禪院直哉
※非倫理的


 指先に触れた頸動脈の躍動に、は血の気が引いていくのを感じた。入れ替わるように、失っていた正気が全身を巡っていく。脳髄にまでそれが流れ着いたとき、戦慄した。現実を受け入れた瞬間、けたたましい警報が鳴り響いた。ひとりの人生を終息させようとする行為、それに抗う生命の脈動は、彼女にとってあまりに痛烈だった。人ひとりの命脈を絶つ十字架なんて背負えない。背負いたくもない。ならば、この手を離して。はやく、はやく、戻れなくなる前に。両手を支配していた衝動的な殺意が冷静を取り戻し、程なくして恐怖へと変貌を遂げる。首根を絞め上げていた手のひらから、ずるずるとちからが抜けていった。
 ――間に合った。憎くて厭わしくて殺したくて堪らなかった感情をひととき忘れて、本気でそう安堵した。の下で呼吸の手段を奪われていた男が、忙しなく息を吹き返す。酸素を求めて咳き込む男から離れようとした、そのときだった。
 真夏の真昼の室温が下がった。畳の上で淡い影法師が揺れる。のものではない、倒れ伏す男のでもない、別の誰か。視界の端に現れたそれは、やがてひとつに重なり合った。
 音もなく背中にのし掛かる体温と、うなじを掠める湿った吐息が、の行動を鈍らせた。背後から覆い被さる第三者によって呆気なく身体が押し戻される。そして、わけも分からぬまま、気付けば再び両手は塞がっていた。指先が強張る。あんなにもしぶとかった皮膚裏の拍動が弱り果てていくのを感じる。躊躇する暇も、抵抗する余裕もない。骨太のがっしりとした手のひらがの手を包み込み、首筋に指先を添えさせて、じわりじわりととどめを与えた。血液と酸素の供給回路を絶ち、そうしてふたりは男の息の根を止めた。
 唖然と口を開いて、はへたりと座り込んだ。脱力した四肢が鉛のように重たい。解放された両手の内側を見つめ、絶命させた瞬間の生々しい名残を反芻する。本当に、殺してしまった。言い逃れのできない現実を飲み込んで錯乱しかけた直前、の思考は阻まれる。自ら進んで共犯となった男が――直哉が、打ちひしがれる彼女の肩を抱き寄せたのだ。殺害の一助を買って出た筈の手には、もう憎悪も殺意も含まれていない。元よりそんなものは直哉の内側に存在していなかった。ただ、が諦めて飼い殺そうとした殺意に、成仏する道を与えてやった程度の認識でしかない。
「やるときは一息。こんなん鉄則やで」
 優しい木綿のような声色で、今生ではもう二度と参考にしたくない助言が吹き込まれた。ぞっと背骨を悪寒が駆け抜けていく。視覚には新鮮な死体を植え付けられ、聴覚からは取り返しの付かない現状を突き付けられて、目が眩んだ。吐き気さえ込み上げてくる。
「それとも生殺しが好みなん? ええ趣味しとるなあ」
「ぅ、え……」
「今度俺にもしてみてや。中でも口でもええよ」
 何とも不謹慎で低俗な言葉を連ねられても、の耳はそれどころではなく、ものの見事に溢れ返っていく。幸か不幸か、ひとつも聴神経は感知しなかった。
 吐き出して楽になりたい気持ちを抑えられずにえずいても、空白で埋まる胃からは何も成果を上げられず、息苦しさばかりが侵食する。宥めるように背中を行き交う直哉の手が、にはよほど不気味で恐ろしかった。振りほどくように膝頭で躄り、直哉を見据える。逆光の中に居座る、これっぽっちも悪気のないまなこが、逆にの心身を竦ませた。
「なん、何で……こんな、」
「何言うとん。ちゃんが自分で首絞めとったやんか」
 そうだとしても、だ。一度は手を引いた殺生に無理やり導いたのは紛れもなく直哉だ。そこに悪意がなかろうと、悪逆には違いなかった。
 が抗議の睥睨を飛ばすも、直哉には掠りもしない。躙り寄った挙げ句の果てに彼女を容易く押し倒していた。尖りを帯びた狐目が柔く弛む。怯えて震える指をすくい上げ、一本一本のかたちを確かめるように直哉はその輪郭を唇でなぞった。
「ほっそい指。ひとりでは殺しきれんかったやろなあ」
「やだ……いや、直哉様」
 涙に沈んでいやいやかぶりを振るにも、直哉は素知らぬ顔を貫き通す。それどころか、寧ろ口角吊り上げて胸を躍らせている始末だ。痛ましいほどに歪むの表情は、直哉の嗜虐心を刺激して増幅させた。
ちゃん。俺が何されたら嬉しいか、分かるな?」
 形式上では脅迫だったが、真髄は異なるものだ。それは誓約だった。これからの人生を平穏に過ごすためには、隠し通さなければならない秘密がある。そして、手を染めた悪事には共犯者がいる。直哉は、が自分に歯向かわずに従順でいる限りは秘密を守り抜くと、誓いを立てているのだ。一蓮托生の運命を余儀なくされて、いつしか眦に留まる涙は引っ込んでいた。支配に勝るちからはない。首輪を繋がれた心地で、は精一杯の下手くそなつくり笑いを浮かべた。
 真夏の真昼の室温が上がる。茹だる熱が満ち溢れて禍々しい空気を滲ませる和室には、ふたりだけの秘密が閉じ込められている。

21/08/18