Beautiful Tears
このおはなしはシビュラ崩壊後の日本を舞台にしたif設定のおはなしです。崩壊の経緯やその後については書き手の力量不足ゆえにかなりぼかしています。3期開始以前に構想を練っていたため、3期設定や外務省について全く触れていません。以上が許容できる方のみご閲覧をお願いします。

00

 その日、シビュラシステムは崩壊した。
 世界は一変した。シビュラの非道徳的なシステム構築によって整備されていた社会制度──人間の脳から深層心理を追求することで具現化できていた犯罪係数は撤廃され、潜在犯という隔たりもなくなった。自然、執行官という職業も廃止された。昔ながらの司法制度が復旧し、監視官と執行官は刑事として統括された。包括的な社会管理システムとして常に発展の一途を辿ってきたシビュラシステムが、ここに来て初めて衰退の兆しを見せることとなった。
 平和と秩序を保つために公平性を期していた筈のシステムの裏側が暴かれ、世間に公表されたとき、少なからず余波はあった。非人道的な運用や実態に拒否反応を示す者、シビュラの志向を狂気じみた宗教信仰者が如く崇め奉ろうとする者、どちらの派閥に属することもなく世間の波に飲まれる者──国民の反応は実に様々であった。極端な抵抗を示す者の中には、いつぞやの事件のように人々を駆り立て暴動を起こす者も出てきた。しかし、人間の脳を基盤としたシステムを全て破棄すること、またシステムの廃止に際して、旧時代の司法制度を現代の日本に即して組み直し活用すると即時に発表したことで、暴動は急激な勢いで収束へと向かった。当時と比較しても暴動による死者や怪我人は圧倒的に少なく済み、公表後は増加傾向にあった犯罪発生率も収束と共に鎮火し、現在は驚くべき低空飛行で横ばいに推移している。事実を公表するにあたって念入りに、用意周到に段取りが進められたことが功を奏した所以であった。
 この成し遂げられた戦果は、ただ事実として後世に語られる以上に、日本史に一文が刻まれる以上に価値のある戦果であった。世界紛争による低迷と混沌の渦中にいた日本を立て直したのは他でもないシビュラシステムであり、例えシステムの構造が人倫に反したものであっても、シビュラなくして安寧を維持することは不可能だった。だからこそ、真実を知った者は己の倫理観と民の平穏を天秤に掛け、後者を選び続けてきた。シビュラの恩寵なしに形作られる社会をどうしても想像できなかったから。そうした思考停止の肯定がシビュラの勝手を増長させ、破滅の道を突き進んでいると分かっていても、連れ立った国民を薙ぎ払うことなど誰にもできやしなかった。──その筈だった。シビュラにとって誤算だったのは、真実を知っても尚、より良い社会の構築を諦めず思考し続けてきた者がいること。そしてもうひとつは、シビュラと相性の悪い者が相応の力を付けて舞い戻ってきたことだ。常守朱は、シビュラを失っても日本を立ち直せるだけの新制度の確立に尽力を注いだ。そして、彼女の実行の火付け役であり、シビュラの電源を落とす役割を買って出た男がいた。どちらか一方でも欠けていればこの戦果は成し得なかった。国民がついぞ知ることのなかった、改革の立役者である。
 いつしか、暗夜に覆われていた日本の帳は、開かれていた。
 夢はいつかは醒める。明けない夜がないように、醒めない夢もない。当たり前に気付くことは容易ではない。殊更この世界では、偽りで固められた邪神こそが全てだと錯覚してしまう。人間という種族が唯一持ち得る思考という概念を放棄してしまうのだ。──しかし、しかしだ。そんな紛い物の安寧を齎された世界でも、幻惑に惑わされない者は、確かに存在したのだ。


01

 白、白、白。見渡す限りの白。思わず目を眇める。清潔感を超越した、一塵の緊迫感や閉塞感が迸る異質な空間。この部屋はオフホワイトの内壁で四方を囲まれ、中央をガラス張りの板で分断されており、ガラスを挟んで向かい合うようにパイプ椅子が配置されている。極めてシンプルな作りで、限定的な用途を最低限果たすことができる構造だ。
