舞台裏の柩
 眩しすぎる程のシャンデリアの下に集う高貴な雰囲気を纏った男女達。その様子は壁に寄り添って談笑する者から大広間の真ん中で踊りに身を委ねる者など実に様々。その中で軽やかなステップを踏む男女の姿が、俺の視界から消えては現れを繰り返している。決して誰もが目を向ける程の美男美女でもないし、踊りのプロフェッショナルという訳でもない。かと言ってダンスの質は失笑を買う程の出来映えでもない。万人の目を奪うのではなく、ただ俺一人の視線を独り占めしていた。男女の顔は互いに俺の見知った顔であった。女性の方はミントグリーンのタイトドレスを身に纏い、長髪をリボンで細やかに結い上げている。黒のラインで主張された瞳やルージュを施された艶めく唇は、どこか何時もより色っぽい。対して男性の方は漆黒のタキシードが鍛え上げられた身体によく似合っており、女性の腰に手を回ししっかりとリードしている。ワルツの音に合わせ、互いだけを見つめて踊るその姿は見るからにお似合いのパートナーだ。
 眉間に皺が寄るのを感じてぐっと皺を解していると、隣で同じようにして大広間全体を見つめる女性に肘をつつかれた。此方も俺と同様、眉間に皺を寄せ難しい顔をしている。しかしその感情の矛先は俺にあるらしかった。
「良かったんですか?」
「何がだ?」
「しっかり手綱は握っておかないと、逃げられるか……あるいは他の犬に攫われちゃいますよ。……以前みたいに」
「……」
 黒の長髪をハーフアップにしてすらりとしたマーメイドドレスで着飾る同僚の六合塚は訝しげな表情で俺と、向こうで踊るを交互に見やった。「意地気なし」そう呟いて六合塚は手の中のワイングラスに口を付ける。その視界にはもう俺達の姿はなく、今回の標的を見定めようとする猟犬の瞳に変わっていた。彼女の忠告がずしりと重みを増す。がスカートを翻しながら踊るその姿に、三年前の記憶がフラッシュバックした。


 とある大手企業が自身らが開催するパーティーを隠れ蓑に、その裏で薬物の不正売買を行っているとの情報が得られた。薬物の類を外国から密輸するにしろ自分で栽培するにしろ、どちらも相当な手間暇がかかる上に犯罪計数の上昇を防げる筈がない。謎に包まれたその企業の素性を明らかにする為、パーティーへの潜入捜査を言い渡されたのは俺との所属する刑事課一係だった。潜入捜査の類はこれまでに何度か行った事があったが、事もあろうにそのパーティーは富裕層専門の社交ダンスパーティーであるらしかった。外から得られる情報にも限度があるので舞踏を習得している者が中に潜入することは必然だった。会場内には監視官と執行官の二人組が、残りの監視官と執行官は外部から捜査を進めるのが効率的という事で纏まったが、そこで議題に上がったのは誰が潜入するのか、という事だ。ここで真っ先に挙手したのは縢だ。相手をに指定して、自信ありげにふふんと鼻を鳴らした。ご指名を受けた当の本人はきょとんとしてから目を丸くさせた。
「えっ、私?」
「おうよ!ちゃんの出身校、超のつくほどのお嬢様学校なんでしょ?トーゼン、ダンスもやってるっしょ」
「習ってはいたけど、でも本当に人並みだし…」
「……縢、ちなみにお前の社交ダンスの経験は」
「ポップ系とかストリート系ならお手のもの!」
「却下だ」
 こいつは先程の経過報告の何を聞いていたんだ、と頭を抱えた。社交ダンスにポップもストリートもないと縢の提案を一蹴してからの方に視線を移した。
「一応ダンスの経験はあるんだな?」
「は、はい」
「よし、じゃあ後一人だ。縢以外でダンスの経験がある者は?」
 オフィス全体に視線を行き渡す。視界の端で文句ありげに拗ねている縢は無視して、手を挙げている征陸を一瞥した。確かに征陸なら公の場での舞踏に慣れないをリードするのは造作もないだろう。しかし流石に年が離れすぎている。親子として成立する程の年齢差の男女では会場で悪目立ちするのも当然と言える。事情を話すと征陸はそれもそうだなぁ、と苦笑した。再び振り出しに戻った話題にはぁと溜め息をつくと同時に六合塚が手を挙げた。何だ? と彼女に尋ねると「征陸さんが狡噛にダンスを教えるというのはどうでしょう」と提案した。確かにそれなら年齢差もさほど気にはならないし、パーティー開催日から練習時間を逆算しても決して不可能ではない。その案で行こう、と口にした所でその間ずっと黙認していた狡噛が口を挟んできた。
