farthest garden
 ──いつだって、怖くなる。
 は形容しがたい恐怖に身を震わせる。身の毛もよだつ体験とは正しくこのことだと思った。彼女をかたち作る細胞すべてが恐怖に慄いている。わななく心臓と、背中をつうっと伝う冷や汗。徐々に現実を理解していく。落ち着きを取り戻し始めたは再び床につき、そっと目を瞑った。光のない世界で恐怖に怯えながら、彼女はまた眠りに就く。
 は夢を見る。それは悪夢と言っても差し支えない程に、残忍で無慈悲で惨たらしい夢。布団に潜り込んだときからの地続きのように重たい瞼を開けば、彼女の目の前に広がるのは薄暗い廃棄区画の路地裏だ。音も光も外界から遮られ届くことはない。奈落の底のように暗鬱な異世界。彼女はいつものように麻酔銃を握りしめている。高い犯罪係数を示す者達の取り締まりを生業とするにとって、廃棄区画も麻酔銃も日常の範囲内だ。──けれど、視界の端にあるものを捉えたとき、とてもじゃないがは平常心を保ってなどいられなかった。いつの間にか殺人銃に切り替わっていたドミネーターがの手から滑り落ちる。震えが止まらない。覚束ない足取りでそれに近付いていく。
「ぎの、ざ」
 彼女にとって何より大切なひと──血塗れの宜野座がそこにいた。壁に寄りかかり座り込んでいる姿は明らかに消耗しており、皮膚も青白い。粘性の鮮紅色がどろりと溢れ出し、の足元にまで広がっている。流出元は辿ればすぐに分かった。右足の付け根から下、本来あるべき下腿部がごっそりと失われている。こんな、普通ならあり得ない喪失を可能にする手段は一つしかなかった。は自分の辿ってきた道筋を振り返る。放ってきたドミネーターは管理者の手元を離れたにも関わらず、殺人銃のままで状態で固定され、異質な碧の光を灯している。彼女は職業柄、周囲の状況から事件の真相を解明することに長けてきた。その長年の勘が荒々しく警告音を発する。
 ──おかしいじゃないか。だって、この状況では宜野座を撃ったのはどうみても──
「お前は……貴女は、正しい判断をした」
 絞り出された力のない声色。言葉の隙間を縫うように吐き出される喘鳴音。それが宜野座のものだと理解し、咄嗟には血泥の中にしゃがみ込んだ。彼女の纏まらない思考でできたことと言えば宜野座の名前を呼ぶことくらいだ。意識が朦朧としているのか、宜野座の瞳の焦点は定まらない。しかし、を捉えたとき、微かに唇を緩ませたのだ。悲痛な表情を浮かべるとは正反対の、彼女の姿に安堵したかのような微笑み。
「……務めを果たせ、監視官。それが、貴女の仕事であり、責務だろう」
「なに、言って……。いやだ、やめて」

 宜野座は駄々をこねる子どもを諭すような優しい声で、の名を呼ぶ。右手がゆるりと持ち上がり、指先が彼女の頬に触れた。いつもなら温かなはずの指先はひやりと冷たい感触を与える。生きるための機能を確実に維持できなくなっている。ほぼ放心状態のにもその事実だけは察することができた。恐る恐るは左手を宜野座の右手に添える。宜野座はそれを見て満足げに瞼を閉じた。右手が弱々しく、糸が切れたように血溜まりに落ちる。飛び散った血飛沫はの顔を赤黒く汚した。呆然としていた意識が急に現実を捉え始める。宜野座の右手を握り締めてみても反応が返ってくることはない。彼の死に顔は、恐ろしいまでに美しかった。
 見慣れた天井が見えたとき、ようやく呼吸をした。咽返りそうになる鉄の匂い。息が詰まるほどの死の香り。何もかも閉塞感に満ちていた。現実味のある夢から目覚めたと実感して、は泣きたくなって布団に顔を埋めた。安心、屈辱、憤怒──そんなぐちゃぐちゃに混じり合った複雑な感情に苛まれながら、声を押し殺して涙を流した。


