七海建人
※死ネタ 五条と話すだけ

 海原の逞しい鼓動に耳を澄ませた。この世の生命すべての原点は、大地を覆い尽くさんとする勢力で迫り来るけど、すぐに諦めて返ってゆく。唸りを上げるとどろきは尽きることなく反復する。そして、その波間を縫って、場にそぐわない軽薄な声が鼓膜に流れ着いた。
「髪切った?」
 砂浜を踏み歩いて近付いてきた人影には見覚えがあったし、その呑気に弾んだ声には聞き覚えがあった。でも、馴染みのひとだとはどうしても思いたくない。本能が拒否反応を示している。とは言え、此処は障害のひとつもない広々とした海辺だ。あるのは海水と砂、漂着した丸太やガラクタだけ。丸腰の状態では逃げも隠れもできやしない。観念して、着々と歩みを進めて近寄ってくるそのひとに向き直る。唇を開いて紡いだ言葉は以前と変わりなく、否以前よりもずっと捻くれて宙を舞った。
「切りました。百年前にですけど」
「へぇ、そう。じゃあ僕達、百年後の海辺で邂逅を果たしたのかな? 意外とロマンチストなとこあるじゃん」
「……何の御用ですか?」
 相変わらず絶えることのない軽口に辟易して、こちらから終止符を打つ。お得意の饒舌な語り口を封じられた五条先輩は「かわいくないやつ」とぼやいて不敵に笑った。ここで笑う要素がどこにあるんだ。何に際しても自分の調子を崩さない先輩に苛立つ反面、正直、懐かしく思う気持ちもある。なくはない。でもそれ以上に、多忙な筈の特級術師がこんな辺鄙な場所に立ち寄ったという事実が、何よりも恐怖を増幅させた。取り留めのない与太話ではない。本来持ち出すべき話題が五条先輩の内側には眠っている筈なのだ。両手に収まる骨壷を護るようにしっかり抱きかかえた。
 そうまで膨れ上がった懸念を見抜いたのか、五条先輩はけらけらと快活な笑い声を響かせた。
「そんな警戒しないでよ。何してんのかな〜と思い立って、フラッと様子見に来たの。オマエが墓荒らしなんて大胆な真似してからこっちは大変さ。ただでさえ重労働なのに、仕事増やされる僕の身にもなってよ」
「それは……御愁傷様です」
「随分他人事じゃん。誰のせいだと思ってんだ? アァン?」
 大きな手のひらが頭上に回る前に一歩後退って、五条先輩の襲撃を回避する。目論見を暴かれて破られたというのに、先輩はまたもいやらしい類の笑みを浮かべた。サングラスに覆われてわずかに透ける目元もしっかり笑っている。何か上層部から言い渡された使命を遂行するため遠路遥々足を運んだと推測していたけど、本当にそのような意図はないらしい。内心、ほっと胸を撫で下ろしてしまった。
 ――七海くんが亡くなって丸々一年が経過した。
 私は彼の最期を目にしていないし、最期に残した言葉さえも知らない。術師も非術師も大量に死んだあの日、その明くる日、七海くんが死んだという情報だけを貰い受けた。彼の死を本当の意味で突き付けられたのは納骨の日だ。成人男性とは思いも寄らない、半分もない骨と肉の燃え滓だけが目の前に散らばっていた。――呪術師に悔いのない死などない。脳内に蘇った言葉が重く伸し掛かって、嫌というほど術師の本質を叩き込まれる。頬を勢いよく平手打ちされた気分だった。心の何処かで私は、彼は、大丈夫だと思い込んでいたのだ。そんな筈ないのに。死に意味などなくて、ただ無慈悲で残酷で、誰も彼にも平等に降り注がれるということ。この世で一番大事なひとと引き換えに、私はこの世界の忌々しい理を手に入れた。今更何の意味も成さないのに。
 海が見たいと、そう呟きを落として窓の外を見つめていた。ベッドの脇に積まれた本の山から抜き取った一冊を、読了する前に目蓋を下ろして眠りこけてしまった。そういう他愛もない七海くんの情景が再生されたとき、自然と私の身体は走り出していた。
 海に行こう。此処からずっと遠い場所で凪いだ水面を見つめるの。
 本を読もう。七海くんがあらゆる本にとっ散らかした数多の栞を頼りに、綴られた物語を見つめ直すの。
