緩やかに目尻を下げた。詰襟の下に身を潜める大きな喉仏が上下していると、容易に想像できてしまう。薄い口唇から吹き溢れる微笑に気恥ずかしくなって、上履きの踵をわざと大きく踏み鳴らした。
 それなりに仲が良好な部類とはいえ、用事を済ませた姉弟が学内で長々と密会に耽るのも変な話だ。帰途を促されている放課後とはいえ、部活やら委員会やらで校内に居残っている生徒は多い。思春期真っ只中の若者とは、必要以上にブラコンだのシスコンだの茶々を入れてゴシップに花を添えたがる年頃なのだ。ひとたび噂好きの知人にこの場面を目撃されてしまえば、明日には各所で夏油の名字が飛び交う事態になりかねない。私も傑も、そういった人種を相手にする徒労感を痛感しているし、極力避けたいとも思っている。だから、学校におけるふたりの立ち振る舞いは暗黙の了解となっていた。会話の密度も距離も控えめの、互いに無関心な姉と弟を演じるのだ。
 その掟破りの禁じ手を切ってしまうのは、決まって私の方からだった。本来なら自分が被るべき厄災を傑が請け負ってくれるとき、どうしたって私は弟に無頓着な姉を装うことができなくなる。ある種の罪悪感に突き動かされて、理性がたちどころに綻んでいく。先に階段を降りようとしていた傑の腕に縋り付き、強引な手段で引き留めた。彼の纏う空気が一瞬凍り付いたのを肌で感じる。あとほんのわずかな時間だけ、お節介な姉に戻ることを許してほしいと、微かな祈りを込めて傑を見上げた。一段の段差を経ても埋まらない身長差がもどかしい。
「びっくりした。どうしたの」
 さして動揺した気色のない平坦な声だった。ただ、私の突拍子のない行動を柔く諌めるような視線だけが縫い付けられる。声なき追及にたじろぎながら、傑を食い止める役目を終えた腕を離し、手早く所用に取り掛かった。肩に提げていた通学鞄の奥底から、お目当ての物を掴み上げる。常温で放置されて生温くなったペットボトルを傑の目線の高さに掲げ、差し出した。目を瞠った傑は、先程よりもよほど驚いたという面持ちをしている。
「……飲みさしだけど、気休めにはなるかな、って」
 傑にとって除災がさしたる面倒事ではないにしても、その後始末がいかに難儀で億劫なものであるかは、私とて把握している。そのような気疎い素振りの一切を見せないけれど、ポケットの内側に秘められた球体に見た目以上の重量感を感じている筈だ。何せただ厄を落とすだけではなく、そうして生まれ落ちた災厄の残滓を直接口から飲み込むまでが、彼に課された義務らしかった。巨大な質量を嚥下するだけでも過大な負担だと見て取れるのに、加えてあの毒々しい物体が人間の味蕾に馴染むわけがない。想像するだけでも味覚が拒絶反応で慄いてしまう。だから、弟が余儀なくされている辛苦を少しでも希釈させたいという安直な閃きが落ちてきたのだ。鞄に眠っている檸檬色の炭酸飲料ならば、苦味を相殺するとまではいかなくとも、箸休め程度の役割は果たしてくれるだろう。そう判断して、咄嗟に私は傑の腕にしがみ付いていた。出過ぎた真似をした自覚はある。加えて、弟は外野からの余計な介入を煙たがるタイプの人間だ。今この瞬間も、もしかしたら仮面の裏では幻滅されているかもしれない。それでも、反抗を許さない姉という無二の立場に驕って、厚かましい提案を持ち出してしまっていた。振り返ってみると、我ながら心配性を通り越して鬱陶しい域にまで踏み込んでいる。
 要領を得ない私の言い回しであっても、聡い傑は何を指してのことなのか瞬時に汲み取ったらしい。意表を突かれて瞳が固まったのはほんの数秒で、すぐに表情筋は機能を取り戻した。純然なようで、完璧に欺かれているようでもある微笑みをつくり出されてしまえば、何年も傍にいる私でも判別を付けることは難しい。
 取り出された邪悪な不純物が、食道を伝って一思いに胃袋へと押し込まれる。球体を飲み下した傑は、追い掛けるようにしてペットボトルの飲み口に唇を近付けた。気泡の弾ける液体が逆流し、徐々にその体積を傑の口内に預けていく。容器の中身がもぬけの殻になるのは本当にあっという間だった。用済みになったプラスチックが、手慰み程度の感覚で握り潰される。その様子を漫然と眺めながら、都合よく私は安堵していた。たったこれだけの些事なのに、裏で傑に価値を見積もられていないか、見切りを付けられていないか不安になってしまう。弟が秀才な優等生ゆえに、姉である私は自信も甲斐性も一欠片だって持ち合わせていないのだ。そんな混濁した心境とは対照的に、傑は秋晴れにも似た清々しく澄み渡る笑みを湛えた。
