二宮匡貴
 照り付ける日差しが身を焼く猛暑日、あの広い背中を見つけた瞬間、私の体温は一気に頂点まで駆け上がる。きっとこの夏で一番、日本で今一番、私も私の周囲の温度も高いに違いない。
 学舎を出て構内食堂まで続く道のりで、その後ろ姿に出くわした。気高く聳え立つ巨塔のような姿勢で石畳を踏み歩く男を、この私が見間違える筈がない。警鐘にも似た鼓動をひしひと感じる。汗ばむ額に貼り付いた前髪を整え、一呼吸置いて、その背中に向かって駆け寄った。
「にっ、二宮!」
 大声に吸い寄せられた周りの見知らぬ他人から怪訝な目が向けられる。でも、そんなの関係ないしどうだって良い。堅苦しい長身が振り返って、あの鋭い眼差しに射抜かれるときが一番、期待と不安が入り混じって生命の脈動を感じるのだ。
 私が呼び止めた二宮は、想像に違わず振り向きざまに溜め息を零した。まるで声だけで私の存在を感知して受け取ったように。きつく尖った瞳と眉間に寄った数多の小皺が、返答を寄越されずとも彼の心情を運んでくる。
 群衆は大したことない異変を見留めて、何事もなかったようにそれぞれの日常へと踵を返した。でも、二宮は違う。そこで足を止めたまま、私の到着を待っている。暑気によるものか体温の上昇によるものか、背中にじんわり汗が滲んだ。
 小走りで近寄った私に、当然の如く二宮は叱り口調で出迎えた。
「道のど真ん中でひとの名前を叫ぶな」
「だ、だって珍しいじゃん。昼間に大学いるの」
「普通にいる。お前は俺を何だと思ってるんだ」
 そうは言っても学部は違うし、二宮はボーダーのシフトで多忙だしで、昼休みに構内で出逢える機会なんて滅多に訪れないではないか。羞恥心が邪魔をして素直に答えられなかったけど、端から期待していなかったのか、二宮は返答を待たずして身を翻した。目配せで早く歩けと促されたから、震える膝を奮い立たせて歩き出す。いつもより若干、二宮の歩く速度が遅い気がした。
 食堂に向かっていたらしい二宮を呼び止めたものの、私自身は全くその方面に用はない。見掛けてしまったが故の邪心に駆られた衝動だったから。適当な理由を付けて引き返そうかな、なんて思案を浮かべていたときだ。食堂の出入り口の傍らに、格好の理由を見つけ出した。何の変哲もない自販機だ。この炎天下に飲み物を調達しに来るのは至極まっとうで、食堂に赴く理由として打ってつけだった。
 自販機の前に立ち、財布から小銭を出して投入する。折角買うなら炭酸水一択だ。ジンジャーエールの良さを計り知ろうと炭酸を飲み始めてから、思いの外ハマってしまったというのは私だけが知る内緒の話だったりする。ボタンを押して出てきたペットボトルを取り出すと、生ぬるい冷たさが肌に浸透した。
 後方で見守っていた――のかどうかは定かでないけど――二宮は、私が自販機の前から退くと、その前に立った。こうして見ると改めて二宮の縦幅の長さを実感する。小銭を投入しようとした彼は、その手前で指先を止めた。視線が刺さる方向には、ジンジャーエールと売り切れという赤色の文字が点灯している。高級そうな財布を徐に仕舞った二宮を見届けて、純粋な疑問を問い掛けた。
「何も買わないの?」
「口に合う飲み物がない」
「炭酸水あるよ」
 整った見目にふさわしく肥えた舌だなぁ、と半分感心しながら炭酸水を指差す。すると忌々しそうな睥睨が方向転換して、今度は私に寄越された。多分だけど、全く別の飲み物だろうがなんて不満と不平が二宮の脳内に垂れ流されている。私だけが波長が合って、その意思を敏感に受け取ってしまった。