 は室内を占有する重苦しい空気を肺いっぱいに吸い込み、ゆっくり吐いた。腰掛けているパイプ椅子は年季物なのか軋みが激しい。不快な金属音が部屋に響く度、の心音も比例して大きくなった。柄でもない緊張を解すため、手の甲を抓って痛覚を刺激するも、手応えはあまり掴めなかった。
 そうこうしている内に、向かいの扉が開いた。入室してきたのはひとりの男だ。の見知った顔だった。
 衣服越しでも分かる無駄のない肉体と、僅かな露出からでも窺える風化した傷跡は、男が潜り抜けてきた戦場の数々を嫌でも彷彿とさせる。男はの顔を一瞥すると、無表情を崩すことなく向こう側に置かれたパイプ椅子に腰掛けた。滲み出る野蛮な雰囲気とは対照的に、男の佇まいや所作は一本芯が通ったように折り目正しい。相反するふたつが共存する奇妙な生き物の成因を、はよく知っていた。男が経験してきた軍場は、鼓膜を引き裂く銃声と悲鳴じみた鬨の声が飛び交う地獄の荒れ地だけではない。彼が元来歩みを進めていた道は選りすぐりの精鋭達だけが歩める、未来の約束された出世街道だった。親からの愛情と教育に恵まれて育った彼は、道を外れた後でも内なる部分に根付いた本質を見失わなかったのだろう。そういう性分であることをは云年も前から熟知していたし、理解していた。
 にとって、男は──狡噛慎也は元同僚であり、元部下であり、そして勝手知ったる旧友だった。
 過去形で称したのには理由があった。現在もは古き友と捉えているが、狡噛との別離から随分と月日が流れている。そして今日になってようやく、帰国した狡噛と顔を合わせる運びとなったのだ。は狡噛と最後に言葉を交わした日を遠い昔のように感じていた。友人と形容するには今の狡噛を知らなさすぎる。故に、照れ臭い。ただそれだけであった。だから、外面も内面も変わらない狡噛を一目見て、己の恥じらいが杞憂であると悟った。この男はどうしたって変わらない。その事実がの中を渦巻いていた不安や緊張を解きほぐしていた。自然と笑いも吹き溢れる。己が笑いものにされている現状を狡噛は察していたが、得意の仏頂面を固持し続けた。その態度を満更でもないのだと受け取って、は容赦なく腹を抱え続けた。暫くして狡噛の呆れた視線を肌で感じる頃には、笑いも収まっていた。改めて居住まいを正し、狡噛が来るまで何度も思案を繰り返していた挨拶を口にする。から紡がれた言葉は、ふたりの間に横たわっていた空気に思いの外馴染んだ。
「久しぶりだね。お元気そうで」
「そっちもな。良い年の食い方したんじゃないか」
「ええ……、それ褒めてる? けなしてる?」
「褒めてる」
「女の褒め方下手すぎでしょ」
 相も変わらずぶっきらぼうで、本気か否かの判断が付け辛い言動だ。けれど、会話の内容とは裏腹には高揚していた。久方ぶりの淡泊で抑揚のない声は、狡噛の姿かたちを視覚で捉えるとはまた別に、狡噛が生きて此処にいる実感を如実に齎してくれる。はそれが何より嬉しかった。感動すら覚えた。彼は今でこそ帰国し、殺風景で異質なこの空間に留まることを良しとしているが、数カ月前までは安否を問うことすらできない放浪者の身であった。それらを顧みれば、この瞬間がどれ程貴重で感慨深い瞬間であるかは自ずと分かる。ただ、友人との再会で過度に沸き立つような女だと知れるのは本意でなかったため、は聢と表情筋を引き締め直した。狡噛との面会はお遊びでもなければ生死の確認でもない。れっきとした仕事だった。
 狡噛という男を手っ取り早く語るには、究極の二択を迫られるとは思っている。──逃亡犯か、英雄か。そのどちらかだ。はどちらも、という表現が適切だと知悉しているが、彼が今後語られるとすれば後者なのだという予感もある。そうであって欲しい、という私情を挟んでいることも否めない。
