宜野座伸元
 桜の雨が降り注ぐ。満開に咲く桜の隙間から、肌をやさしく包み込む木洩れ日が落ちてくる。陽春の季節に懐古するのは、いつだって彼女のことばかりだ。
「いつか、本物の桜を見に行きたいですね」
 事件の聞き込み後、薄暗い廃棄区画から抜け出た俺と彼女を出迎えたのは、浅紅色に染まる大空だった。春色の象徴が陽光を浴びて煌めきだつ。それは、自然の恵みのようで、最先端の技術によって生み出された人工物だ。小枝に咲く桜の花も、舞い落ちる花弁も、すべてホログラムによる虚像。視覚的に感動を訴えてきても、それに触れることは許されない。乱れ散る花吹雪に手を翳してみても、数多の花片はすり抜けていく。その幻惑めいた現実を直視して、彼女はそう呟いた。
「本物か……。今となってはどこに咲いているのやら」
「ホロじゃない桜って一定の需要はありそうですけど、どうでしょうね?」
「需要はあってもその存在は隠されているだろう。俺達には手の届かない……幻の花だ」
 駐車場に停めた監視官用車両に向かいながら、桜並木を練り歩く。半歩先で緩徐な足取りを踏む彼女は、ケーリュケイオンの杖を模した公安局のマークを背に刻んでいる。濃紺色のレイドジャケットは、つい半年前までは当然のように自分も身に纏っていたのに、今となっては遠く及ばない代物のように感じた。それは彼女自身も同様だ。手を伸ばせばすぐそこに在るのに、決して触れることを許されない。聳え立つ目に見えない障壁は、監視官と執行官という決して道を交えることのない立場の違いは、俺と彼女の繋いでいた糸を断ち切るには十分すぎた。
 幻の花とは、一体誰のことを想って紡いだのか。
 春風に絹糸のような髪を靡かせる眼前の彼女が目映くて、俺は目を眇めた。
「いつかきっと、必ず見に行きましょう」
「場所も分からないのにか? そもそも、未だ現存してるかすらも怪しい」
「諦めるのは探してからでも遅くはないですよ。だめですか?」
「……いいや。監視官の命令とあらば、仕方ないな」
 冗談も幾らか混じえた俺の発言に、彼女は立ち止まって、不服そうな表情を湛えて振り向いた。眉尻を下げて、困ったような微笑を口の端に浮かべる。哀訴する表情が意味するところを、俺が放った言葉がどのように形を変えて彼女を貫いたのかを、当時の俺は分からなかった。知り得なかった。
「やだな。そんな……他人みたいに言わないでください」
 薄く笑った彼女の声は、僅かに震えていた。潤みを帯びた言の葉は儚く空中に霧散していく。けれど、俺の鼓膜にはしっかり届いた。耳の底にこびり付いて、ふとした瞬間に蘇るのだ。
 父親がこの世に身を置くことができなくなったことも、親友がこの世界に身を置くことを許されなかったことも。すべてに付随する後悔も、憂愁も、遣る瀬なさも、片時も忘れたことはない。
 それは、彼女も同じことだ。
 桜が花開く季節になれば、俺の奥底に住まう彼女の姿が鮮明に呼び起こされて、淡い虚像のように朧気に揺らいで、確かな笑みを見せるのだ。


「すまないが、まだ本物には辿り着けてないんだ」
 他の墓石に比べると未だ真新しさの残る墓石に、生身の手を添わせた。そこから伝わる温度も質感も、本物の彼女には程遠い。ただ彼女を追悼する代用品として設置された無機物は、彼女と違ってあまりに素っ気なく、物寂しい。語り掛けようとも返事は返ってこないし、あちらから訴えてくることもない。当然ながら。
「実はもう俺は自由に出歩くことができる。君から離れることで俺は自由を手にしてしまった。……皮肉なことだな」
 墓石に彫られた、彼女の名字を指でなぞる。窪みの違和感が、墓石から伝わる冷感が、如実に俺を現実へと引き戻す。幻想郷で息をする彼女との邂逅を阻んでいるようでもあった。
 外務省に身の置き場を移した俺を、公安に残った彼女は微笑みと共に見送ってくれた。すべて分かっていると言いたげな瞳が細まる姿に、俺は心底安心したものだ。あれが最期に見た彼女の姿になるとは到底思わなかったのだが。
 後悔がないわけではない。いつだって、後悔の連続だった。本当に自分の選択が正しかったのか。成すべきことを成せているのか。逡巡したところで彼女は戻って来ないし、あの笑顔を目に焼き付けることもできない。
 けれど、引き返すことはしたくない。後悔が募っても、選択に自信がなくとも、それだけはしたくない。彼女が背中を押してくれた選択が、間違ったものであるという証明をしたくないのだ。
「必ず、本物を見つけ出そう。ふたりでこの目に焼き付けよう」
 重い腰を上げた。共同墓地の傍らで舞い落ちる幻象が今日も変わらずそこにある。桜の花弁がはらりと散り落ちる様子は、こんなにも胸を掻き立てる。
 俺の目の前で、桜吹雪に見舞われた彼女が顔を綻ばせる姿が鮮明に浮かび立つ。花弁にまみれて笑う彼女はきっと、筆舌に尽くしがたいほど、誰よりも何よりも美しいだろう。
 未だ歩みを止めるわけにはいかない。俺が信ずる限り、彼女の夢も希望も朽ち果ててはいない。いつか本物の桜の雨が降りしきる並木道を、ふたり並んで歩くのだ。