七海建人
 茹だるような熱気が充満している。気高い高閣のような長身が、有象無象で満ちる人混みを掻き分けていく。履き慣れていない下駄ではそのひとを追い掛けるのがやっとで、人々の隙間に滑り込んでは飛び抜けた金色を探すだけで手一杯だった。脳内でふわふわと浮かんでいた理想など夢のまた夢なのだと、思い知らされる。汗ばむ肌を気にしつつも手を繋いだりだとか、人目を忍んで寄り添ってみたりだとか。この世で計画通りに進む事象なんてほんのわずかな一握りだと分かっていても、落胆せざるにはいられない。内なる期待は勝手に膨らんで、勝手に萎れていく。
 ようやくそこかしこに屋台が並ぶ大通りから外れた脇道に逸れて、ひとが疎らになった。
「ななみ、ね、七海」
 声の通りが良くなったのを契機に、先を急ぐ彼に声を掛ける。はっとした様相で、七海は振り返った。
「すみません、大丈夫ですか」
「平気。私こそ、とろくてごめんね」
「いえ、こちらこそ。……配慮が足りませんでした」
 その口振りからして、七海は浴衣を着た女性をエスコートした経験がないのだろうか。そうだと良い。七海にとって夏祭りを共にした初めての女性が、私であれば良い。懲りもせず自分本位な願望を拵えたところで、私は身勝手に気分が沈むはめになるし、七海に変な重荷を背負わせてしまうと分かっているのに、願いを星に乗せられずにはいられないのだ。
 偶々早くに任務が片付いて、近場で夏祭りが開かれていることを知って、ふたりで行けよと同期と先輩達に囃し立てられた。ふたりで赴くことになるまではまだ良しとしても、歌姫先輩からお下がりで貰った浴衣を何故か五条先輩に着付けて貰って(五条家のお坊ちゃんだと周囲にからかわれていたのに普通に上手だった)、硝子先輩に少しメイクを施して貰って、そんないかにも気合を入れましたという風体だからやっぱり気恥ずかしい。電車に揺られる間も、屋台を見て回る間も、七海はどこ吹く風で平然とした佇まいだったから余計に。恥ずかしがるどころか、寧ろ彼ははしゃぎ倒す夏の催しに相応しくない表情をしていた。額にいくつもの皺を寄せて、普段の険しい面持ちを何倍にも増幅させたような、背筋がひやっとする面持ちを織り成している。もしかして、もしかしなくとも、七海は楽しめていないのではないだろうか?
「……七海、何か怒ってる?」
 恐る恐る問い掛けてみると、七海は瞠目して、困惑した雰囲気を漂わせた。切れ長の瞳には憂いのような戸惑いのような光がちらついている。
「……駄々をこねる子どもみたいなことを言いますが、よろしいですか」
「……うん」
「浴衣が似合っているのに、五条さんに色めかして貰った姿というのが気に食わなくて言えませんでした」
「へっ?」
 神妙な切り出し方に身構えていたのに、飛び出てきた内容はあまりに些細で可愛らしいものだったから、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。気まずそうに七海は視線を泳がせている。反面、私の心境は嬉々とした感情が湧き上がり、心地よい感慨に浸っていた。
「七海、それって嫉妬?」
「…………とは少し違う気がしますが」
「ううん、嫉妬だよ。五条先輩への嫉妬。絶対嫉妬」
「分かりましたから連呼しないでください。気が狂いそうです」
 前のめりになって主張すると、七海は顔を顰めてあからさまにそっぽを向いた。気難しい顔をしていながら、私のことで頭がいっぱいだったと思うと、とても奥ゆかしくて愛おしい。
 背後で鼓膜を劈くほどの爆裂音が響き渡った。群衆の視線は一斉にそちらに向かって、各所から黄色い歓声が上がる。夏の風物詩が打ち上がり、その残照で七海の姿が照らされた。刹那の一瞬、色鮮やかに富んだ色彩に染められた七海の顔は、とても美しかった。
 みんな気付かないで欲しい。夜空に咲いて散っていく花火を見つめていて欲しい。
 打ち上げ花火よりもずっと高貴で清らかで愛おしい存在がそこに在ると、私だけが知っていれば良いと思った。