グリザイユの海と嘘
 夜の海を彷徨っているような心地だった。深くて暗い、広くて冷たい。そんな感覚が全身を染め上げていく。淀みない暗闇の水中を渡り歩いていくと、やがて一点の光明に出くわした。今にも闇に掻き消されてしまいそうなほど淡く揺らめいている金色の輝き。唯一の拠り所に手を伸ばすと、その手は空を切って光は跡形もなく消え去った。吐き出したあぶくと共に意識が打ち上げられ、そこで目を覚ます。気味の悪い異色な夢だったと現状を把握すると共に、隣で眠っていた筈の彼女がいないことに気が付いて、体温が染み付いたぬくいシーツから身体を起こした。
 寝室からわずかに室温の下がった廊下を抜けると、薄明かりの灯ったリビングに辿り着く。光源の真下に彼女はいた。はソファに腰を埋めながら、ぼんやりと焦点の合わない視線を俯かせている。ほっと胸を撫で下ろし、彼女の肩を優しく叩いた。
「……宜野座」
「眠れないか」
「……ちょっとだけ」
 振り向いたは、俺の姿に驚く素振りも見せず、ばつが悪そうに眉尻を下げて笑った。悪戯に失敗した子どものような、純粋の中に一匙の罪悪感を落とし込んだような笑みだ。普段なら無理にでもベッドに連れ戻しているところたが、今日の彼女はそれを望まないだろう、という漠然とした予感があった。だから、やむなしの妥協案を提示する。
「酒でも開けようか。親父の遺した良い物がある」
 その提案はにとって予想外だったらしい。丸こい瞳が緩徐に瞬く。目を点にして暫く呆けていた彼女だが、俺の目論見を察したのか、控えめにこくりと頷いた。
 キッチンの戸棚から熟成の赤ワインとワイングラスふたつを手に取り、再びリビングへと戻る。コルク栓を抜いて瓶を傾けると、濃厚なボルドーが注がれていく。水面を揺らしながら淡い煌めきを放つそれを、はまんじりと見つめていた。用意し終えてソファに座り、既にグラスを持って意気揚々と待機する彼女に向かい合う。
「かんぱ〜い」
 いつにもまして底抜けに明るい声が、乾杯の音頭を取った。グラスを寄せて、透明感のある金属音を打ち鳴らす。は勢いに任せて豪快に酒を呷り、注いだ半分近くを飲み干してしまった。思わず失笑混じりの溜息を零す。
「酒、強くないだろ。程々にしておいてくれよ」
「宜野座がいるから大丈夫」
「……」
 一体何をどうしたら大丈夫という発想になるんだ。そんな戯言を今更口にしたところで仕方がない。が俺に預ける信頼、眼差しに含まれる熱量、それらがどういう類のものか理解していないではなかったから。こめかみを軽く押さえながら、彼女に続くようにグラスに唇を寄せた。重厚な渋味が口内に染み込んで、程よい高揚感が胸に広がっていく。見ればも、舌鼓を打ってすっかり独特な風味の虜になっているようだ。珍しくしめやかな空間に佇みながら、彼女が酒気を帯びて微睡むのを待っていた。
 俺が飲み終える頃には、は重力によって落ちる目蓋に逆らおうと静寂な攻防戦を繰り広げていた。危なっかしく揺れる空のグラスを奪い取り、机上に置いて遠ざける。もう良い頃合いだろう。そう言葉を紡いで寝室に誘導しようとしたときだ。
「宜野座」
 歌ってもらった覚えはないが、想像上の子守唄を彷彿とさせる柔らかな響きだった。睡魔に侵されてとろんとした瞳が、それでも真っ直ぐに俺を射抜いてくる。胸騒ぎがした。血流が波立ち、どっと嵩を増すような錯覚を催す。が醸し出す柔和な雰囲気、その中に紛れ込む寂寞の気配を俺は見逃さなかった。
「私ね、結婚する」
 その一言を聴覚が捉えたとき、あの金色の光明が蘇った。底なしの深海で相見えた、不可思議な光源。あれが一体何を意味していたのか、何の前兆だったのか、ようやく思い知った。の左手の薬指、その整った爪先から根幹に辿ると見えてきたのはイエローゴールドの輝きだ。正体は一点の曇りもない光沢を帯びた指輪だった。シンプルなデザインだが、却ってその飾り気のなさが美しく洗練された黄金を際立たせている。あの夢の世界で出逢った光は、この指輪の輝きが無意識の内に網膜に焼き付いていたが故の産物だったのだろう。寝台の上で、幾度にも渡ってもみくちゃにしたの指に光っていた何かを認識したのがこの場だなんて、笑いが込み上げてくる始末だった。