 狡噛は、宿敵であり人生を掛けて追い詰めた槙島を殺害後、海外に逃亡した。向こう側での様子は、ある事件に際して狡噛と接触した同僚や後輩から伺っただけで、本人がついぞ彼と邂逅する機会は訪れなかった。あれから数年の時が経ち、狡噛は再び日本へ舞い戻った。誰にも成し得なかったシビュラシステムの完全停止を目論み、実際に行動に移してみせた。ただ感情に任せただけの行き当たりばったりな行動ではない。少なからず狡噛は日本の将来を見据え、信頼できるもう一人の協力者──常守朱に後の段取りや支援を仰いでから事に及んだ。何も知らない国民からすれば日本を混乱に陥れるための計画的犯行と捉えられかねない。だが、常守の迅速な対応と新制度の確立によって、混乱は最小限に留められた。今はまだ、狡噛は一部の猛烈な批判を一身に受ける名もなき計画犯である。しかし、秩序と安寧の指針を失った国民達が、自らの意思を指針として己の進む道を決定できるようになったとき、彼は名もなき英雄として認められるのだろう。本人はきっと嫌がるだろうな、と不貞腐れた表情で峻拒する狡噛を想像した。は狡噛に訪れるであろう近い未来に敢えて言及しないことにした。
 現在、狡噛は勾留中の身である。シビュラシステムの停止を差し引いても、槙島殺害の件の追及は免れなかった。これに関しても常守が心血を注いで酌量を提言し、刑罰を科されることなく、拘置措置のみに留まることになった。優秀な刑事であり、魂の弟子とも言える常守に、狡噛はもっと感謝すべきだと思った。彼女なくしては狡噛の身の保証はどこにもなかったのだから。彼は程なくして釈放される。しかし、その間の出来事を知らないままでいるわけにもいかない。狡噛は解放後も再び国民のために身を投げ打って行動するだろう。元来そういう男だ。そこで最低限、世間の動向や反応を知っておくべきだと判断され、派遣されたのがだった。公安局は暴動の取締で一時期多忙を極めていたが、今は比較的落ち着いている。隙間を縫って捻出されたこの時間に、狡噛に伝えておくべき事柄は山のようにあった。面会時間の制限も考えれば、悠長に思い出話に花を咲かせる余裕はないだろう。左手首の端末を起動し、予め入手しておいた資料を映し出す。狡噛は面会の目的に察しがついたのか、ホログラム化された情報にざっと目を通していった。は説明するまでもないと、開きかけていた唇を結んだ。この件に限って言えば、狡噛は事件の当事者で、はその他大勢と同じく蚊帳の外だ。事後処理に携わっただけである。付言する余地もないだろうと、はそう判断した。
 狡噛が目を通し終えたことを確認すると、は目配せで見解を求めた。ここまでがこの限られた時間における、彼女の仕事であり役割であった。
「俺から監視官──いや、常守に言うことはない。この調子なら遅かれ早かれ新制度も認められるだろう」
「そう。シビュラ廃止に対しては賛否両論みたいだけど」
「予想より批判は少ない。自分の信ずる指針がなくなって批判しているなら、無関心よりは十分価値がある」
「どうして?」
「自分で考えて行動しているからだ。そういう奴らは、本気でこの国のために動いている常守達の存在に自ずと気付くだろうさ」
 国民を信じ切った狡噛の発言には、歯の浮くような感覚が過ぎらなくもないが、自分に厳しく他人に優しくしてこそ狡噛慎也なのだとも思う。根っからの甘ちゃんだ。は狡噛の意見に否定も肯定もしなかった。誰の意見にも左右されず、そのまま自分を貫けば良い。漠然とそう思ったからだ。
 静かに端末の電源を切り、重い腰を上げた。狡噛は微動だにせず、目線だけでを追う。濁りのない瞳は地平線の向こう側から、果てにの心境まで、すべてを見透かしているように思えてならない。面白くもないの帰り支度を眺める彼は、退屈そうに欠伸を洩らした。私用の外套を羽織り、スヌードを巻いて防寒対策を万全に終えたは、最後の挨拶がてら狡噛に向き直った。