「炭酸の抜けたレモンソーダって、ただ味の付いてる水だよね」
「……ぜんぶ飲んでおいてその感想?」
「冗談だよ。ありがと、助かった」
 思わず喉が呻りそうになるのをぐっと堪えた。例えそれが外向けに彩られたリップサービスだとしても、愚直に生きてきた私の心臓は額面通りに受け取ってしまう。姉としての面目躍如を果たせたのだと、自惚れてしまう。舞い上がっている鼓動に当てられながら、どうにか私は「どういたしまして」と上擦った返事を送り出せた。やはり傑は片時も崩れることなく、完璧に笑っていた。
 すっかり重圧を失って穏やかに凪いだ身体に、傑の優しい流し目が掠める。緩やかに階段を降りていく彼の姿を見届けようとしたのに、まるで一緒に行こうと言わんばかりの一瞥に、呼吸が淡く震えた。断れる筈がない。気紛れに背中を押す隙間風に唆されて、一段飛ばしで階段を駆け下りた。
 この変わり映えしない日常の一端を切り取ってアルバムに保管していったとすれば、何十冊にも膨れ上がってしまうだろう。それくらい私と傑にとってありふれた、起伏の乏しい平坦な物語を綴っている。けれど、他愛もない姉弟のやり取りを交わして、安寧の日々を蓄積していくたび、ふと胸の内側を掠めていくものがあった。疚しさのような、後ろめたさのような、素直には平穏に浸れない倒錯した感情が沈殿していく。それは或る意味、当然のことだった。私は、私のことが嫌いだから。愛する人と不快な人との思い出が一緒くたに集積されたアルバムなんて見たくないし、本音はズタズタに切り裂いて焼却してやりたくもなる。――そうだ。私は私が嫌いで、傑のことが好きだ。
 ただひとりの弟に純朴な親愛ではなく歪んだ性愛を抱いている醜悪な自分も、姉という立場に縋って偽って健気な姉を演じている滑稽な自分も、どちらも心底厭わしくて疎ましくて不愉快で、大嫌いだ。


 中学校に上がる手前になって突然、私はこの世界に潜在しているあやかしの存在を認知できるようになった。そいつらの形態は多種多様で実に様々だ。手足が異様に長いもの、魚眼のように目玉が出っ張っているもの、浮遊するもの、群れるもの……。見た目や性質に共通点がなくともその未知なる生命体が根本的に同じ分類にあり、逆に動植物とは似て非なる存在だと気付いたのは、人間側がその生物に全く干渉しようとしないからだ。両親もクラスメイトも街ゆく人々も、隠れ潜む物怪を無視しているというよりのっけから視認できていないような素振りだった。何よりも厄介なのは、対してあちら側は人間からの稀有な眼差しに敏感ということだ。自分達の存在を捕捉されていると感知すると、威嚇してきたり一目散に襲い掛かってきたりもする。特に私の場合は、可視化されない求心力でも備わっているのか、目が合った途端に引き寄せてしまい身体に纏わり付いてしまう事例が多かった。だから、極力その生物自体を視界に入れないよう努めてきた。悪夢の延長としか思えない異端な現実に、当時は自分の視覚がおかしくなってしまったのかと困惑したものだ。幾度も目蓋を擦って頬を抓ってみても現状が一変することはなくて、結局は受け入れる以外の選択を許されなかった。
 そんな暗澹とした学童期の私に光を差し込めたのは、他でもない唯一無二の弟だった。傑は、私が知覚するよりも前から化け物の存在を認識していたらしい。その事実を決定付ける瞬間に遭遇したのは偶々だった。傑が私に取り憑いていた魔物を手繰り寄せて、口内に招き入れるまでの華麗なる一幕を盗み見てしまったのだ。
「姉さんも見えてるんだ?」
 物陰からこっそり忍ばせていた視線を、傑はあっけらかんと捕まえた。ほとんど確信に近い断定的な問い掛けに、幼き日の私は吸い寄せられる。そして、恐る恐る肯定する。それが始まりだった。私と傑、姉と弟、ふたりで分かち合う世界の秘密。誰かに打ち明けて理解を得ることは例え肉親であっても困難だと、私達は悟っていた。そうして必然、世界に潜伏するあやかしの存在はふたりだけの秘密になった。