 宜野座はその日、非番だった。アンティークな家具が配置された私室はやや薄暗いが、シンプルな作りで纏められている。収集したコインや観葉植物の鑑賞など趣味の時間に費やしていれば、時間は駆け足で過ぎてゆく。気付けば今日が昨日に、明日が今日になる時間だった。愛犬の健やかな寝息を聞きながら、明日の勤務に備えてそろそろ寝る準備をしようと腰を上げる。そこで、扉の認証システムが作動する音がした。宜野座は目線を上に向けて来訪者を待つ。執行官宿舎の認証システムを正規に作動し入室を認められるのは監視官のみ。となれば、十中八九扉の前にいるのは──
 宜野座の予想通り、扉をするりとくぐり抜けてきたのはだった。夜更けの来訪にしても些か遅すぎる時間。しかし、宜野座は彼女が第二日勤であったことを思い起こし、であれば致し方ない時間だと納得した。に降りてくるよう促すと、彼女はこくりと頷いて階段を一段ずつ丁寧に踏んでゆく。ローヒールパンプスの踵を踏む音がリズムよく響き渡る。いつもの活気がないことに違和感を感じつつも、宜野座はを温かく迎え入れた。
「当直終わりか? 何か紅茶でも淹れようか」
「うん、でもいいや。すぐ帰るから」
「すぐ帰るって、お前……」
 が宜野座の近くまで歩み寄って、そこでようやく気付く。彼女の目元に深く刻まれた隈。化粧で隠していたらしいが日勤終わりでは剥がれ落ち、寝不足なのが丸わかりであった。曇った声調や顔色の悪さ、今宵の来訪も相まって明らかに普段とは様子が異なる。何かあったとは分かっても、その何かを推測するには今日のの情報が宜野座には圧倒的に不足していた。どう声をかけるべきか宜野座が思い倦ねていると、の方からアクションを起こす。宜野座の右手に両手を伸ばし、包み込むように触れたのだ。「よかった」と呟くは何かを確認したようだが、やはり何かは分からない。程なくしては宜野座の手を離した。
「お疲れ様。また明日ね」
「おい、待て。どうしたんだ一体。何かあったのか」
「何かって……」
「今日のお前の様子、明らかにおかしいだろう。何もないわけがない」
 宜野座の発言に意表を突かれ、は目を白黒させている。しかし、同時に嬉しくもある。内心では宜野座が気付いてくれるんじゃないか、心配してくれるんじゃないかと乞い願っていたのだから。は自分の狡い部分には目を瞑り、代わりに宜野座の元に擦り寄った。手首のデバイスを起動し、休憩の合間を縫って唐之杜に依頼した犯罪係数の計測値を見せる。画面に広がる数値とパウダーブルーの色相に、宜野座は眉をひそめた。監視官として維持すべき数値はとっくに越えている。色相も僅かながら濁りを含んでいた。の不調は宜野座の主観的情報だけでなく、客観的情報からも示されている。
「随分悪化してるじゃないか。早急にメンタルケアに行かないと、後々……」
「メンタルケアに行っても、日を跨げば結局変わらないから」
「……なに?」
「毎晩同僚が死ぬ場面に立ち会えば、悪化してもおかしくないでしょ?」
 そこでは、ようやく重い口を開いた。毎夜脅かされる悪夢の内容。宜野座が死に絶える瞬間のリアルな感触。脳裏に焼き付いて離れない綺麗すぎる死に顔。今までは夢を見たあとの数値の変動は一過性のもので、落ち着きを取り戻せば安定していた。しかし、最近になって考えるようになったのだ。あの夢が現実のものとなってしまったら。宜野座の生を自身の手で終わらせるという最悪が、今日にでも起こってしまったら。それらの可能性を考えるだけでは気が気じゃなくなるのだ。考えるなと念じても、悲観的な妄想ばかりが頭を過ぎる。日勤終わり、旧知の間柄である常守や六合塚の気遣わしげな視線を背中に集めていることに不甲斐なさを感じながら向かった先が此処だった。宜野座が非番であると知ってはいても不安は拭いきれない。執行官が宿舎から脱走を図った例がないわけではないのだ。部屋がもぬけの殻になっていれば、は逃走者を追い相応の処分を下さねばならない。あの悪夢と同じように、監視官としての務めを。だからこそ、宜野座の姿かたちを、声を、温もりを確かめたときには心底安心したのだ。
