宜野座伸元
「オネーサン、今おひとり? 寂しそうな顔してるね」
 視界を遮るように見知らぬ男が乱入して、あまつさえ堂々と下心を透かした誘い文句を耳に吹き込まれたとき、さすがのも舌打ちしそうになった。男女が入り乱れるこの窮屈な空間で、自分以上に暇を持て余して見える人間はいなくはないだろうに。毒々しいネオンの色彩を浴びた男の顔が、の歪曲的な思考によって捻じ曲がって見える。分かりきった面倒事に巻き込まれたくはないし、集中力を削がれたくもない。鼓膜を劈くディスコの喧騒に声を攫われたふりをして、は素知らぬ顔で人混みに紛れ込んだ。しかし男は何の執着あってか、再び彼女の後をついて背後に回る。卑しい欲望を孕んだ手がの肩を掴んだとき、本能的にその手を振り払った。これ以上付け上がらせる余地を残さない、明確なアンサーを同時に突き付けて。
「すみません、連れがいますので」
「さっきから見てた限り、そうは見えなかったけど?」
 一体何の権限があって他人を監視下においているのだろうか。そんなものは一般市民は疎か公安局側の人間さえ許されない。日本を支配する全能の神にしか与えられない、唯一無二の特権だ。紛い物の権力に浸って酔い痴れている男に辟易しながら、は目当ての人物を視野に入れた。雑踏の中でも一際目につく長身は、ホロで別人に擬態しようとも覆い隠せるものではない。頻りに視線が往来して、不自然なほど周囲を警戒している。その様子は洒落たディスコにはあまりにそぐわない、はっきり言ってしまえば不審者だ。その男は一瞬の隙を見計らい、背後にいた何者かから小袋を手渡された。ジャケットのポケットに仕舞われた袋の正体を推察するより先に、刑事の本能を植え付けたの身体が動き出す。全身を使って踊り狂う人の荒波に揉まれながら、裏口に吸い込まれた男の後を追った。
 熱狂する群衆から抜け出すと、壮大なバックミュージックはやや控えめになり、鼓膜にも休息が与えられた。しかし仄暗い路地裏では視覚は頼れずじまいで、結局聴覚に頼るしかない。表通りに向かう足早な靴の音を捉えて、そちらに駆けようとした。けれど、背後から伸びてきた手によって引き留められる。敢えなくは暗闇に引き摺り込まれ、向かいの壁に押し付けられていた。
 先程に狙いを定めた男が、まさにこの瞬間、その煮え滾った欲望を露わにした。下衆な笑みが唇から零れ落ち、掴んだ腕にちからを籠める。生理的な嫌悪感にが顔を顰めると、男は益々愉快そうに喉を鳴らした。
「そんなに慌てて行くことないじゃん。楽しもうよ」
「……叫びますよ」
「残念。こんな裏路地じゃあ、警察は疎か誰も――」
 こちらの反論に全く耳を貸す気配がない輩に、これ以上時間を奪われるわけにはいかない。拘束されていない側の片手で腰に備え付けたドミネーターを引き抜こうとしたときだ。視界を埋め尽くしていた男の姿が一瞬にして消え失せた。路地の奥まった方でに転がってゆく男が視界の端に、の勝手知りたる部下が義手の手首を捻る姿が視界の中央に映る。状況証拠による推測だが、どうやら義手の尋常ではない腕力で男を投げ飛ばしたらしい。今の彼らしい力技だな、とはぼんやり思いを馳せた。
「随分舐められたものだな、公安も」
 宜野座は底抜けに呆れた声色で呟くと、の肩を抱いて優しく引き寄せた。ホルターからドミネーターを引き抜き、男に向かってちらつかせる。
「これ以上色相を濁らせたくなければさっさと行け。勿論、隔離施設で余生を過ごしたいというなら手伝っても構わないが」
 相手に判断を委ねているようで、取れる選択肢は限られている。腹に据えかねた宜野座の横顔――中々珍しい部類の表情だ――を見上げて、には段々申し訳なさが募っていた。最早存在を忘れかけている見知らぬ男にではなく、の安否を心配して気が気でなかったであろう宜野座に対して、だ。
 並々ならない宜野座の気迫に追い詰められて、男もさすがにふたりが何者であるか正答を導き出したらしい。喉奥から迫真の謝罪を絞り出すと、這いつくばってこうべを垂らしたまま路地奥へと逃げ出した。後を追うことなく、宜野座はドミネーターをホルターに収めた。
「……すみません、油断しました」
「貴女にしては珍しいな。腹に悪いものでも食べたか」
 の謝罪を、宜野座は冗談を混じえてそつなくフォローした。薄い笑みを浮かべながら、抱いていた肩からやおら手を離して距離を取る。最上級の心配を擁していても取り乱す素振りをそう易々とは見せない、普段通りの宜野座だった。
 大手の資本家がこのディスコに入り浸り、加えて違法ドラッグを売買しているという情報のタレコミによって、一係は潜入捜査を余儀なくされた。が目星を付けていた全身ホロの人物は見事にその資本家だったようで、逃げ出した矢先、待ち構えていた一係になす術なく捕らわれたらしい。は一先ず捜査が失敗に終わらなかったことに安堵して、次に自分の不甲斐なさに項垂れた。もう何年も監視官を務める者とは思えない体たらくっぷりだ。宜野座はその落ち込みように苦笑を洩らしながら、切れ長の瞳を柔く細めた。
「人間、不調なときもあって当然だ。まずは貴女が無事で何よりだよ」
 こうして必要以上に優しくされて、存分に甘やかされているから人間性が駄目になっていく。にはそういう自堕落的な自覚があった。けれど宜野座は人誑しの発言を無自覚でしてしまうから、から何か物申せるわけでもない。押し黙って、その優しさをただ享受して浸るばかりであった。
 一係の待つ表通りに向かうさなか、はわざと宜野座の指先に触れた。生身の皮膚を中枢から末端にかけて徐々になぞり上げる。人知れず行われた犯行に、宜野座は困ったように眉を顰めて笑った。やがて絡め取られた指先が離れるまで、離れなくてはならない瞬間まで、あとわずかな距離に迫っていたが、ふたりの微小な触れ合いは何よりも互いの心身を安堵に浸らせた。