 早くはないし寧ろ遅すぎるまであるけど、今からだってきっと間に合う。秘めた決意は全身に熱を走らせた。土中に埋まった遺骨を取り出して、ありったけの本を鞄に詰め込んで。気付けば私は電車に揺られていた。車窓から眺める大海が乱反射して、目映い光で目を眩ませる。ひと気のない鈍行列車は、私達を術師のしがらみから解き放つくらい遠い果てまで運んでくれるような気がした。
 あれから一年近くの時間が過ぎ去って、今も私達はこの海辺に佇んでいる。もう魂の欠片も残されていない人骨からは何の反応もないし、温度も香りもない。私の呼び掛けに応えてくれる、澄み渡った明瞭な低音も、聞こえることはない。
 遠雷のように轟々と響く潮鳴りのする方を見据えながら、五条先輩はぽつりと呟いた。
「オマエをこうやって縛り付けることが、七海の願いだったとは思えないな」
 珍しく神妙な面持ちで、落ち着いた声色で、清々しいほどにそう言い放たれる。かっと頭に血が昇るのを感じた。煮え立つ私の憤懣を代弁するみたいに潮騒が激しさを増す。
 ただ様子を見に来ただけじゃない。そこに紛れる真の目的は、私が犯した愚行を咎めることにあったのだ。これが七海の望んだことか? 五条先輩にしては優しい声の裏側には、きっとそういう意図の詰問が潜んでいる。
 そこでただ気圧されて身を縮こまらせるような軟弱者のつもりはない。後退っていた足をもう一度前に出して、五条先輩の前に一歩踏み出した。
「七海くんのためだけにしてるんじゃありません。私達ふたりがやり残したことなんです。誰にも……五条先輩にだって邪魔して欲しくない」
 空中にたゆたった筈の発言に対して、五条先輩も、抱きかかえる遺骨も、何も返してくれなかった。寄せては返す波音だけが、私が振り絞った勇気を宥めてくれる。気恥ずかしさと心細さでいっぱいいっぱいだったけど、すぐに乾いた笑い声が辺り一帯に漂った。反応を貰えたとて、これでは嬉しくも何ともない。腹を抱えて大笑いする失礼極まりない五条先輩に、脛を蹴り飛ばしてやろうかという心地になった。
 やがてどうにか笑いを引っ込めた五条先輩は、私を見下ろして唇をうんと緩めた。
「本当は七海の呪いかなんかに取り憑かれてんのかと思ったけど……杞憂だったかな」
「……えっ!?」
 何だ、そういうこと? 非常識な墓荒らしと突発的な逃避行が、私によるものではなく、七海くんが死後に成した呪いだと解釈されていたようだ。確かに職業柄そう思われても致し方ないけど、結局七海くんを卑下している事実には変わりない。無念を抱えて死したとしても、彼の純然たる意思が呪いに転ずるなんてこと、あり得ないのだから。全くもって意地悪な五条先輩に腹が立って脛を小突くも、先輩はしっかり無下限を張り巡らせて自衛していた。物理的に敵いようがない相手には、もう苛立ちを通り越して呆れが降り立ってしまう。
「……五条先輩は死んじゃだめですよ」
 遥か向こう、海と空の境目を見遣りながら、呟きを落とした。それはきっといずれ呪いになりかねない、でも私から五条先輩に届けられる唯一の祈りのようなものだった。
「お? 珍しい。僕のこと心配してくれてんの?」
「自惚れないでください。五条先輩が死んだら厄介な呪いになりそうなので」
「言ってくれるなぁ」
 サングラスから透ける眼差しは、私達を捉えて存外優しい。このひとは後輩にこのような愛しさを有してくれるひとだったのか。長いこと先輩と後輩の関係を努めてきて、今日初めて知り得た事実だった。
 五条先輩は「任せなさい」と親指を立てると、そのまま踵を返して元来た道を辿っていった。美しいしろがね色が豆粒程度の大きさになって、やがて目視も適わなくなる。海辺には誰もいなくなった。私と七海くんを残して、また世界は回り始める。
「……今日は何の本読もうか」
 積もり積もった本の山がまだたくさんある。終わりなんて見えないくらい、たくさんの本がある。それってこんなに幸せなことだったんだ。
 問い掛けに返事をくれるひとはいない。さざめく海の音色だけが私を包み込んでくれる。
 この手に抱かれる何の色も温度も香りも持たない骨には、呪いは疎か生命も魂も宿ってはいない。それでも、私と七海くんの道筋に、大いなる希望を降り注いでくれる。