 反対に宜野座は吃驚の色を隠せなかった。昔馴染みがそうまで己の死に恐怖を抱いていたなんて、知る由もない。けれど、夢と同じ立場に立てば夢と同じ文言を繰り返すのだろうと思った。無論逃げ出すつもりなど更々ない。しかしいつ何時犯罪係数が跳ね上がるか分からないこの職業では、が見た最悪を考えなくもないのだ。宜野座は碧の光を纏う殺人銃を構えるの姿を想像する。眉を寄せて自分の行いが正しいのか判断しかねている、苦悶に満ちた表情。のその表情を見れば、やはり宜野座は引き金を引くように促し、監視官としての責務を全うするよう背中を押すのだろう。
 そこまで考えて、にかける言葉は自然に出ていた。
「今日は泊まって行け」
 宜野座からしてみれば、その言葉に至るまでの思考の積み重ねは山の如しであったのに、いざ口にしてみるとまるで誘い文句のようになってしまった。もあっけらかんと目を点にしている。それに気付いた宜野座は羞恥で首がもたげそうになりながら、慌てて弁明の意を表した。
「いや、違うぞ。今のは決して疚しい意味じゃ……」
「……宜野座、疚しいことしたいの?」
「ばっ、ちが……! お前分かってて言ってるだろう!」
 人が近くにいれば安眠できるであろうということ、たとえ夢を見ても起きてすぐそこに死んでいないという証があれば幾ばくか心が楽になるだろうということ。あの発言はこの二つを考慮した上でのもので他意はない、と宜野座はつぶさに説明し釈明を図る。しかし当のは腹を抱えて笑うばかりであった。ややあって、はようやく平静を取り戻し、きまりが悪そうに「じゃあ、よろしくお願いします」とはにかんだ。
 寝る支度も一段落して寝床に就いたとき、は宜野座の手を再び握ってみた。今度は左手だ。金属で無機質な義手はひやりと冷たく沁み渡る。けれど、夢の中で感じた「死」の冷気とは違うのだと、は確信めいてそう思った。宜野座は困惑した面持ちでそっと握り返す。生身の手とはまた異なる使い勝手にも慣れたものだが、人の手を握る力加減は生身であっても義手であっても不確かなものだ。「面白いものじゃないだろう」と宜野座が自嘲的に呟くも、はかぶりを振った。少しずつ意識が微睡み、やがて、睡郷へと誘われる。


 堕ちた先は奈落の底だ。そうは分かっていても、この夢から抜け出すには結局瞼を開く他ない。ただ、今回の夢は普段と違った。仄暗く人気のない路地裏、妖艶な碧を発する殺人銃。ここまではいつもと変わらない。違ったのは通路の直線上にいる人物──宜野座が五体満足の状態で立ち尽くしているということ。が構えているドミネーターは明らかに宜野座を焦点に合わせていた。
 引き金を引け、と。宜野座の唇はやおらそう動いた。そうするべきだ。にはここまで積み上げたキャリアを棒に振る勇気もなければ、秩序の保たれた社会から身を投じる度胸もない。正義、秩序、平穏──それらを任された者の、監視官としての責務を果たすべきなのだ。たとえ目の前の大切なひとが木っ端微塵に跡形もなく消えたとしても。そんなことは、分かっている。分かっていても──
 は夢を見ている。悪夢だ。現実じゃない、だからこそ──構えている漆黒の銃をするりと手から離した。正義の象徴をかなぐり捨て、宜野座の元へ駆け寄る。筋肉質な細身の身体に飛び付けば、身体はたじろぐ。程なくして呆れたような咎めるような声が降ってきた。
「本当にお前は……貴女ってひとは」
 降り積もる声はあまりに優しい。涙が出るほどに。
 ──いつだって、怖くなる。失うこと。正義を振りかざせば、いつか直面してしまうかもしれない現実。その岐路に立たされた時、選び取るのはきっとこの世の秩序に沿った選択であること。でも、それでも──
 ──いつだって、彼を愛しく思う。この気持ちは偽りなく本物で、嘘などこれっぽっちも混じっちゃいない。

2019/01/25