 人類は、あやかしが視える者と視えない者に分別できると見立てを付けていた。しかし、実際はそこに加えて対処できる者がいるのだと、傑の能力によって判明した。彼が選ばれし者なのか、はたまた私のような視える者であれば直に能力が開花するのかは不明だった。ただ、私はあれから数年の時を経ても視える者でしかない。
 傑の説明によれば、物怪を球体にして飲み込む異才は物心付いた頃から既に染み付いていたものらしい。潜在的な能力とそれを可能にする肉体の耐性が備わっていること。そして、それが常人には不可能な技量であること。ランドセルを背負って走り回る年相応の男の子とばかり思い込んでいた弟は、裏ではその事実を経験から学び取り、確実に蓄積していたのだ。こればかりは驚愕せざるを得なかった。そんな気配を微塵も感じさせなかった演技派で秘密主義の弟に驚いて、全く見抜けなかった愚姉の体たらくを嘆きもした。
 球体を飲み下すことの必要性について、傑に直接問うてみたことがある。後にも先にもその一度だけだ。けして小さくはない塊を飲み干す傑の横顔は、芝居では覆い隠しきれない辛苦に染まっているように見えたから。可愛い弟を思えば、どうしても口を挟まずにはいられなかった。
「それ、食べないといけないの?」
「放っておいたらどうなるか分からないし。それにコイツら、飲み込んだら言うこと聞くようになるんだ」
 その方が安全だろ? 自信に満ち溢れていて、どこか誇らしげでもあった。その行為を己に課された大義だと信じて疑わないような、あどけない声。昔から正義感が強くて忍耐強い、何とも傑らしい主張だと思った。けれど、その決意の裏を返せば、他者に対して情が深いあまり自己への関心が薄いということだ。正しく彼の本質だった。いつの日か、溜め込み続けて抱えきれなくなった苦悩に身を滅ぼされるのではないかと、余計な心配が脳裏を過ぎった。手放しで納得することはできない。思わず伸ばした私の手指が、逃がすまいと傑の両手を包み込んだ。
「私も食べる」
 実際にその気があったか否かで言えば後者だが、虚言を吐いてでも頼りになる姉を演じたかったのだと思う。当然、傑は顔を曇らせた。
「だめだよ、絶対」
「どうして?」
「耐性があるか分からないし危険だ。それに、……」
 返答に詰まると同時に、傑はふいと視線を逸らした。首を傾けて、困ったように伏し目がちの瞳が彷徨う。私をすり抜けていく眼差しは、深々とした真夜中のような少しの淋しさを湛えていた。
「姉さんは知らなくて良い味だから」
 はぐらかされている。そう直感する。でも、この惑った末の返答は、逆説的に私が立てた仮説の証明とも捉えられた。魑魅魍魎を凝縮した物体が美味しいわけがない。だからこそ、それを辟易するほど実感している傑は、知らない方が身のためだとやんわり示唆しているのだ。同じ秘密を共有しているといえども、同じ辛苦まで請け負う必要はない。自分ひとりが背占めるくらいで丁度良い。利他的で優しすぎる傑らしい思想が垣間見える。この善意を振り切って無下にできるほど、私の面の皮は厚くなかった。口を噤み、傑の手のひらを解放する。汗ばむ手のひらには、未練がましく仄かな体温が居残っていた。
 あれから、傑があやかしを取り込む過程を見掛けることは滅多になくなった。いちいち口煩い私への対応が面倒だったのかもしれないし、単純に気遣ってくれているのかもしれない。ただ、しょっちゅう私の背中にへばり付いてくる異形を回収してくれるのは、決まって傑だった。あやかしを引き寄せてしまうくせに何もできない姉と、黙々とその処理を引き受けてくれる弟。どちらが先に生まれてきたのだか分かりやしない。
 今も私は、傑の味覚と理性を蹂躙していた葛藤の味も苦悩の味も知らないまま、のうのうと暮らしている。誰も知らない弟の一面を覗いて理解した気になっていながら、核心にまでは踏み込めない浅はかな姉のまま生きている。そんな自分のことが、やっぱり嫌いだ。