「おいおい、俺はごめんだぜギノ。大体俺に煌びやかなパーティーなんて似合わんだろ。ここはお前がすべきじゃないか」
「いや、お前しかいない。内と外にそれぞれ監視官がいた方がやりやすい。監視官が内なら俺は外で捜査するのが合理的だ」
「えっじゃあ俺でもいーじゃん!」
「お前は何をしでかすか分からんから却下だ」
 ひっでーギノさんという縢のたれごとは耳に入れず、後方で固まるにそれで良いな、と目配せをした。こくりと小さく頷く彼女の瞳には一抹の不安が伴っていた。
 翌日から捜査の合間を縫って狡噛とは征陸の助けを借りながら練習を開始した。二人とも飲み込みが早いのもあってか、人前に出れるレベルまで持って行くのに時間はかからなかった。征陸曰わく、二人の息が合っているのも要因の一つなのだろうと。開催日の前日、音楽を合わせて踊る二人を拝見した。いつものスーツ姿であるにも関わらず、互いの手を取り情熱的に踊るその姿に一瞬時を忘れた。プロとして見ればそれ程だが、素人して見れば完成度はかなり高い。音楽が鳴り止み踊り終わった二人に、まばらな拍手が起こる。縢は小走りで二人の元に駆け寄り、ひゅーと囃し立てるように口笛を吹いていた。軽く叩いていた拍手の手を止めると、左隣からの視線に気がついた。見ると六合塚が物言いたげな表情で此方を見やっている。どうかしたか、と尋ねると六合塚は首を横に振った。今思うときっと彼女は感づいていたのだろう。踊る二人を見ている間、俺の心中を渦巻いていた黒い霧のような何かの存在を。
 結果的に言えば潜入捜査は事なきを得て終了した。達が潜入した会場内にて大手企業の重役が何者かと怪しげな密談をしているのを目撃。狡噛が取り押さえた所、重役の懐から薬物や報酬であろう札束が出てきた。彼らは主催者側という立場を特権に開催される会場の色相スキャナーを故障という名目で手動でオフにし、公安の目を欺いていた事、また薬物の類はサーバー元が外国である裏サイトにて秘密裏に手に入れ売りさばいていた事などを事情聴取にて白状した。薬物を売買していた裏サイトの不正密入国者も、分析官による逆探知で居場所を突き止め拘束された。驚くほど円滑に、事件は幕を閉じた。
 捜査の際、会場内に取り付けられていたカメラの映像を見た。これは企業側による運営のもので、内部に不審な人物がいないかを確認する為に取り付けていたと彼らは答えた。裏を返せば狡噛とは不審な所が見られない程度には擬態に成功していたという事だ。映像の端に映る二人は確かに大人びた雰囲気を醸し出す男女と言った風にしか見えなかった。二人のエントリーナンバーが呼ばれ、広間の中央部にて音楽と共に踊りを開始する。本番だと言うのに、そのダンスには一寸の狂いも見られなかった。踊りを見ている間はやはり時間を忘れたし、見終わった後には胸中に残るしこりのような何かが存在した。俺はその何かに、気付かないふりをした。
 今回の捜査も以前一係が行った捜査とほとんど同じだ。薬物の不正売買とそれらの取締り、そして取引現場への潜入捜査。最も大きな違いは面子の中に縢や征陸、潜入捜査の中心だった狡噛はいない事、そしてパーティーの名目自体がダンスではなく交流という事だ。故に一係から踊れる者を選別するという手間が省かれ、適当な男女を内部へ投入するという手段で潜入した。それに選ばれたのがと俺、六合塚と、そして彼の東金執行官であった。 名目ではないものの自由参加制度で舞踏の時間は存在した。勿論参加する必要は無いし、薬物売人を見つける為には踊るより食事を嗜むふりをして目を尖らせる方が効率が良いだろう。しかし東金執行官はダンスの時間帯の前にの前に躍り出て、手を差し出したのだ。もしよろしければ私と一緒に踊っていただけませんか、と彼は眼前のににこりと笑った。
「わ、私ですか?最近はダンスにあまり触れてないんですけど……」
「監視官はお気遣いなさらず。私がリード致しますので」
「六合塚さんみたいにお綺麗な方のほうが……」
「先程六合塚執行官には断られてしまいまして」