「何か欲しい物ある? 公安で申請できるけど」
「いや、いい。此処の規制も緩くなった。それに、もうすぐ出られるんだろ」
「予定ではね。朱ちゃん頑張ってくれてるから、次会ったらお礼言いなよ」
「……ああ、そうする」
 冗談混じりの御小言に狡噛はばつが悪そうな顔を浮かべて、了承した。何だかんだで常守の身を案じているのだろう。己の奔放さを顧みる良い機会だとは内心ほくそ笑んだ。
 限られた時間ではあったが、狡噛と相対する機会に巡り合えたことはに大きな意味を齎した。知己との会話を、できることなら堅苦しい話題を抜きして楽しみたかったが、それはまたの機会に持ち越しだ。次に休暇を取れたときには、既に彼は釈放され、伸び伸びとやっていることだろう。散々気を揉まされたので、飲みに行くときは奢らせてやろうとも思う。外の世界に飛び出した男の語りぐさを肴に飲み明かすのも、きっと悪くない。
 「じゃあね」と短い挨拶と共に手をひらひらと振り、後方の扉を目指して歩を進める。パンプスが床を叩く音だけが響いていたが、間もなくしてそれもなくなった。は自動扉の前で顔認証を終えると、その足取りのまま扉の縁を跨いだ。
「幸せになれよ」
 だから、狡噛の小さな呟きがまさか自身に向けられたものだとは思い及ばず、その事実を認識するのに時間を要した。脳内で反芻される言葉の意味を理解したは、はっと振り返る。しかし時既に遅し。扉は閉め切られていて、中の様子を確認することは不可能だった。結局は心に覆い被さった靄を払うことができないまま、踵を返して正面出口に向かった。
 一体いつ、誰に、どのようにして知らされたのだろう。は今日の会話の流れを思い返し、自分の言動に何一つ落ち度はなかったことを確認して、安堵した。浮かび上がった疑問に対する正答をは持ち合わせていない。しかし、彼の発言は挑発するでも揶揄するでもなく、純粋な本心から成るものだろう。確証はないが確信はあった。狡噛は恋愛に纏わる与太話に精を出すタイプの人間ではない。どこかしらで得た事実を切り出すべきか、迷いに迷ってのあの発言だったのかもしれない。腑に落ちないが、今は何も言わずその厚意を受け取っておくことにする。
 潜在犯隔離施設──改め収容施設から抜け出ると、辺りはすっかり夕焼け色に染まっていた。日没はすぐそこだ。夜が更けるにつれて厳しさが見込まれる冬の極寒を想像して、辟易とした。は露出した手をコートのポケットに押し入れる。明確に訪れる温もりが、肌に浸透していった。


02

 は地下駐車場の端に停めていた自家用車に乗り込んだ。行き先を指定すると、程なくしてエンジンがかかり発車する。自動運転化された車両は昔ほど綿密な操作を必要としないため、意識が散漫になりがちだ。車体の揺れがの疲弊した身体に心地よく、眠気を催し始める。移ろい行く街の景色を車窓から眺め、徐々に瞼が重くなるのを感じていた。
 の今日の予定は目白押しだった。第二当直勤務に始まり、勤務明けのシャワーと仮眠を取ってすぐに狡噛の元を訪ね、再び公安局に戻って報告書を作成した。再度街に繰り出す頃にはすっかり闇が立ち込め、暗幕を落としたような夜が広がっていた。本来なら後は家路につき、温かな食事をして湯を浴びて普遍的な一日を終える筈だった。しかし、今夜は目白押しの中でも更なるメインイベントが待ち構えている。最後のひと踏ん張りとばかりに疲労の積み重なった身体に鞭を打ち、車に乗り込んだのだった。
 国道から一本外れた脇道を通りながら、目的地へと車を走らせる。行けども見えて来ない目的地に焦りと苛立ちを覚えるが、ホログラム化された地図と示された現在地を照らし合わせると、着実に近付いてはいるようだ。
 ──早く会いたい。
 そんな少女漫画の主人公みたいな欲求が、の胸の内でずっととぐろを巻いている。彼女の意思とは正反対に、車両は一向に速くなる気配がない。安全性や利便性と引き換えに運転手の意思を介入させられない仕様なので当然ではあるが、このときばかりは発展し続けた社会を恨めしく思った。
