五条悟
 微かな残香を、その持ち主を、鼻腔が勝手に覚えている。だから廊下の突き当たりに見慣れない後ろ姿を捉えたとき、反応した嗅覚が即座にその正体を教えてくれた。踊り出す心臓には高揚感と、ひとつまみの緊張感が迸っている。無性に落ち着かなくなって、心が波立って、その鳴動につられて忙しなく肩が揺れた。そうこうして思案を巡らせている間に、彼女は階段の踊り場へと姿を消してしまった。慌てて足を繰り出し、夢中でその背中を追い掛ける。到達した踊り場で階段を見上げれば、もう段差が途切れる寸前まで上り詰めた後ろ姿があった。ひとつ飛ばしではまどろっこしいから、ふたつ飛ばし。跳躍するように自慢の足を駆使して彼女に近寄る。十分に距離を縮めて、腕を引くでも声を掛けるでもなく、目を惹くその尻尾に手を伸ばした。
 けれど、敢えなく虚しく指先は宙を切った。俺の意思に弾かれるように、ふわりと毛先が反対側へと捌けてゆく。置き土産とばかりに振り撒かれる甘ったるい匂いが、寧ろ煽られているように感じて腹立たしくさえあった。
「五条くん?」
 振り向いて、幽霊でも出たかのように瞠目して、ぱちぱちとまじろぐ。ようやく追跡者の存在に気付いたが、驚いた様相で俺を凝視した。緩く一纏めにされた細長い猫っ毛が、の首の後ろ側でふわふわと揺れている。引っ掴みたい俺の欲望を見抜かれているのか、やっぱり煽られている気がしてならない。
「びっくりしたあ。どうかした?」
「……それ、何」
「それ?」
 獲物を逃して所在なげな右手で、宙を跳ね回っている毛先を指差す。暫しの間は考え込むように首を傾げたが、不意に思い至ったのかぱっと表情を明るくさせた。
「もしかして髪型? 今日暑くって、久々に括ってみたの」
 指先に毛先を絡めて遊ばせながら、は溌剌と弾ける笑顔を押し出した。どう? なんて聞くまでもないだろ、ばーか。宝石よりも爛々と輝く瞳に覗き込まれて、急激に身体が熱くなる。普段の下ろし髪の姿を見慣れているからか、妙に胸がこそばゆい。耳元からくるりと垂れる横髪とか、流麗なうなじに沿って張り付く後れ毛とか、そういうの。未知との遭遇が地に足着かない浮遊感を連れてくる。
「……っぽくねぇ」
 絞り出した感想があまりに味気なくて、意地を張り通そうとする強情な唇に嫌気が差した。どこからともなく湧いてきた心象風景の傑と硝子には白い目で見られる始末だ。うるさい、その目止めろ。俺だってヘマしたことくらい分かってる。
 やいのやいのと騒ぎ立てる外野と打って変わって、肝心の本人は静まり返っていた。俺の言葉を真摯に受け止めているのか、毛束を見据えて首を捻っている。
「変なら解こうかな」
「ばっ、変とは言ってないだろ」
「違うの? 難しいなあ」
 髪の結び目に指先を掛けようとしたは、焦慮に駆られた俺を茶化すように笑った。快活な笑い声を響かせながら、身を翻して階上へと向かっていく。もう俺のふしだらな目論見など見透かされているんじゃないだろうか。また、あの後ろ姿に身が疼く。束ねた長い髪を捕まえたいという幼稚な衝動が、俺の精神を追い詰めていく。
 結局、欲望に抗いきれず手を伸ばしてしまう。しっとりと纏まる柔らかな感触が今度こそ手中に――収まらなかった。後一歩のところで、揺れる毛束が一目散に退散していく。見れば、振り向きざまに微笑を漂わせるが視界に映った。
「変な五条くん」
 見せ付けるように毛先を揺らすに、唾を飲み込んで思わず唸りそうになる。変な気分にさせてんのはどこのどいつだ。

21/08/18