 がどのような返答を期待しているのか。この報告を受けた俺に何を求めているのか。その疑問は建前だった。本当は分かっている。揺らめく黒目と震える睫毛が、その疑問の解を如実に物語っていた。ぐっと喉が引き締まる。胃に穴が開きそうなほどの痛みを覚える。
 ──それはできない。その返答だけは、どうしてもできない。
「おめでとう。良かったな」
 嘘を吐き出した。完全に、本心とは百八十度方向の異なる嘘。やっとの思いで舌に乗せることができた。虚偽を凝縮したその言葉を受けて、はひどく顔を歪めた。この世の終焉を悟ったような、後戻りできない道程を嘆き悲しむような、どうとでも捉えられる表情。けれどそこに詰まっているのは正しく悲哀だった。期待を裏切った俺に向ける感情が、憎悪ではなく悲嘆だという事実が、刃物となって心臓に突き刺さる。
「これっておめでたいこと?」
「それは、……そうだろう。シビュラに勧められた相手なら尚更だ」
「……」
 益々顔を曇らせたは、瞳に溢れんばかりの涙を溜め込んでいく。いつ決壊してもおかしくない双眸は痛々しくて、良心を責め立てられる。ここで目を背けたところで彼女の沸き立つ心情からも、幸福を約束された未来からも逃れることはできないと分かっているのに、止められなかった。身体を離して距離を取ろうとする。しかし、その行為は敢えなく妨害された。
 思い切り胸倉を掴まれて、に引き寄せられる。その力強さに反して、唇に触れた感触は柔らかく、優しかった。突如として訪れた触れ合いは、ものの数秒で終わりを迎える。
「……ばか、意気地なし」
 耳元で囁かれた罵倒に、かっと頭に血が昇る。湧き上がったのは憤怒ではない、欲望に追い縋る邪念のようなものだった。最後の砦を粉々に打ち壊されたような感覚に囚われながら、を押し倒す。シャツの隙間から覗く白い肌に目を眇めた。いつも当然のように暴いてきた身体が、真の純潔で穢してはならない人間側の存在だったのだと痛感する。すべてを見透かす神に──この国の唯一神であるシビュラに背くような倒錯的な境地を踏みしめながら、俺はの薬指から指輪を抜き取った。乱暴に放り投げた指輪は、行き場を失くして彷徨う迷子のように床を転がっていく。視界の端に居着いた金色の光を払いのけるように、彼女の額に唇を落とした。
 どうにもならない因果も、宿命も、そのすべてを深海に沈めるように、を抱いた。最後まで、彼女の望む答えを紡ぐことはできなかった。
 ──あの日の夜、言葉の形を成していないの矯声が、水に浮かぶ波紋のように脳内に広がって、徐々にその姿を消していく。それなのに、自分の名前を呼ぶ微かな声は、いつまでも鼓膜に染み込んでいる。


 半月後、は結婚した。シビュラによって定められた相手との結婚は、ちょっとやそっとの障害で崩壊することはないだろう。相手の勧めで監視官を退職することになり、彼女は清々しい笑顔で公安局を去った。俺に差し向けられた微笑も、周囲と微分も変わりない爽やかさと朗らかさを孕んでいた。当然だ。俺はあの日、彼女を引き留める手段を選ばなかった。の幸福、その一点を願っているならば最善の判断だったが、彼女の希望は蔑ろにしたも同然だったから。後腐れなく互いの人生を歩もうという、からの声なき言伝を確かに受け取って、俺も同様に笑顔を返した。
 今でもあの夢を見る。光の届かない海の底で巡り会えた唯一の煌めき。ふっと消え去る無常の儚さ。目を覚ましても、はもう隣にはいない。
「……行かないでくれ」
 吐き出した本音は、あぶくのように浮かび上がって霧散する。それを聞き届けた者は誰もいない。俺以外は知らない、秘密の譫言。
 と過ごす夜はもう来ない。彼女の迎える最後は、もう来ない。

2020/08/21