古賀のり夫
 好きな人の、好きな人と寝た。虚飾を纏わないただひとつの真実に向き直ってみると、とてもじゃないが正気の沙汰とは思えなくて、反吐が出そうで、私をみじめたらしめた。
 その行為は手を取り合って育んだ極上の愛による終点でもなければ、激しく身を窶す片恋の成就でもない。かと言って、一夜限りの火遊びでも酒に溺れた粗相でもない。目的は違えど、互いの望みを叶えた結果だった。シーツに埋もれるふたつの裸体の間には、愛とか恋とかそんな純然たる感情は挟まっていなかったけれど。
 アトリエに向かう足取りは羽が生えたように軽かったのに、いざ対面して唇を開くときには今にも膝から崩れ落ちてしまいそうなほど両下肢が震えた。虚勢を張ることばかり長けている。私も、このひとも。
「そう」
 たったの一言。何の感慨もない、無反応と限りなく似通った返答だった。昨晩の仔細を丁寧に、ねちっこく、仰々しい口振りで暴露しても、カッターの刃を研ぐ音は途切れない。彫刻のように美しく象られたのり夫の瞳は手元に落ちたまま、全くこちらに向かう気配がなかった。
 愕然とする。じわりと滲む手汗が煩わしい。のり夫はいつだって薄っぺらい私の想像を呆気らかんと破り捨てる。貴方が世界で一番大切に思っているひとと寝たんだよ。もっと怒鳴って喚いて癇癪を起こすものじゃない? 何をどうしたら、そんな砂を噛んだような無関心を貫き通せるの? 滾々と疑問が湧き上がって、その度に胃液が暴風雨に曝された波のように逆巻いた。
「鶴丸、上手かったよ。手慣れてたし。そりゃあ皆寄ってくるよね」
 効果も対価も望めないと突き付けられたのに、往生際の悪さが災いした。畳み掛けるように、低俗な追撃を仕掛けてしまう。ばかだな。こんなものは追い打ちどころか苦し紛れの抵抗にもなりやしない。己の短慮を憂うだけの結末が目に見えているのに。
 強固な氷壁に覆われて見事に動じないのり夫の心を溶かして、触れて、そして傷付けたい。ほんのわずかで良いから私という外野にも意識を向けてほしい。そのためなら何だってする覚悟があったし、そのために最も有効な手段が何かも理解していた。情事に及ぶ手札を切らない選択肢はなかった。あの尻軽ならばふたつ返事で腰を抱くと思っていたのに、ばつが悪そうに歯切れの悪い承諾を寄越してきたのは、少しだけ意外だった。鶴丸が見境なしに女を抱く野心家であってほしかったのは、他の誰でもない私だったようだ。
 浅はかな傲慢を、聡明なのり夫はきっと見抜いていたのだろう。意趣返しなのか、はたまた精一杯の痩せ我慢なのか、目線どころか眉頭ひとつ身じろがない。人形のような美を体現した顔貌とは裏腹に、未だ成長の途上である声帯は、精神との乖離をちらつかせる少年の声を繰り出した。
「朝っぱらから下品な女」
「……妬いてる?」
 正直、期待してしまった。のり夫に妬みや嫉みのような負の感情を抱かれてこそ、私の愚行に意味があり、私という存在に価値が付随する気がしたから。けれど、その夢想は跡形もなく砕け散る。残酷なまでに美しく、無慈悲に、のり夫は清々しい笑みを浮かべた。
「まさか。周りがキミみたいな女の子で溢れ返っていて、喜ばしい限りだよ」
「……」
「そのおかげで、僕はここにいられる」
 謙遜でも強がりでもない、虚勢を取っ払ったまことの本心だった。そう確信するに至ったのは、伊達にのり夫の横顔を盗み見ていないからだ。どういう表情がどういう感情を司って生まれたものなのか、手に取るように分かる。
 生殖機能を持たずして生まれた自身の肉体を、鶴丸に必要とされない性別を、のり夫は何よりも憎悪している。けれど同時に、何よりも安堵している。胎児を孕むことができないからこそ、肉体同士を結び付けずとも鶴丸の隣にいられる、その特別を噛み締めている。のり夫の真っ直ぐな意固地はその象徴だ。切れ味抜群の鋭い刃物のような言葉には、捻くれた思慕が知恵の輪のように絡まり付いている。難儀な性格なのだ。素直に喜べない歯痒さを押し殺して、好きな人の前ではいつも気丈に振る舞っている。
 好きだった。背景が霞んで見えるほどの凛とした佇まいと、秋の木枯らしを彷彿とさせる繊細な憂いを帯びた表情が、とても好きだ。報われることがないと分かっていても、好きな人を恋慕い支えようとするその生き様が、大好きだ。例え私なんて眼中になくても。
「その顔やめなよ」
 沈黙を切り裂かれて、そこでようやく気付いた。いつの間にか世界から刃を研ぐ音が消えている。音という音を間引いた静寂に、のり夫の素気ない指摘がたゆたった。微動だにしなかった眉が、今は悩ましげに傾いている。
「……どういう顔?」
「ブス。陰気臭い。死人みたい」
 のり夫らしい辛辣な総評を受けても、浅薄な苦笑が貼り付くばかりだ。真っ向から私を突き刺す言葉だからこそ、余計に他人事みたいにへらへらしてしまう。こちらに視線を寄越されずとも、のり夫の横顔からささくれ立つ気配だけが増幅していると分かった。
「キミを見ていると、映し鏡を見ているみたいで反吐が出そうになる」
「……」
「みじめだね。知ってたけどさ」
 息が詰まる。映し鏡なんかじゃない。私と違って、のり夫の揺るぎない想いは格別の美しさを誇っている。私と違って、鶴丸に向かう瞳には春の陽だまりのような慈愛が込められている。そんな優しくて健気で逞しい貴方が、みじめである筈がない。
 叫び出したくて堪らない筈の主張は、声にもならず喉奥に吸い込まれていった。代わりに分泌された、誰にも必要とされない身勝手な透明のしずくが、私の頬をみじめに濡らした。

21/09/28