 ようやく目的地に辿り着いた頃には、待ち合わせの時刻を後数分で迎えるという頃合いだった。都内に聳え立つ高層ビルの一角を占めるこの高級ホテルは、平日だと言うのに人の出入りが少なくない。しかも、どの客も皆ホテルのランクや内装に相応しい出で立ちをしている。今日このホテルを予約した本人からはドレスコードの指定を窺っていなかったためは油断していたが、彼女の格好は仕事帰りそのものだ。ホテルと言えどもビジネスホテルとはあまりに用途が乖離している。他の客の視線を気にして、はそそくさとホテル内を急いだ。多数が淑やかに賑わいを見せるロビーで先方を発見すると、は縺れそうになっていた足の速度を落とした。後方から肩を叩くと、青碧の透き通った双眸がを見上げた。
「ごめん、遅くなった」
「いや、時間丁度だ。お疲れさま」
 の待ち合わせ相手である宜野座は、彼女の姿を目視して、優しく労いの言葉を掛けた。宜野座はの予定の盛り込み具合を把握していたため、むしろこちらが申し訳ないと心苦しそうに眉根を寄せている。その優しさを全身で噛み締めながら、は問題ないと笑った。
「それよりスーツのまま来ちゃったんだけど、やばいよね?」
「部屋を取ってあるから大丈夫だ」
「あ、そうなの? ご飯はルームサービス?」
「ああ。さすがに天然食材は扱ってないみたいだが、そこそこ評判は良いらしい」
「やった。私もうお腹ペコペコ」
 既に宜野座がチェックインを済ませており、用意された部屋へと足取りを進めた。敷き詰められた赤絨毯や、通路に飾られた絵画や彫刻から、そこらのホテルとは一線を画していることはの素人目にもすぐ分かった。明らかに値の張る名品が揃えられた、贅沢を押し詰めたような空間だ。このような場所と縁も所縁もなく生きてきたは、物珍しさにあちこちに視線を泳がせた。対して宜野座は堂々たる態度を依然として崩さない。むしろ顔立ちや背格好の美しさは、この高級感に満ちた空間でも浮かないどころか絶妙に噛み合っている。絵になるとは正しくこのことなのだろうと、は宜野座を盗み見ながら思った。
 到着した部屋にカードキーを翳して入り込むと、予想以上の光景が広がっていた。広々とした造りのスイートルー厶で、ライトベージュを基調とした落ち着いた色合いで構成されている。上品な装飾品と洗練されたデザインで彩られた部屋の奥は、都内を一望できる大窓が設置されており、ぽつぽつと明かりの灯る絶景を見渡すことができる。最上級のスイートルームであることに間違いはない。は思わず素っ頓狂な声を上げて、次いで子どものようにはしゃぎ回った。宜野座はその様子にほっと胸をなで下ろしていた。
「すごい! こんなに良い部屋取って貰っちゃって良かったの?」
「ああ。喜んでもらえたようで何よりだ」
「もう最高の気分。ありがとね、宜野座」
 仕事の疲労は何処へやら。は湧き上がる好奇心の赴くままに、部屋のあらゆる箇所を物色し始めた。新たな発見の度に「宜野座! これ!」と宜野座を呼び寄せ、未知のものを分かち合っていると、あっという間に時間が過ぎていった。
 宜野座の計らいでは先にシャワーを済ませた。バスルームも例に漏れず広く上質な造形で彼女の心を踊らせたが、後に待つ宜野座を考慮して早々にバスローブに着替えて飛び出た。宜野座もシャワーを終えた頃には、先に頼んで置いた食事の数々が机上に広げられていた。鮮やかに盛り付けられた料理は、見たことのないカタカナで形容されたものばかりである。恐る恐るスプーンで掬い上げ、口に運ぶ。上品でいて馴染み深い味わいに、は思わず舌鼓を打った。じわりと広がる美味を噛み締めながら宜野座に視線を遣ると、彼もまた同様に美味しそうに咀嚼していた。ハイパーオーツによる食物とは信じがたい。どちらかと言うと、天然食材を調理した風味や味に近いくらいで、好みの味だった。料理上手な昔の部下が頭の片隅を過ったのは、きっとだけではないだろう。食事を頬張りながらそう確信した。
