チューリップ・アバンチュール
 がめついという修飾語がぴったりな女性であると思う。周囲は彼女を人並みの容姿と頭脳を併せ持った凡庸型の人間だと評価する。おれも最近まではそう思っていたので、彼等の見解にケチをつけるつもりはない。しかし平たく言ってしまえばその評価は誤りだ。平々凡々たる皮を被ったさんは先述の通り、実に「がめつい」女性だと、おれは先日身を持って知った。ここで少々誤解か生まれそうなので補足しておく。彼女は金目の物や性的欲求に対して貪欲というわけではない。そんな女は趣味じゃないし、此方から願い下げである。さんが虎視眈々と目を光らせているのはこのおれ、犬飼澄晴に対してだ。惚気かよと野次を飛ばされそうだが、これ以上に的を得た説明がないのもまた事実。彼女がおれを視界に捉えた時の瞳は獲物を追い詰めた狩人のそれに近い。公衆の場ではただならぬ情動をひた隠しにして、二人きりになった途端に欲望を剥き出しにするのだ。やることなすこと全てが手に負えない。しかし真に厄介なのは、この事実に対して少なからず優越感を抱いているおれ自身であろう。誰かに求められればそれなりに嬉しいし応えたくもなる。それが好意を抱いている女性なら尚のこと。おれという男は実に単純にできている。
「考え事?」
 はっとする。その声が鼓膜を揺るがした瞬間、周りがざわめきを取り戻した。車の行き交うエンジン音、人の話し声、雨粒が傘に跳ねる音。数々の音が鮮明になってゆく。長らく押し黙っていたからか、隣のさんは心配しているようだった。「別に、なんでも」と視線を僅かにそらしてはぐらかす。貴女のことを考えていました、なんて口が裂けても言えやしない。しかし何を思ったか、さんは傘の柄を持つおれの手を己の手で包み込んだ。ひんやりとした雨の日特有の冷気とは別物の温もりが浸食する。おれは、この温度が嫌いではなかった。
 男女における密着性の高いシチュエーションとして相合い傘は鉄板だ。降雨が必須条件となるが、運命の悪戯によって予想だにしない雨が降り、片割れが傘を持ち合わせていればこの状況に持ち込むことは容易い。晴天であれば周りに疎ましく思われる可能性もなくはないだろう。しかし、今日みたいに土砂降りの雨模様であれば他人を好奇の目で見ている暇はない。裏を返せば、おれ達自身も勢いづく雨の中で胸を躍らせている場合ではないということ。肩を寄せ合って、時に女性ならではの膨らみが腕に当たるこの瞬間を噛み締めるのは勝手だが、時間の経過と共に雨足は強くなる。直接打たれてないとは言えど、長時間外に留まれば風邪を引くのも時間の問題だ。さんの歩幅を意識しながら、急ぎ足で彼女の自宅へと向かった。


 相合い傘の発案者はさんだ。本部基地の正面出口前、彼女は所在なげに柱に寄りかかっていた。屋内から漏れる光が影を作り、陰鬱めいた雰囲気を醸し出している。何となく声をかけあぐねていると、おれの足音を察知したのかさんは此方を振り返った。先程までとは一転してぱっと顔を明るくさせる。どうやらお目当ての人物はおれらしかった。そして、何食わぬ顔でいけしゃあしゃあと言いやがるのだ。
「澄晴くん、奇遇だね。丁度良かった。実は私ね、見ての通り傘忘れちゃって…」
 この後に続く言葉は言わずもがな。年上の権力を最大限に行使して、さんはおれのビニール傘に入ることに成功した。使い古した傘を広げている間、彼女は悪びれる様子もなくにっこりと微笑んでいた。手のひらで転がされている感覚。手練手管で籠絡されるのにいい気はしないが、彼女に敵うビジョンが思い描けない今はただ従うしかない。そんな諦めに似た思いを秘めて豪雨の中を突っ切れば、ようやくさんの自宅に辿り着いた。彼女は築数年の比較的新しいマンションに住んでいる。老朽化の著しいアパートなどに身を置かれるよりは遥かにマシなのだが、一体どこからそんな莫大な金を出しているのやら、心配になるのも致し方ないだろう。空まで伸びるマンションを眺め、嘆息の息を洩らす。何度となく訪れてもこの地帯に広がる空気には慣れそうもない。
 エントランスを淡く照らす光は今し方暗闇に順応していた目には優しくない。彼女を送り届けた後は、己が帰宅するために再び夜が染み渡る暗闇に戻らねばならない。とどのつまり、長居は得策ではないということ。とっとと退散しようと決め込むが、それはさんの手によって妨害された。彼女の指先がおれのブレザーの裾を掴んでいたのだ。盤石の強さではない。振り払うのは容易だった。しかし、恋人が縋りよるのを無下にするほどろくでなしではない、つもりだ。
「なんですか?」
「冷えちゃったし、家上がってく?」
「……はい?」
「あったかい紅茶でも淹れてあげようかと思って」
 そんな色気のない誘い文句になる彼女も彼女だが、それに乗せられるおれもおれだ。結論から言えば、おれはまんまと彼女に言いくるめられマンションのエレベーターへと乗り込んでいた。単純を通り越して馬鹿にすら思える。頭を抱えたくなった。さんのほくそ笑む姿が目に浮かぶようだ。
 彼女の指が二桁の階へのボタンを押した。足元の浮つく感覚と共にエレベーターは上昇を始める。一息ついたさんを盗み見ると、おれと寄り添っていなかった方の肩に自然と目がいった。明らかにおれよりも水気を含み、衣服が色濃く変色している。傘の所有主でないから遠慮したのだろう。律儀というか真面目というか。むしろこれさえも計算の内だったらどうしようか、と身震いした。
「災難でしたね」
「なにが?」
「雨」
「……ああ。うん、確かに」
 歯切れの悪い返事が少々気に留まった。次ぐ「でも、雨はそんなに嫌いじゃないかも」の言葉には益々謎が深まるばかりだ。他人の好き嫌いに口出しできるほど達者になったつもりはないが、それにしたって、雨を好む人なんて多くはないだろう。自分の身近にいる女性(さんを除けばそれこそ実姉ぐらいなものだが)を思い浮かべる。セットした髪が崩れて影も形もなくなったり、おろしたての服がびしょ濡れになったり、挙げ句の果てに風邪を引いたり。姉二人の愚痴を思い返せば返すほど、雨の利点がかき消されていく。ではさんを唸らせるような雨の魅力とは何だ? 悶々と思考を巡らせていると、それは不意を突いて訪れる。身長差なんて知ったことかとおれのネクタイを引っ張り二人の距離を縮めたのは他でもないさんだ。ちゅ、と密室に響くリップ音。思考が停止する。場違いにも程があるその音に、感触に、体温に、心臓が鷲掴みにされたようだった。さほど時間も経たずして首元の窮屈さが消えた。ネクタイを引っ張る力が緩まり、触れ合っていた唇は自然と離れる。
「雨はね、澄晴くんにくっつける口実ができるから、好き」
 口実なんてなくともさんなら幾らでもくっつけるだろうに。勝ち誇った笑みを見せる彼女の姿に、口端が大袈裟なほどひくついた。やられっぱなしは癪だけど、彼女から勝ち星を奪えるようになるまでは、やはり従順に生きるしか術はない模様。
さんのその顔、ほんとむかつく」
「私は澄晴くんの、親の敵みたいに私を睨む顔、大好きだよ」
「ドのつく変態だ」
「周知の事実だよ。澄晴くんだけにね」
「それ周知って言わない」

2016/05/08