五条悟
 薄白い月明かりが床に染み込んでいる。淡い採光によって描かれる朧気な模様は、僕を窓際の明るみに連れ出そうとしているみたいだ。その目論見に応えてやろうと、軽やかな足取りで軌道に沿って進む。舞い上がるカーテンを押さえ付けて、わずかに隙間ができていた掃き出し窓を完全に開けると、お目当ての人物を見つけた。立ち上がる湯気が顔貌を覆い隠してしまっているが、六眼を使うまでもなく、その正体を見抜くことなんて造作もない。
 近寄って、纏わり付く湯気を蹴散らそうと息を吹きかける。一斉に四散した湯気が空気に溶け込んでゆくのと同時に、ぱちくりと瞬くの姿形が露わになった。ベランダの端に放置されたスツールに腰掛け、食べ物を口に含んだリスみたいに何かを頬張っている。僕も向かいのスツールに腰を下ろし、彼女の目線に屈み込んだ。
「なに食べてんの?」
「カップラーメン。シーフード味」
「そりゃまた夜中に食べたら一段と美味しそうな」
 僕の些細な独り言をおねだりだと捉えたのか、は麺を摘んだ箸先をこちらに向けた。特に断る理由もないので、差し向けられた「あーん」をありがたく享受する。熱々とは言い難いぬるく伸びきった麺だが、それでも味覚は美味しいと主張していた。
 つい先程まで散々声帯を痛め付けられて、足腰が立たなくなるくらい虐められたばかりなのに、今のは毒気を抜かれたようにすっきりとした面持ちだ。下限まで減り尽くした筈の活気も体力も見事に取り戻している。僕がシャワーを浴びている間にせっせっと仕込んだラーメンが、そんなにも味わい深いものだろうか。僕には目にもくれず一心不乱に食を堪能する彼女に、純粋に興味が湧いた。
「激しい運動した後って食欲なくならない?」
「そうかな? 私は即席ラーメン食べたくなる」
「店のじゃなくて即席?」
「うん。あんまり濃くない、素朴で飽きてくる味」
 案外的をついてると思うが、それだと褒めてるんだか貶してるんだか分かりやしない。或る意味でそういう飾り気のない評価は彼女らしいとも言えるけど。微かに苦笑を洩らすと、ましろの吐息となって宙に浮かんでいった。
 深夜は遥か昔に通り過ぎたけど明け方と呼ぶには些か早すぎる、不思議な時間だった。仄暗い雲と雲の切れ目から飛行機の緩やかな光跡が描かれている。静寂が沈む東京にもぽつぽつと光が灯っている。空も街も確かにひとが息をしている痕跡が見えるのに、今このひととき、この空間に限っては僕とのふたりだけだ。ラーメンを啜る音も、立ち昇る白い吐息も湯気も、ふたりだけのもの。でも夜が明けてしまえば、それぞれの日常に戻らなければいけない。ふたりだけが続く永遠は、きっとこの世の何処にもない。
「悟くんはカップラーメン食べたくなるときってどんなとき?」
 僕の感傷を遮るように朗らかな声がたゆたった。一口を咀嚼し終えたは、新たな一口に狙いを定めて器を見つめている。このペースだと容器が空になるより先に彼女の身体が冷え切ってしまいそうだ。ラーメンに夢中で今にも肩からずり落ちそうなブランケットを掛け直してやりながら、目下の食べ物について思いを馳せた。
「そうだな……仕事終わりとか? 少なくとも今はいいかな」
「こんなに美味しいのに」
「ま、僕はともかくいつ食べても美味しいんじゃない?」
 腹十分目だとか、全力疾走した直後だとか、そういう食事の意義を成さない状況以外ならラーメンの価値なんて変わらないだろう。小さな唇を使って必死に頬張っているは、現に禁断とも言えるカロリーたっぷりの夜食をも楽しんでいるようだし。脚を組み直してぼんやりその様子を眺めていると、不意に彼女と目が合った。食べ終えて一息ついた彼女は、剥き出しになった素足で僕の脛あたりを柔くつつく。
「私はこの時間に食べるのが好きだよ。悟くんにいっぱい見られると胃もたれしちゃうから」
「……ん? 僕?」
 突然、何の前触れもなしに僕とラーメンが結び付けられて、一体何事かと思った。突拍子もない会話の繋ぎ目を無理やり結び合わせると、つまり最中に僕に見られ続けて胃もたれするから、事後はカップラーメンの素朴な味で調和を図っているらしい。何だそりゃ。どういう思考回路が組み込まれているのか、一度の脳みそを開けてその全容を明らかにしたくもなる。
「胃もたれしないでよ。勿体ないからちゃんと味わいな」
 ようやく空になったらしい容器を取り上げて、ひと仕事終えて無防備になった唇をひっ付ける。舌を差し込んで引っかき回すまでもなく、すぐに飽きが来そうな素朴な味がした。唇を離すと、すっかり火照った頬と潤みを帯びた瞳が遠ざかる。ラーメンで暖を取るより、こっちの方が断然手早く熱を補充できて良さそうだ。
「……無茶言わないで。夜の悟くん、いっぱいいっぱいになっちゃう。キャパオーバーだよ」
「贅沢なやつめ」
 俯いてしまった彼女の顎をすくい上げ、もう一度唇を寄せる。今度はもっと味わえるように、念入りに奥深くまで。狼狽えて両足をばたつかせていたも、やがて観念したのか大人しくなって、僕の腕に指先を添えた。
 目蓋の裏側が段々と白く燃えてゆくのにつられて、唇を離す。目を開けば、青白く透き通った薄明がの顔を照らし出していた。何だか名残惜しそうに揺らめくまなこが、押し倒した直後の彼女を彷彿とさせる。臍の奥からじんわりと熱が湧き上がるけど、夜明けが迫り来る今日はもう歩き出さなければいけない。ふたりだけの時間は、また夜までお預けだ。
「明日も食べたいならまずこっちからね」
「……ん」
 素直に頷くが愛しくて、ひょいと抱き上げる。軽々持ち上げられた彼女が首元に縋り寄って、僕と同じシャンプーの香りが鼻腔を擽ったとき、その愛しさが増幅した。
 永遠なんてものはないけれど、僕達が紡ぐふたりだけの夜は何度も繰り返されて、純度も濃度も増してゆくに違いない。