明けのまほらま
 衝撃は一瞬、なのに追随する痛みは永遠のように思われた。
 鳴り止まない銃声のひとつが私の脇腹を掠めたと気付いたのは、発砲音から随分経った後だ。肉片が焼け付くような強烈な衝撃。片腹に手を伸ばせば生温い液体で滑る感触。真っ赤に染まる掌を見て、一気に現実が押し寄せた。血の気が引いていく。蹌踉めく身体は意思に反して地面に叩きつけられた。まるで自分だけが世界から切り離されたように、響く爆音や荒れ狂う人の声が遠く離れていく。死ぬってこういうことなのか、と率直に感想を抱いた。死に直面する恐怖も感じた。けれど私の中の生きたいという望みは健在で、必死に延命する術を探している。瞼を閉じれば終焉だと分かっているから、何とか抉じ開けて藻掻いている。現実の光を求めている。
 それなのに、視界の端に愛した男の顔を見つけたとき、私は呆気なく瞑目してしまった。彼の焦りを孕んで名前を呼ぶ声が鼓膜にこびり付く。徐々に意識は暗闇に堕ちていき、やがて何も考えられなくなった。


 男は、健やかな顔をして眠る。
 美しく長い睫毛を指の腹で撫でると、こそばゆくて癖になる。照明の下、睫毛が影を作ることをこの男の寝顔によって初めて知った。子どものように気持ち良さげに眠る彼を何度か盗み見てはこの行為に及んでいる。ひどく安心できる瞬間だ。毎晩、彼が過去に取り憑かれ悪夢に脅かされていた日々を思うと、余計に。
 そこで、ぬっと伸びてきた腕に腰を抱かれてベッドに引き摺り込まれてしまった。傷だらけで逞しく、いくつもの筋が通る腕。紛れもなく今まで私が眺め耽っていた男のものだ。彼の香りと温もりが沁み込むシーツに身体を沈めれば、状況は把握できずとも心身共に安心しきってしまう。
 私の視界いっぱいに男の顔が広がる。先程までの様相とは異なり、鋭い瞳を強かに剝いている。騙されたのだと瞬時に悟った。
「……狸寝入りはよくないよ」
「勝手に寝てると思い込んでたのはそっちだろ」
「そりゃそうだけど。触ってもぴくりともしなかったから」
「死体のフリをする才能があるってことだ」
 笑えない冗談を口にした男は──慎也くんは腰に巻き付けていた腕を離し、代わりに私の左脇腹に右手を添えた。彼にしては珍しく、こわごわと撫でるような手付き。そこは何ヶ月も前の流れ弾によってできた銃創のあたりだ。生死の境を彷徨ったあの日は、九死に一生を得た日でもあった。とある国の政府率いる軍隊と反政府ゲリラによる紛争で荒れ果てた内地。そこで慎也くんは傭兵を引き受け戦場に駆り出され、彼に同伴していた私は後方部隊として援護に徹することになった。しかし背後に回り込んでいた敵軍との激しい交戦になり、戦火の渦に巻き込まれる中で被弾してしまった。以降の記憶は定かでないが、味方の迅速な応急手当によって一命を取り留めたらしい。一ヶ月近くは熱と痛みに魘されていたが、今ではそれも治まりすっかり元通りの身体に戻っている。それこそ当時はあんなに死が近くに迫っていたのに今となっては過去の情景で、傷を見てようやく思い出すくらいだ。ふとした瞬間にあの情景と恐怖がフラッシュバックすることもあるが、刹那的なもので、程なくすれば記憶の彼方に消し飛んでしまう。人間という生き物は恐ろしいまでに忘却機能に長けている。
 慎也くんはきれいな碧眼の奥に微睡みを灯していた。寝てはいなかったがどうやら眠気を催しているのは事実らしい。そう言えば、と彼の休息のためだけに用意されたこの部屋を訪れた理由を思い起こした。彼が眠るまでの子守唄代わりにその話をするにしては、少しばかり内容が重い。今にも眠りこけそうな慎也くんに罪悪感を抱きつつも、その用件を口にした。
