くだらなくはない
これの続き。捏造過多。


「風邪でもひいてるんですか?」
 普段は隊を彩る明るい声が、今日は己の体調を気遣って控えめだったのだと気付いたのはその時だった。お調子者ではあるがその反面目敏い犬飼だけではなく、辻や氷見もどことなく俺を労る視線を向けていた。トリオン体に換装していたにも関わらず部下に悟られるほどの体たらくっぷりだったことに頭を抱えたくなる。犬飼はそんな俺の身を案じてか「早く帰って寝た方がいいですよ」と付け加えた。他の二人も同調するようにしきりに頷いている。
「今日は任務終わりに報告書を提出する手筈になっていた。今帰るわけにはいかない」
「そんなのおれが出しときますって。ほら、鞄持って」
 犬飼に鞄とジャケットを渡され、あれよあれよという間に隊室を追い出されてしまった。いつになく強引な手を使われたが、それ程までに今日の自分は失態が多かったのだろう。実際換装している内に風邪が治るわけでもないのだから、今日は部下達の厚意に甘えて休息をとるのが得策だ。考えを纏め終えると、静かな廊下を突き進み一階まで降りる。外へ出て空を仰ぐと、昼頃まで雨粒を注いでいた雨雲はすっかり姿を消していた。


 風邪の原因として思い当たることと言えば、朝方小雨に降られたことぐらいだろう。たったそれだけで体調を崩す程のひ弱な人間に育った覚えはないが、後に入った講義室はクーラーによってかなり冷やされていた。あの状況下で九十分間講義を受けたことはむしろ賞賛に値する行いだろう。結局は部下達に迷惑をかけているのだから褒められたものではないが。
 原因を探している間にふと思い浮かんだのは鳩原の姉の顔だった。本日の大学までの道程で偶然出くわしたその女は、踏切で立ち往生した俺に自身の傘を傾けた。不必要だとそれを払いのけることもできたが、人の善意を踏みにじる程の鬼畜生ではない。むしろ礼を言うか迷いこそしたのだが──結局自身から出たのは舌打ちだった。彼女の善意にではない。傘を傾けた時の女の瞳に、煮え切らない何かが潜んでいたことを見抜いてしまったからだ。
 鳩原は鳩原未来とはあまり似ていない。社交的で堂々たる態度を崩さず、性格も明るい。妹とは対称的な立ち位置にいる存在だ。だがよくよく見ていると姉も妹に似て、作り笑いが得意なタイプの人間だと気付く。選択科目で同じ講義を取った時に見かけた彼女は、妹が失踪したとは思えない程至って普通の大学生だった。友人との会話で顔を綻ばす彼女の笑みが作り物だということを、きっと唯一俺だけが知り得た筈だ。鳩原未来の失踪を告げ、顔の色を失った鳩原をこの目で見た俺自身だけが。
 本部から警戒区域を抜け、街頭や人の声でそこそこ活気づいた道路に出る。この辺りならすぐにタクシーも捕まるだろう、と周囲を見渡していると、見覚えのある後ろ姿を見つけた。決して見慣れているわけではないが、本日二度目とあれば見当がつくのも当然だった。声をかけるかかけまいか迷った末、話の種など無いに等しいのなら話しかけない方が無難だという結論に落ち着いた。……筈だったのだが、唐突に此方を振り向いたその女と思いがけず目が合ってしまう。目を見開いた彼女は、少し間を空けてから口を開いた。
「……何で、此処にいるの」
「任務終わりだ。お前こそ、女一人で出歩く時間帯じゃないだろう」
「人通りも多いし、警戒区域でもない。心配される理由がないよ」
 別に心配しているわけじゃないと反論したが、女は得意の作り笑いを浮かべて場を濁した。妹の方も俺に言い返せなくなると、よくこうして笑っていた。二宮さんには敵いませんね、なんて小学生のような捨て台詞を吐きながら。
「……今朝着てた服と違う」
「これは隊服だ」
「テレビで見る…嵐山隊みたいな感じじゃないんだね」
「あれは宣伝を兼ねてるんだろう。裏まで派手にする必要はない」
 場を和ますためか、それともただ単に気になっただけなのか、隊服に触れてきた彼女はそれっきり喋らなくなった。長居しても双方にメリットはないし、送り届けることを望むような輩でもない。さっさと切り上げて帰路に就こうと彼女を見下ろすと視線がぶつかった。つい先程受けていた視線と同じ、何かを哀願するような瞳──俺の苦手とする瞳だ。
「向こう側って、どんな所?」
 彼女の掠れた声には強い感情が込められていた。──泣いてるようにも、聞こえた。
 向こう側が意味する所が分からない程の鈍感ではない。これを聞きたいがためにどうでもいい話題を繕って引き留めたのだろうか。だとすれば、彼女はとんだ阿呆だ。忌み嫌っている男にわざわざ意味のない質問をするなんて。この答えがどうであろうと、妹が行った先は変わらず手の届かない近界で、妹が帰って来るかも分からないというのに。
「……さあな、行ったことがない」
「探しに行こうとは思わないの」
「ボーダーにも規則がある。違反してまで追いかけるのは得策じゃない」
「……やっぱり、追いかける意志はあるんだ」
 含みのある言い方に違和感を覚える。街頭から漏れる光が差す女の顔は、すこしだけ、妹に似ていた。
「ずっとそのままでいてね」
「……何のことだ」
「あの子のこと、見捨てないでってこと。いつか帰ってきた時に居場所を与えてあげられるように」
 直感的に、その女の湛えた笑みが作り笑いだと悟った。そうして、ようやく気が付く。今まで鳩原が俺に向けていた視線の正体に。
 ぽつりと、頬に触れたそれは雨粒だった。雲一つなかった夕空はいつの間にか鉛色の雨雲で埋め尽くされている。一粒、また一粒と降り出す雨に嫌気が差していると、小さな傘を眼前に差し出された。今日この女が使っていたものと同じ、淡い色で装飾された折り畳み傘だ。使えという意思表示だろうが、俺が使えば雨に降られるのは目の前の女だ。それではあまりに寝覚めが悪い。
「いい。俺はタクシーを拾う」
「使いなってば。タクシー拾う前に濡れちゃうでしょ。今も本調子じゃないみたいだし」
「……お前が濡れるだろう」
「私の家、此処から近いから」
 そう言うや否や、傘を押し付けた女は踵を返し人混みの中へと消えて行った。手の中に取り残された折り畳み傘を暫し見つめ、いよいよ雨足が強くなってきたところで傘を開いた。全く通る気配のないタクシーに苛立ちながら、携帯で手配することにする。十分程でそちらに到着するという運転手の言葉を信じ、暫くの間は待ち惚けだ。傘に跳ねる雨音を聞き流しながら女が走り去った方へと目を向ける。当然ながらあの後ろ姿はもう見えない。
 ──帰ってきてくれたら、こんなくだらない感情死んでくれるのにね。
 去り際に呟いた女の一言が耳にこびり付いている。独り言か、はたまた俺に向けた言葉だったのか。恐らく後者だろうと直感する。姉の方は妹と違って聡明だから、前者のようなヘマを俺の前で行う筈がない。俺に聴かせて何を望んでいるのか。文字通り、自身の中に眠る感情を消して欲しかったのだろうか。彼女がくだらないと称した感情が視線の正体なのだとしたら、……だとしても俺には関係ないと、割り切っていただろう。静かに目を閉じて、雨音であの女の言葉を掻き消していただろう。──今までの、俺ならば。