 料理を平らげた後は、折角だからとワインボトルといくつかのおつまみを頼んで、大窓の縁で佇んでいた。緑がかった黄色のワインは、酸味より爽やかな味わいが強く、飲みやすい。カマンベールチーズやビターチョコレートを取る手は止まらず、酒もぐいぐい進む。はいつになく酔いが回っていた。勿論、相手が誰彼構わず飲むわけではない。隣にいるのが宜野座だからだ。安心と信頼と、後はもう言わずもがな。男女二人で合意の上でホテルにいる以上、互いが抱く感情の名前は分かり切ったことだ。
 宜野座も同様にワインを飲み進めていたが、は広がる夜景に目を向けていたのに対し、彼の視線は一点にのみ注がれていた。さすがに彼女も熱の灯った眼差しに気が付かない程鈍感ではない。ワイングラスをゆるゆると揺らしながら、宜野座にその真意を問うた。
「……そんなに見つめられると、穴が開きそうなんですが」
「すまない。嫌だったか?」
「単純に恥ずかしい。すっぴんだし。見てて楽しくもないでしょ」
「むしろこれ以上に楽しめる何かを探す方が難しいな」
 ──ほら、すぐこういうこと言う。
 顔から火が出る程恥ずかしい科白を、至極当然だとでも言うように宣うものだから、はいつだって宜野座に敗北した気になる。頬を掌で包み込めば、尋常でない熱を感じ取れる。アルコールだけのせいではないのは明白だ。
 結局はぐらかされてしまったが、これ以上叩けど埃は出ないだろう。特に意味などないのかもしれない。今日だって、片方の誕生日でもなければ何かの記念日でもない。大々的に部屋で食事を摂り寝泊まることを宜野座はに隠し立てていたが、これも単なる思い付きなのかもしれない。宜野座が潜在犯というレッテルを剥がされ、自由の身となったのはつい最近のことだ。今まで成し得なかったことを、といった彼のちょっとした発想だとしても、十分納得がいく。例え思い付きだとしても、にとって初めてで埋め尽くされた夜を準備した宜野座の労力が、何より嬉しかった。同時に、これだけの素敵な夜を体験した日の翌朝は、少し怖くもある。
「……やだな。帰りたくない」
「今日は帰らなくて良いんだぞ」
「そうじゃなくて。こんな体験しちゃったら現実に戻りたくなくなるよ」
「今も現実だろう。頬でも抓ってやろうか」
「……宜野座、分かってて言ってるよね?」
「はは、悪い。それだけ楽しんでくれたなら、俺も遣り甲斐があったと思ってな」
 ワイングラスに唇を近付けながらそう呟く宜野座に、円熟した色気を感じて、は僅かに高揚した。これも分かっててやっているなら相当質が悪いと思うが、こればかりは彼の天然だろうな、とは思った。ぐいとワインを飲み干し、最後のつまみを口にする。
 時刻も、もう日付を跨ごうかという夜更けの時刻だ。
 部屋に入ったときと比べると、闇に浮かぶ光の数は極端に減っている。それでも諸外国よりは遥かに明るい。この明かりの元、それぞれに生活や人生があって、それぞれ謳歌していると思うと、ちっぽけな光でもひとつひとつが大切な灯火だ。はこれからも、刑事として、この灯火を守っていきたいと思う。きっと隣の宜野座も同じ思いでいてくれるだろう。
「話があるんだが」
 ローテーブルにグラスを置いたのと、真剣な声色のそれが鼓膜を揺すったのはほぼ同時だった。
 感慨に耽っていたは、程よく酔い痴れていたこともあって、少し反応が遅れた。「うん」と短く返事をして話の続きを促すと、宜野座は瞼を閉じて、暫くして再び開いた。真正面から直接浴びる彼の視線は、今のには眩かった。くらくらと、頭の芯が溶けそうになる。
「正直、今はまだ早い気もする。落ち着いたとは言え世間は未だ嵐の中だしな」
「……なになに? 勿体ぶるね?」
「急かすな。これでも緊張してるんだぞ」