「日本に戻るの?」
 瞬間、瞬きする速度が落ちた。ばつの悪そうに瞳を伏せる慎也くんに、私は確信した。遥か遠く海の向こうの閉ざされた楽園。私達の郷里の地に戻ることをようやく彼は決めたのだ。
 此処に来た理由は至極単純で、この話が真実か否かを確かめにきただけだ。花城さんからこの話題を耳にした時には心底驚いたけれど、狡噛慎也という男において、彼の人生においては当然の帰結なのかもしれない。日本という古巣で彼がやり残したことは数知れない。きっと、そう決断する運命だったのだ。
「……ああ、戻る。いつかはまだ決まってないが」
「そっか。良かったね」
「……良かったのか?」
「うん。人間行きたいとこに行って、したいことをするのが一番良いよ」
 慎也くんの決意を後押しするために紡いだ言葉だったが、何故か彼は額に皺を寄せてしまった。しかめっ面で黙秘を続ける彼は視線を私の片腹に泳がせる。途端、ひやりと沁みる冷気を感じた。見れば私が身に纏うアンダーウェアをひん剥き、露わになった創傷を凝視しているではないか。決して綺麗とは言い難いその創部をまじろぎもせず見つめている。その真意を、私は密かに察した。
「……後悔した。アンタが撃たれたとき」
「……どうして?」
「外に連れてくるべきじゃなかった。無理やりにでも日本に置いてくるべきだったと。少なくとも彼処は大衆に安寧が確約された理想郷だ」
「……そんなの、慎也くんのせいじゃない。私は自分の意思でこの道を選んだの。身勝手を貫いた、言うなれば自業自得」
 ──だから、置いてきた方が良かったなんて、言わないでよ。
 その言葉は喉奥で引っかかって、ついぞ音に乗せて紡がれることはなかった。じくじくと胸を刺すような痛みだけが後に残る。
 彼と共に宛のない旅をした。その道を選ぶか否かの岐路に立たされたとき、外の世界の実際を知らない私は何の考えなしに彼の手を取った。それが浅はかな選択で、予想を遥かに上回る凄惨な世界だったと知るのはもっと後の話だ。彼を追い掛けて此処まで来た。そのことに後悔なんてある筈がない。ただひとりの愛した男と、生涯を共にしたいと願ってしまった。浅慮な自分の身勝手を許してくれた彼に、私の行動まで責任を負わせるのは業が深い。彼の旅すがらにのこのこ付いて来た身で何様ではあるが、彼には何の気兼ねもなく自分の思うように進んで欲しかった。そこが天国でも地獄でも、最底辺にだって私は付き合う所存だ。
 そこまで考えて私は彼の手に自分の手を重ね合わせた。触れた肌を通して、私の思いが少しでも彼に届くように。彼の揃いの睫毛が確かに震えたような気がした。
「日本に戻るのは、私のせい?」
「いいや、それも加味しての結論。判断材料のひとつだ」
 私が気負わないようにか、言葉を濁した彼のぶっきらぼうな優しさ。目には見えないけどいつだってそこにある。じわりと心に沁み渡っていくのが分かった。少しだけ気が楽になって、安堵で顔が綻ぶ。
「そう。優しいね、慎也くんは」
「……その優しさとやらでいつか俺は自分の首を絞めるだろうな」
「そういうこと言わないで。馬鹿」
 彼の不謹慎さを諌めるように、額を寄せてこつんと軽く触れ合わせた。鼻先が触れるか触れないかくらい近しい距離。平静を装ってはいるものの気持ちは波立つばかりだ。心臓の跳ね上がる音が聞こえてしまわないかと不安になって、息を凝らす。その様子を面白おかしく捉えたのか、慎也くんは目を細めてくつくつと喉を鳴らした。彼が笑みを零すこと、これ以上に希少価値の高い事象にはそう相見えないだろう。