 は少しばかり考える素振りを見せたが、「私で良ければ」と差し出された手に自らの手を重ね合わせた。別に不自然な事ではない。彼女からしてみれば舞踏に勤しみたい部下の相手になるだけであり、それ以外の他意は存在しないのだろう。もしかしたら会場の端に四人で固まるよりは中央から違う視線で売人を捜した方が良いと判断したのかもしれない。何にせよ彼女の意志とは関係なく、さり気なく彼女の腰を抱く東金執行官にはあまりいい気がしないのは事実だった。「これより舞踏会の第一部を開始致します」と会場内に鳴り響いたアナウンスを皮切りに、多数の男女が中央部へと躍り出て行く。はそれじゃあ少しだけ行ってきます、と俺と六合塚に手を振ってその群集の流れに乗って前へ進み出た。それからすぐに六合塚から耳打ちされた「断るどころか誘われてすらいませんけどね、私」の言葉に、してやられたと溜息をついた。彼の狙いはどうやら最初から一人だけだったらしい。一度だけ此方を振り向いて不適に笑みを浮かべる東金執行官には、ギロリと思い切り睨みつけてやった。中央の男女全員が配置についた所で音楽が流れ始めた。ゆったりとしたテンポのクラシック音楽に、数多の男女が身を任せていった。
 と東金執行官は、ぶっつけ本番とは思えない程の出来映えで踊りを終えた。音楽が鳴り止み、一節の静寂の後に拍手の喝采が場内を熱気で包む。丁度その時に舞踏時間の第二部は一時間後開始予定です、と無機質なアナウンスが響き渡った。六合塚が俺の方を一瞥する。無言ながらも彼女の鋭い瞳は全て物語っていた。貴方もをダンスに誘わなくて良いのか、と。 手綱は握っておかなければ他の犬に奪われてしまう。六合塚の先程の言葉が脳裏をよぎった。馬鹿を言え。手綱を握られているのは飼い主ではなく猟犬、すなわち俺の方だ。執行官である俺が飼い主の恋愛事情にとやかく言う事も、ましてや飼い主の手を取る事など許される筈がない。心中ではそうやって理解している筈なのに、東金執行官と談笑しながら戻るの姿にひどく心が揺らいだ。俺が今も彼女と同じ監視官だったのなら、彼女に手を差し出す事が許されたのだろうか。
 お疲れ様です、と労う六合塚にはありがとうございます、と薄く笑った。するとすぐさま監視官の顔つきに変えて、中央部から全体を見渡した限りそれらしい人物はいなかった旨を伝えた。
「今回は外れだったのかもしれませんね」
「そうですね。ひとまずは常守監視官の所に戻って体勢の立て直しを……」
 その時の手首に付けられた端末から着信を知らせる音が流れ出す。発信元は会場の外にて待機している常守だった。は落ち着いた様子でデバイスを操作し、指向音声に切り替える。
「こちらシェパード1。取引は表会場ではなく裏方で行われているようです。先程重役に酷似した人物が裏口から入ったのを確認。私達は裏口から追跡するので、監視官は会場の方から裏口に回って貰えますか」
「こちらシェパード3。扉のロックは解除されてますか?」
「はい、分析官に既に解除して貰いました。非常口の方からなら入れる筈です」
「了解です。それじゃあまた後で」
「はい、切ります」
 デバイスの電源を落とし執行官面々に向き直ったは非常口に向かうよう目で促した。執行官はこくりと頷き、小走りで非常口へと向かう。常守の発言通り、本来は関係者しか出入りできないであろう裏口はいとも簡単に開いた。 熱気で沸いた会場とは異なる、ひやりとした空気。皮膚を舐め回すような肌触りが厭わしい。の合図を皮切りに、執行官は一斉に突入した。


 事態は呆気なく収束を迎えた。事は手筈通りに進み、売人の確保や薬物の類の押収にも成功した。外国サーバーの経由元も直に分析官によって割り出される筈だ。以前の捜査を下敷きにした予備動作の予測が功を奏したのだと、俺は思っている。前例がなければこう上手くはいかなかっただろう。今は亡き功績者達の顔が瞼の裏に浮かんでは消えていく。最後に浮かんだ男の安否は分からないが、逆に言えばどこかで野垂れ死ぬような男でもない。しぶとく生き延びるあいつを想像して、すぐに片隅に追いやった。
