夏油傑
 皮膚を滑る汗によって貼り付く横髪も、背中に籠もる熱気も、煩わしくて仕方ない。分厚い上着を脱いで一息つく。見上げれば、夏季に鬱蒼と茂っていた新緑はいつの間にやら黄金色に移り変わっていた。青空を覆い隠すほどの銀杏がひしめき合って揺れている。汗ばむ肌を労るような秋風が靡いたとき、独特の香りが鼻を突いた。
 自分を包み込む色も温度も香りも、すべてが足並みを揃えて季節を駆けていくのに、その変化に付いていけない。ひとりだけ、あの息苦しい初夏に取り残されたような心地がしている。
「いけないんだ、優等生」
 葉擦れのささやきを掻き分けて流れ着いた声は、どうにも拍子抜けするような、けれど少なからず憂いに沈んだ心をすくい上げるような声だった。
 背後から軽快に落ち葉を踏み鳴らす音が聞こえたとき、どうしてだか真っ先に彼女の存在と等号で結ばれた。願望混じりの偏向的な憶測。そう言ってしまえばそれまでだが、今現在、火花を散らして敵対する相手がこんな迂闊な行動を取る筈がない。自然と選択肢は絞られて、予想も鮮明になってゆく。しかし、まさか本当に的中するとは露ほども思わなかった。彼女はいつだって私ではない、もう一方を追い掛けて高専内を彷徨うような人間だったから。
 振り向けば、樹林の陰から顔を覗かせてせせら笑う、の姿があった。
「夜蛾先生カンカンだよ。二年の半ばにもなって無闇に呪霊を出して騒がせるなって」
「……ああ、あの一件でセキュリティが強化されたのか。喜ばしい限りだね」
 別に皮肉を添えるつもりは微塵もなかったのに、の穏やかな小言によって静かに心をかき乱される。無関係な嫌味を注がれても尚、彼女はけろっとしていた。
 数ヶ月前に起こったかの襲撃以来、高専の敷地を囲う結界や呪霊探知は一層強固になった。侵入者が透明人間なんていう馬鹿げた不測の事態を除けば、あらゆる盤面に対処でき得る体制だ。その馬鹿げた事態に足元をすくわれたのが誰かなんてこと、考えたくもない。
 今日も悟から喧嘩を吹っ掛けられて、気付けば指先から淀んだ呪力のかたまりを生み出していた。近接戦で散々削り合ってから長期戦に縺れ込み、今は解き放った呪霊を使っておびき寄せる算段を立てていたところだ。いくら敷地内を埋め尽くす森林に身を潜めて囮を出したところで、異彩な双眸を以ってすればすぐに見抜かれるだろう。あまつさえ出し抜かれる。何が火種だったかすら薄れつつあるこの抗戦に早く決着をつけたい反面、自分が敗北を認めることは死んでも御免蒙りたいから、未だ膠着状態が続いていた。
 勃発した喧嘩の行く末を気に掛けて銀杏の林道に進路を取ったは、一体どちらの男がいるのを期待していただろう。答えを問うまでもなかった。
「今日はどっちが勝った?」
「まだ勝敗は付いてないよ。悟は呪霊の気配を辿って右往左往してるだろうけど」
「やらしーんだ」
「失礼だな。知的戦略と言ってくれ」
 何が面白いのやら、は呑気に笑い声を響かせた。屈託のない鈴のような音色が鼓膜に触れるたび、胸が波打つ。
 風に吹かれて、彼女の絹糸のような繊細な髪が流れる。もう暦の上では秋も中盤戦だというのに、はワイシャツ一枚の薄手の格好だった。……他人のことをどうこう言える立場ではないけれど。流麗な曲線を描く首筋が露わになって、目を引かれて、見てはいけないものを見てしまった気分に陥る。悟を警戒する自然な素振りで目を逸らした。それなのに、今度はに腕を引かれて強制的に視線を戻される。
「傑、こっち向いて」
 要求されるさなか、スカートのポケットを弄るの様子を捉えたから、アレがくるのだろうと予感がした。予感というか、待望というか。取り出した絆創膏の包装紙とテープを剥がした指先が、私の唇に寄せられる。一瞬だけ肌に触れた指は口端に絆創膏を貼り終えると、すぐに帰路に就いていた。
 近接戦を余儀なくされる術式のは生傷が絶えることなく、よく絆創膏を常備していた。彼女の性格からその絆創膏が別の誰かに差し向けられることも、しばしば。そしてその誰かが悟であるとき、から滲み出る雰囲気が一段と柔らかく弾んでいることも、誰もが知り得る事実だった。
 いつからその光景を意識的に視界に入れなくなっただろうか。肋骨が軋んで心臓が歪にさざめくその瞬間に、吐瀉物と同等の嫌悪感を催すようになったのは。
「良いのかい、私に使ってしまって」
「え?」
「悟が大怪我を負ってるかもしれないよ」
 我ながら、よくもまあ抜け抜けと言えたものだと思う。とうに知れた現実を余すことなく突き付ける陰湿な言い回しが、どれほど彼女を追い詰めるか。どれほど彼女を苦しめるのか。分かりきったことなのに、その反応を知りたくて堪らない自分がいる。口火を切って火の粉を被るのはだけでなく、自分自身もだというのに。
「……悟にはもう、こんなもの必要ないでしょう」
 投げやりに呟いたは、なよやかに目を伏せた。前髪が生み出す翳りが目元に重々しく伸し掛かる。望んでいた反応には違いないのに、心は荒野のように渇いたままだった。
 悟は、もう誰かから処置を受けることは疎か気遣われる心配もない。至高の術式は十全の輪郭を成し、加えて並の人間には到達できない呪術の核心まで掴んでしまった。
 肉体に受けた傷を自分のちからで癒せる悟は、もう、から絆創膏を受け取ることはない。
「……絆創膏、まだ残ってる?」
「あ、うん。あるよ」
 再びポケットを弄り始めたは、絆創膏を一枚取り出して私に向き直った。どこを怪我したのか、曇りなく澄んだ瞳が問い掛ける。遠回しに傷付けられた相手であっても無防備な信頼を寄せて、世話まて焼こうとする。彼女の純朴すぎる態度に好意が募り、同時に悪意も募る。時々、この積み上げた信頼を粉々になるまで打ち壊したくなる衝動に駆られた。
 その欲望が決意に変貌を遂げたのは、今日だった。
 指先に挟まれた絆創膏を抜き取り、彼女の肩を強く押さえ付ける。私の異変を嗅ぎ取ったらしいは、それでも逃げ出す素振りを見せず、首を擡げるだけに留まった。やはり彼女は迂闊だ。弱々しい視線がようやく懐疑の色を灯した頃にはもう手遅れだった。唇がの首筋に到達して、鮮やかな朱色が刻まれる。
 見てはいけない場所を見て、触れて、蹂躙してしまった。誰も踏み入った試しのなさそうな、まっさらな神域を荒々しく冒涜した。その行為の名残を、絆創膏を貼り付けて覆い隠す。用途の異なる使い方をされても、この無機物は抵抗を示さないで彼女によく馴染んだ。
「使い道、できて良かっただろう」
 ひっぱたけば良いものを、はただ呆然と見上げるだけだった。すっかり昏く淀んだ瞳は、やはり私に何も齎してはくれない。心は潤うことなく砂漠のように干からびている。
 同じなのだ。も、私も、見ているものは違わない。
 季節に取り残されているのではない。五条悟という男に置いていかれて、縛られて、果てなきこの地を彷徨っている。