七海建人
※死ネタ

 紙の擦れる音がする。一枚一枚、丁重に捲られる音がする。大事な思い出を見返すように、亡くしたものを取り戻すように。単調な音から滲み出る仄かな懐かしさに連れられて、夢のさざ波から意識を引き上げた。目蓋を開いた先に降り注ぐ明光によって視界が眩む。光から逸らすように目線を横にずらすと、丁度ベッドの縁に腰を下ろしていた人物と目が合った。
 血の気が引いて、また出戻ってくる。そんな異質の感覚に見舞われた。
「目、覚めた?」
 私が覚醒したのを見届けると、は手元の本を閉じた。この前古本屋で見繕ったばかりの古書は、夏の装いで髪をなびかせている彼女に全くもって似つかわしくない。本を置いて、汗に濡れた私の前髪を指ですくったは、可笑しそうに目を細めた。
「よく寝てたね。珍しかった」
「…………ここは、」
「うん?」
 上体を起こしながら辺りを見回す。割りかし新しめの内装や家具は、一分の見覚えもないものばかりだ。どうしてこんなところに。私は一体、どうして──……。
 その思考を遮るように、が私の腕を揺すった。控えめな振動が、それでも確かに彼女の存在を主張している。は眉を寄せて不服そうに唇を窄めた。
「七海くんオススメの本、読み終わっちゃった」
「……」
「ね、早く外行こう。待ちくたびれちゃったよ」
 手を引かれて、促されるままに立ち上がる。部屋を抜け出して外界に踏み出すと、微風に乗って磯の香りが流れ込んできた。耳を澄ませば囁き声のような微かな潮騒が空気を伝ってくる。誘われるがままに、の後を追って人ひとりいない広大な海辺へと辿り着いた。
 夕日の色を溶かし込んだ海原が、満ち干きの反復を繰り返す。全身を覆い尽くす波音に導かれて、彼女はサンダルを脱ぎ捨てて走り出した。勢いよく海に飛び込んだは、水飛沫を顔面に浴びて朗らかに笑っている。放り出されたサンダルを拾い上げて、私も波打ち際まで近寄った。
「はしゃぎすぎると危ないですよ」
「危なくなんてないよ」
 もう既に膝上まで浸かってしまったは、私の苦言などお構いなしに太陽が沈みゆく方角へと突き進んでいく。スカートは疎か薄手のTシャツまで水に浸りかけたところで、再び静止を促した。濡れ鼠のように海水にまみれた彼女が振り向いて、私を一直線に見据えてくる。きれいに澄んだまなこに射抜かれて、胸の内側にどよめきが広がった。
「七海くん、私達もうどこにだって行けるよ」
「……」
「どこにだって行けるし、したいこと、何だってできる」
 夕焼けに包み込まれたが、視界の中央で鮮明に映し出される。
 思い出した。いつかの夏、氷のように冷たくなって帰ってきた彼女のこと。さんにんがふたりになって、ふたりがひとりになったあの夏のこと。
 一体どうしてが目の前にいるのか。どうして彼女と別離を遂げた筈の私がこの場所に佇んでいるのか。正しく理解した。無慈悲な現実とその実感を得るより先に、身体が勝手に動き出す。サンダルを砂浜に落として、行く手を阻む水中をかき分けた。
 細こいの身体を引き寄せて、腕の中に引き入れた。私達のあわいをたゆたう水を押し退けて、隙間を埋める。抱き締めた身体は仄かに水気を帯びて冷たいが、肌に残る確かな温もりを感じた。
「会いたかった」
「……うん、私も」
 肩口に額を押し付けたから、くぐもった声が聞こえてくる。さざめく穏やかな波音に潜んで、わずかにその声は震えていた。回された腕は非力だけれど、幻ではない実体を身に沁みて感じさせる。私も強く抱き留めた。
「七海くんは十分頑張ったよ。もう怪我しなくていいし我慢しなくていいよ。好きなことして、好きな所に行って、好きなひとに会いに行こうよ」
 子どもを宥めるような柔らかな語り口が耳朶に触れる。同時に、背後から呼び声がかかった。忘れた試しのない、記憶の底に染み付いている明朗な声。引き寄せられるように振り向くと、見慣れた笑顔が飛び込んでくる。彼もまた、軽快な笑い声を上げながら海をかき分けてやって来る。
 悪夢のような現実に自分の意思で舞い戻った。そこで救いを求めて生きていたわけではないし、覚悟もあった。結局転がり落ちる先は奈落の底だと知ってもいた。呪い合うことでしかこの世の因果は廻らない。だからようやく、私はその因果から解放されたのかもしれないと思えた。この鮮やかな情景に染まる世界では、呪いが生まれ出づることはない。少なくとも、私が大切にしていたこのふたりからは。
 夕波のさざめく音が立つ。穏やかな波音がまるで生命の息吹のように、さんにんだけの世界で反響していた。