 会場を埋め尽くしていた企業の関係者やクライアントは簡易色相チェックを受けた後に解放された。やはり麻薬売買に関わっていたのは上層部だけで、大多数は何も知らない一般人だったようだ。監視官から受けた説明の半分も理解していないような呆けた面持ちのまま、彼等は次々と帰路を辿った。会場内は徐々に人気が少なくなるが、代わりに忙しなくドローンが行き交っていた。それも時間の経過と共に減少していく。大方の後始末が終わったのは取引現場に突入してから三時間程経過した頃だった。ようやく自室で寛げると喜んだのも束の間、ここでまた一つ問題が発生する。隠れ蓑の催しは念には念を入れてか都市圏から随分と離れた所で開催された。都内に立地する公安局から会場までには高速道路を介する必要がある。その高速道路が現在大渋滞で全く進まない状況なのだと言う。排気ガスにまみれた道路で立ち往生するよりは此処で新鮮な空気を肺に満たす方が良いと、監視官側で意見が纏まったらしい。渋滞が収まったとの交通情報が入り次第、会場を出発するとのこと。この提案の第一人者は後方で不機嫌そうに腕組みをする霜月監視官だろう。彼女は色相の濁りを人一倍気にする。
さんなら、二階のバルコニーに行くって言ってましたよ」
 情報の提供者である常守から思いがけない情報が舞い込む。今この場でのことを口にした覚えはない。第三者には彼女の所在を気にしているように見えたのだろうか。心なしか、常守の表情は「意気地なし」と呟いた六合塚の表情に似ている気がした。表情と言うよりは雰囲気だろうか。もどかしそうに、焦れったそうに眉をハの字にしている。無性に申し訳なさが募って、常守には礼を述べて逃げるように二階へと向かった。
 はすぐ見つかった。バルコニーの手すりに寄りかかって、外に広がる風景をまじまじと眺めている。このパーティー会場は自然豊かな木々や植物に囲まれている。公安局のバルコニーからでは見られない景色がそこには広がっているのだろう。都内の汚染した空気とは段違いに澄み切っている夜風が彼女の髪やリボン、スカートの裾を靡かせた。
「その格好じゃさすがに冷え込むぞ」
「えっ……わ!」
 自分のコートをの方に放り投げれば、それに気付いた彼女は無駄のない動作で掴み取った。常守に頼んでレイドジャケットの一つでも貰い受けておけば良かったと今更ながらに思う。肝心なところで詰めが甘いのは自身も認める短所だ。は俺の意図を汲んだのか、一度コートを広げ、翻して肩に羽織った。当然だが丈は合わず、地面擦れ擦れの位置で裾が揺らめいている。腕が通されず用を成さない袖口はだらんと垂れ下がる。その全体のシルエットはまるでペンギンのようだと、密かに思った。
「ありがとうございます」
「いいや。……何か考え事か?」
「あ、えっと……」
 は僅かに躊躇して口を噤む。疾しい隠し事でもあるのかと思えば、そういった類の当惑ではないようだ。俺を捉えていた瞳は徐に目の前の光景を捉える。ほぼそれと同時に鬱蒼と生い茂る森林がざわめき始めた。風が強い。周囲だけが騒がしい沈黙の後、は「大したことじゃないんですけど」と前置きをした。
「以前の捜査のことを思い出してました」
「……以前?」
「ほら、朱ちゃんがまだ配属する前の……。今日と同じような事件の」
「ああ、あれか」
 まさに今思い起こしたかのような振る舞いはしたが、件の事件は今回の捜査の参考案件だ。脳内の何処かしらに記憶されているに決まっている。惚けてみせたのは自分のちっぽけな妬みを悟られたくなかったからだ。皮肉にも、今日は狡噛とのことばかり考えている。
 はあの頃を懐かしんでいるのか、少し物寂しげな瞳をしていた。
「あの時はまだまだ半人前だったから気付いてなかったけど、今になってようやく分かるような気がして」
「……何がだ?」
「経験とか知識の積み重ねはちゃんと後になって生きてくるんだなって。……こんなこと言ったら昔の宜野座さんに呆れられちゃいますね」