 何を、とは開きかけた唇は、既の所で静止した。
 宜野座が取り出したものを一目見て、ようやくは今日という日の意味を理解した。
 今夜は単なる思い付きであっても、その思い付きはにも宜野座にも、後の人生を大きく変える第一歩となった。まるで想像していなかった未来を、はここに来て一気に思い描くことになった。
 自然に、あたたかい雫が頬を伝い落ちていく。大粒の涙がの目の縁から溢れ出てゆくの見て、宜野座はぎょっと目を瞠った。ぼろぼろと堰を切ったように流れる涙に、宜野座はひどく狼狽えたが、震える指先で彼女の涙を拭った。
「まだ何も言ってないぞ。泣くのは早いんじゃないか」
「うう、ごめん……」
「冗談だ。落ち着いてからにしよう」
 宜野座はの背中を優しく撫でるも、は首を横に振り、目線で続きを催促した。強情な彼女の姿に、宜野座は困ったように笑った。今は何も強がる必要はないのに。けれど、そういう強かさもを愛おしく思う要因であるとも思う。宜野座は彼女の言葉に甘えて、準備してきた代物を彼女の目の前に差し出した。品のあるグレーの小箱だ。開けると、金色に光る輪っかが見えた。照明を反射して、きらりと輝きを増す。指輪だった。凝った装飾やデザインはなくシンプルな造りだが、中央部に嵌め込まれたダイヤは原初の輝きを放っている。
「結婚しよう」
 更に紡がれた言葉は、紛れもなく、プロポーズだった。
「未来がどうなるかは分からない。俺は潜在犯でなくなって、自由になったこの先を何一つとして知らない」
「うん、うん……」
「でも、貴方を幸せにする自信だけはある。誓って約束する」
「うん、宜野座、私も。私も貴方を幸せにしたい」
 宜野座はの左手を手に取ると、細っこい薬指にその指輪を通した。指輪は、の白い肌によく馴染んだ。相応しい所在地を見つけて、光沢がより一層艶めきを増したように感じる。
 ようやく泣き止んだは、鼻を啜りながらへらりと笑った。両目の縁はすっかり赤くなっている。プロポーズに先走って涙を流すを思い返して、宜野座は少しだけ笑った。
「やっぱりオシャレすれば良かったな。折角だし、宜野座の記憶に残っても恥ずかしくないような顔でいたかった」
「そうか? すっぴんでも泣いてても十分かわいい」
「……そういうとこ!」
 は宜野座の天然にダメ出しを加えるが、もう諦めているようなものだった。それに、決して嫌なわけではない。好きなひとから出る褒め言葉が、嬉しくない筈がない。は己の羞恥を隠すように、宜野座の皮膚をくすぐった。彼からの反抗もあり、次第に互いが触れる肌の面積は広くなり、深くなる。気付けばはベッドの上で、宜野座を見上げていた。電気も落とされ、営みの灯火がまたひとつ姿を消した。
 肌をまさぐられる感覚に、冷めやらぬ興奮で背筋が震える。唇どうしが触れ合う感覚に、心にも身体にも熱が巣食う。舌を絡ませ合う感覚に、脳天が揺さぶられたように何も考えられなくなる。
 ずっとずっとこうしていたい。の希った一縷の望みは、ようやく叶えられる。夜が明けて、朝が来ようとも、彼は隣にいる。それが約束されている。これ以上の幸せがあるだろうか。
 の掌が、宜野座の左手を滑った。無機質で冷たい義手。できる限りの身体にくっつかないよう配慮してくれているその手を、は自分から掴みにいった。左手首に、常に纏わりついていた端末の存在は認められない。宜野座が自由になった証だ。彼を戒めていた縛りは消え、解放されたという事実に直面して、は何だか泣きそうになった。縋るようにして宜野座の首に腕を回す。宜野座の身体の重みが増して、互いの隙間を埋めるように抱き締め合った。境界線が滲んで溶けていく。ふたりの体温がひとつになる。それだけで十分だった。この瞬間が永遠で、永遠を誓った幸せがここにあることを、も宜野座も知っている。この世に又とない幸福を、夜明けが来るまでふたりで分かち合った。

2019/11/21