「……一緒に寝ていい?」
 自然、口から零れ落ちる。普段から甘えるという行為を片手で数えられる程度しかしてこなかったので、当然慎也くんは目をひん剥き、次いで呆れ顔で溜息を洩らした。わずかに脇腹に触れる手に力が込もったような気さえする。
「駄目だ」
「な、なんで」
「俺は構わないが……明日足腰が立たなくなって困るのはそっちだぞ」
 断られた理由に一瞬呆気に取られるが、すぐに意味を理解して勢いよく起き上がった。顔の中央に熱が集ってゆく。鏡を見ずとも分かる己の赤面具合に、更に羞恥も募ってゆく。加えて彼は満足げな表情で起き上がるものだから、余計に何も言えず閉口してしまう。
 この男の明け透けな物言いはいつものことだが、このように突然衝撃的な発言で周囲を翻弄させるのは彼の悪い癖だ。今だって深い意味はないだろうに、自分の現金な頭では愛されていると自惚れてしまう。悔しいけれど慎也くんを前にすれば、私はいつだって完敗なのだ。
「か、帰る」
「そうしろ。明日も早い」
「……慎也くんのばか、すけべ、おたんこなす」
「子どもか」
 帰ると言っても慎也くんとは同じ軒下で寝食を共にしているため自室に戻るだけなのだが、これ以上は同じ空気を吸うのも限界だった。自分で撒いた種を刈り取らない無責任さを自覚しつつ、そそくさと退散を決め込む。ベッドから降りて扉に向かう途中、不意に後方から名前を呼ばれる。「」と、耳に馴染む低音が慎也くんの発する声だとすぐに認識した。徐に振り返る。彼はベッドの端に腰掛けて、机の上に乱雑に置かれていた文庫本のひとつを手に取り繙いている。世間話でもするように、暇潰しの四方山話でもするように、瞳を他方に向けて口を開いた。
「日本に戻っても状況が好転するとは限らない。下手を打てば死ぬまで外務省の奴隷かもしれない」
「……だから、私には此処に残れって?」
「いいや、違うね」
 そう言って、彼の視線は文庫本から私に移ろいだ。碧色の色彩で彩られた瞳。野蛮な獣を隠し持つのに、同時に知性や英知も宿している。不思議なひとみだ。
「それでも、俺に付いて来いと言っている」
 その一言が、恐らく、今日日慎也くんが本に言いたいことだった。
 彼は矛盾している。外の世界へ赴くことに選択を投げかけておきながら、戻るときには私に選択の余地を与えない。この有無を言わさない瞳に捉えられれば頷くことしかできないと分かっているだろうに、ああ、なんてひどい男なのだろう。けれど私は、狡噛慎也のそういう部分も引っくるめて愛しているのだった。惚れた弱みというやつだ。
 胸中を渦巻く様々な感情が私の対話能力を収奪してしまったかの如く、何も言葉が出てこず、ただ頷くだけに終わってしまった。きっと慎也くんのことだから、私の感情の移ろぎなど手に取るように把握しているのだろう。だからか、私の無味な反応にも全て察したかのように瞳孔だけで頷き、再び文庫本に目を落としてしまった。その様子を一瞥して、ようやく退室する。
 彼の部屋の扉にもたれ掛かり、目を閉じた。私の中でとぐろを巻く感情の数々。その中でも特に多くを占めているのは、やはり喜びだった。狡噛慎也という男が私を求めてくれている。それは私の人生の、限りなくベストに近いアンサーだった。
 地の果てまで慎也くんに寄り添うことができるなら、それを彼も望んでいるのなら、私という生は存分に謳歌されている。この先もきっと、私の光は彼以外には見当たらない。

2019/04/06