 結局二宮は罵倒ひとつすら落とさないで今来た道を引き返そうとするから、咄嗟に腕を掴んでしまった。
「……一回飲んでみたら? まだ口つけてないし」
 奇天烈な誘いと共に、手のひらに収まるペットボトルを差し出した。二宮に差し向けた飲み口側に向かって一斉に、無数の泡が透明の水中をたゆたっていく。
 二宮が纏う雰囲気は意表を突かれたような驚愕が混じっている気がしたけど、勿論彼が貼りだす表情はいつも通り無愛想だ。時計の針が止まったかのように互いに微動だにしない数秒は、二宮によって再び流れ出す。無言で炭酸水を受け取ると、その手を突き出してペットボトルの底を私の額に押し当てたのだ。丹念に整備した前髪ごと巻き込んで、仄かな水気が肌に染み込んでゆく。何が何だか分からず頻りにまじろぐと、二宮は腕を下ろして私の手元にペットボトルを戻した。
「な、何?」
「お前が後から飲むんだろうが」
「え? うん?」
「男が勘違いするような言動を取るな」
 その低音は表面上は私の浅はかな発言を咎めているのに、存外優しい。それだけ突き付けると、二宮は踵を巡らせてしまった。後に残る炭酸水は、激しく泡が浮き沈みして忙しない。まるで胸の内側を叩き付ける鼓動みたいに。
 自分の提案が間接キスを導いてしまうこと、それを勘違いさせるなと叱咤されたこと。気付いた瞬間、顔から火を噴きそうなほどの熱が集う。今すぐにでも清水寺から飛び降りたい心境だけど、でもその前にやらないといけないことがある。絡まった誤解は正しく解かねばならない。大事な相棒をしっかり握りしめて、爪先で地面を蹴り飛ばした。
 駆け出して、全力疾走して、眼前にあの馴染みの背中を捉える。導火線に火を灯されたような焦慮に急かされて、もう一度、先程の比ではない大声で二宮に向かって叫んだ。
「私、二宮だから飲んでも良いって思った!」
 誰でも良かったわけじゃないと、腹の底から、心の底から思いの丈を伝える。大きい背中が振り向いて、青空を背景にした二宮が私を見据えた。想像を絶する不機嫌が滲み出ていて、ひっと喉から悲鳴が上がりそうになる。
 考えなしの行動に出るなと怒られる。そう決め込んで後退ろうとしたが、凄みのある二宮の眼光から逃れられる筈もない。硬直した私に詰め寄った二宮は、手元のペットボトルを強引に奪い去った。そしてあろうことか、キャップを開けて飲み口を唇に寄せたのだ。
 きれいな首筋が、炭酸水を呷る動作によってその輪郭を強調する。膨れ上がった泡を飲み込む度、喉の隆起が上下した。頸動脈の辺りを沿って伝う汗に、不覚にも胸が高鳴る。二宮って汗出るんだ。そりゃそうか。だって肉体も心もある、れっきとした人間だ。見惚れるがあまり、まともな思考は吹き飛ばされていた。
 二宮がペットボトルから口を離して、キャップを閉めて私に戻した。まだまだ残量に余裕のある炭酸水が、その存在をひけらかすように光を集めて煌めく。
「……馬鹿が。精々後悔しろ」
 それだけ言い放つと、わずかに笑みを乗せた二宮は今度こそ身を翻した。三度目の正直というやつだ。
 悔しい。悔しいけど後悔した。私の浅慮が大変な事態を招いてしまったこと。こんなの、飲めるわけないじゃない。仕組まれた巧妙な罠が、手の内で熱気を帯びていく。私の体温と、私の周囲の温度とで、じっくり煮込まれる。
 雲の隙間から差した光芒が、鮮やかに明度を上げて、色彩を施してゆく。見慣れた後ろ姿が鮮明な色をもって視界に映る。今日この日のありふれた景色が、ありふれないかたちとなって、きっとずっと忘れられそうにない。