「おい」
 雨に降られた女の髪や服には水滴が貼り付いている。俺の顔を確認すると、あからさまに驚いて一歩身を引いた。雨宿りのつもりか、人通りの少ない商店街の軒下で立ち止まっていたこの女を見つけられたのは奇跡に近しい。走って来たものの、彼女がどこにいるかなんてほぼ勘だけが頼りだった。ただ一つだけ分かるのは、鳩原家があるのはこの近くではないということ。
「……何で」
「タクシーで送る。さっさと行くぞ」
「いや、だから私の家……」
「馬鹿が。一度行ったことのある家の位置を忘れると思うのか」
 大方俺の体調が芳しくないことに気が付いて、気を遣ったのだろう。そうまでさせてしまう己の体たらくにも心底辟易としたが、それより優先すべきは目の前の女だ。ここで風邪をひかれて俺の二の舞になられては意味がない。
 彼女の傘を傾け、入れと要求する。女は困ったように頬をかいたが、やむなしといった風に傘の中へと入った。タクシーが到着するまでまだ時間はある。女のよそよそしい態度を横目に、歩幅だけは彼女に合わせてやった。
 ──そのくだらない感情を生かすも殺すもお前次第だ。
 そんなことを口にすれば隣の女はどんな表情をするのだろう。気が狂ったと思われるか、それともからかっていると訝しげな視線を寄越されるか。どちらにせよ、この女の作り笑いを崩せるのは悪くないと、そう思ってしまっていた。
 傘を傾けられた時、この女の──鳩原の手を払いのけられなかったことは、いつか自分に重くのし掛かることだろう。彼女が俺に抱く感情を振り切れなかったことを、いつか後悔するだろう。
 それでも彼女の思いを生かしておきたかった自分は、熱にでも浮かされているに違いなかった。

2017/11/16