照屋文香
 彼女の品やかに伸びた指が美しい旋律を奏でるとき、私は自然とその音色に引き寄せられてしまう。誰もいない音楽室。彼女だけがその存在を許された空間。息を潜めてそこを覗き込むと、決まって彼女はピアノを弾く指を止めて私は迎え入れてくれるのだ。「の気配は分かりやすいから」と笑う文香に、いつだって私は誇らしい気持ちになる。その言葉通り、彼女は今日も演奏を中断して「いらっしゃい」と柔らかな笑顔を見せた。鍵盤から離れた指先で手招きされると、全身が籠絡されたかのように、足はふらりと彼女の元へ向かう。不思議なはなしだ。
「ピアノ弾いてるとき、何考えるの?」
 文香の隣にパイプ椅子を持ってきて腰を下ろし、再び一曲奏で終えた暁にそう尋ねると、彼女は目をぱちくりと瞬かせた。その質問の真意を計りかねていると言うより、純粋に私がこう問うたことに驚いているようだ。文香は顎に指を当てて「ううん……」と悩ましげに声を捻り出す。
「特に何も。楽譜を目で追うだけで精一杯だもの」
「そっかあ。そうだよね」
 目にも止まらぬ速さで鍵盤を叩く文香を思い返す。確かに目と指をフルスロットルで機能させていれば、脳は無心になって当然かもしれない。そんなときでも凛とした佇まいを依然として崩さない彼女は、元来そういう気質を備え持っているのだろう。そういう彼女が、私はとても好きだった。
 窓からそよぐ初夏の風が、文香の薄く整えられた前髪を揺らした。
「でも、弾く前と後には考えるかな。大切なひとが私の演奏を聴いたらどんな反応するだろうって」
 ぼんやりと此処にはいない誰かを想起して言葉を紡ぐ文香は、今日限りでなく、いつも美しい。
 私は文香が時折話題にする「大切なひと」を見たことも話したこともない。それは「好きなひと」とは違うのか、と尋ねたこともある。決まって文香は顔を赤らめて「少し違うかな」とはにかむのだ。私が話を聴く限り、それはとても恋という感情に似ている気がしたけれど、本人が違うと言うならば違うのだろう。
 そのひとと文香はとても近い場所にいると思っていたのに、一度も演奏を聴いたことがないらしい。美しい文香が奏でる、美しく洗練された演奏を。勿体無いことだ。
「いつか聴いて貰えると良いね」
「何だか恥ずかしいな。……、それまでは貴女がずっと聴いていてね」
 再び空気を震わせ始めた音色に、うっとりと聴き惚れる。
 ねえ文香。叶うなら、私は貴女の隣でずっと、こうして貴女の奏でる演奏を聴いていたいよ。それまで、じゃなくて、それからもと希ってしまう私は烏滸がましい女かな。