 昔の俺とは監視官の頃の俺を指すのだろう。当時は何をするにも手厳しく彼女に当たっていた。への嫌がらせなんて気は露にもない。在るのは過ちを犯した自分の経験則だけだ。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。俺は賢者になりたい愚者だった。執行官はあくまでも猟犬として手懐けなければならない、同じ人間として接してはいけない。期待した分だけ奈落の底に叩きつけられた衝撃も大きくなる。この経験則だけは今も昔も変わらない。執行官という立場上、口喧しくは忠告しないだけで、本音を言うならできる限りは留意して欲しいと思う。──でも、は監視官と執行官の間に聳え立つ垣根なんぞ易々と越えてしまうのだろう。己の培った知識と経験を礎に、仲間への信頼を包み隠さず顕わにする。何処までも揺るがぬ理想を追い求め続けていく。
 へにゃりと曖昧に笑うを見て、一気に力が抜けた。建前に託つけていた自分が馬鹿らしくなる程には。
「思い出しついでに一つ、物申したいことがあるんだが」
「何です、改まって」
「大したことじゃないんだが……そのドレス、よく似合っている」
 と同様の前置きと共に賛辞の言葉を述べれば、予想以上の反応が返ってきた。数瞬呆けた彼女だったが、見る見る内に頬を朱色に染めていく。捜査時には冷静沈着を崩さない彼女にしては珍しい現象だった。「ありがとうございます」とか細い声が響く。それっきり目を伏せてしまったので、笑いが込み上げそうになる。俺の一挙一動でがあたふたする様子は、有り体に言えば、悪くない。
「まだ撤収までに時間があるな」
「そう、ですね」
「もう一つだけ頼みがあるんだが」
「……またからかうつもりでしょう」
「まさか。暇潰しの余興に付き合って貰えないか、というだけだ」
 要件のみを手早く伝えると、は目を見張った。しかしそれも一瞬の出来事で、すぐに表情は切り替わる。今度は嬉々とした表情で「私で良ければ、喜んで」とはにかんだ。狼狽する彼女が見れないのは惜しいと思うが、女性を誘うのに緊張しないわけがないので、承諾の返事に今はただ喜んだ。右手を差し出せば、自ずと彼女も左手を重ね合わせた。
 あまりに質素で粗末な舞踏会だ。流れる音楽もなければ、場を賑わせる観客もいない。閑散としたホールには彼女のヒールが一際大きく鳴り響く。しなやかな腕やなだらかな曲線を描く腰に触れる度、掌が汗ばむ。自分で自分が情けなかった。真に情けないのは、にリードを許している己の舞踊の体たらくだが。日頃練習する機会がないとは言え、彼女に先導されるなど思ってもみなかった。俺がステップを踏み間違える度、は落ち着いた口調で教示する。自ら申し出ておきながらの不甲斐ない状況に失望されてもおかしくはない筈なのだが、予想に反して終始彼女はにこやかな笑みを浮かべていた。心の底からこの状況を楽しんでいるように思える。無論、俺自身も念願叶ったこの時間は楽しくて仕方なかった。
 の的確な教唆のお陰で、俺にも僅かな余裕が生まれた。顔を綻ばせながら踊る彼女に訊ねてみる。
「随分と楽しそうだな」
「ええ、はい。……宜野座さんは楽しくないんですか?」
「いいや。俺も楽しいよ」
「なら良かった」
 くるりと一回転したを支える。ふと、目が合った。
「まだ、昔を懐かしだりはしてないか?」
「え?」
「誰かと重ね合わせてはいないか、ということだ」
 少々冗談が過ぎたかもしれない。人を不愉快にさせるオイタはしてはいけないのが世の常だ。潔く謝るべきだと口を開きかけるが、俺の発声よりもの切り返しの方が早かった。
「まさか。私が今見てるのは、宜野座さん、貴方だけですよ」
 そんな殺し文句をけろりと言ってみせるものだから、此方としては溜め息を吐く他仕方ない。は駄々をこねて親を困らせたがる子供のように、無邪気に笑っていた。
 部下としてではなく男性として意識して欲しいという思いと彼女から寄せられる信頼を裏切りたくないという思いが交錯する。潜在犯である俺はいつどこで犯罪に手を染めてもおかしくない。例え自分にその気がなくとも、一度タガが外れてしまえば今まで通り彼女の元で働くのは不可能だろう。それを理解していても、なお、俺は彼女との距離を縮めたいと願ってしまう。愚者が経験に学ぶなら、経験しても学べない俺は一体何なのだろうか? 俺の行き着く先は何処なのだろうか?
 どうか彼女だけは、みっともない内情を悟らないで欲しい。願わくば、今だけは手を取り合って俺だけを見つめていて欲しい。その淀みない、理想だけを追い求める瞳で。

2016/05/23