花と巌
00.蒔かぬ種は生えぬ
 姿勢が良いひとだ。背筋をぴんとして、背もたれに寄りかからず板書する姿は意識せずとも目を惹く。ほうと感嘆の声を密かに上げてしまうのも致し方ないだろう。何度も盗み見ていたせいで私の板書の手が止まってしまうのは、よくある事態だった。ノートに書き留めきれていないのにどんどん黒板の文字を消されていくのも、授業終了後にノートを見せてと友人に頼み込むのもよくあること。隣の彼にノートを見せて貰ったことは一度もない。私なんかが話しかけるのはおこがましいと、本気でそう思っていた時期だった。
 彼──二宮匡貴が周囲から抱かれる印象は可もなく不可もなく、ただし女子には異様にモテるという印象だった。顔立ちは悪くなく、ぶっちゃけ平均点を大幅に上回る高得点を叩き出している。鼻筋はしゅっとしていて、顎のラインはうつくしく、薄い唇はいつも結ばれている。背丈は高く、その割にはすらっとした体格。あまり感情を表に出さないポーカーフェイス。彼を形容するなら大体こんなところだろうか。外見的特徴ばかりを挙げてしまうのは、私は彼と内面をさらけ出しあえる程の仲ではないからである。同じクラスになり、隣の席になり、早三カ月が過ぎた。私はこの間一度も彼と会話を交わしていない。クラスメイトという名ばかりの飾りが私と彼の間で揺れている。
 今日も、彼を横目でちらりと見やる。黒板とノートを交互に見ながら、黙々とシャープペンシルを持つ手を動かしている。まっすぐ、一本の木のように姿勢を維持し続ける彼は、姿勢を正すという行為を知らないのかと勘ぐってしまいそうになる。私は彼とは全くの真逆の猫背なので、育ちの良さを体現するその姿勢の良さはとても羨ましかった。そこで、ふと、私は彼に憧れているのだと気付く。私にないものを持っている彼が、羨ましいのだと。視線を彼から離し、黒板へと目を向ける。そろそろ授業も終盤戦。学生の本分を発揮せねば些かまずい頃合いだった。
 まだ何も知らない、羨望の眼差しだけで彼を見つめていた高二の夏。恋心が根付くずっとずっと前の、けど確実に何かが始まっている、そんな季節のこと。


01.言わぬが花
 ──ボーダーに入ったらしいよ。
 夏休み明けのガールズトークで、あまり馴染みのない言葉を耳にした。ボーダーとは近界民から三門市の平和を守り安寧を維持し続ける界境防衛機関のことだ。第一次近界民侵攻で認知度がぐっと高まり、今では三門市にとってなくてはならない組織となっている。しかし、一般市民はそもそも関わる機会がまずなく、侵攻から一年近く経ってしまえば彼等の恩恵を受けることも当たり前になってしまっている。非日常も慣れてしまえば日常に変わる。とは言え、クラスメイトが組織の構成員になるというのは、日常とは程遠い事案だった。ミーハーなお年頃のオンナノコ達が騒ぐのも或る意味、仕方のないことで。しかもそのクラスメイトというのは、二学期になって席替えをしたにも関わらず隣席に座り続けている二宮匡貴のことなのだから、私にしてみれば非日常の域を越えている。一体どんな心積もりでボーダーに入ったのか。私には見当もつかないし、知る手段も持ち合わせていない。ただのクラスメイトに話しかけることに緊張や動揺を覚えるなんて、生涯で後にも先にも彼だけだろう。私は未だに彼と喋った試しがなかった。
 その均衡をあっけらかんと崩したのは彼の方だった。登校してすぐのこと、彼は私の名字を呼んだ。間近で聞いた彼の声は存外低くて、でも恐怖は感じなかった。何より彼が私を認知していたこと、そして彼から喋りかけてきたということに衝撃を受けていた。その間、間抜け面を晒していたと思うと恥ずかしいことこの上ない。顔から火が出そうだ。不信がられる前に、どもりながら用件を尋ねる。長い間声を出していなかった時みたく掠れた声が出て、己の声帯を恨んだが、彼は全く気にしていないように見えた。
「今日の放課後、委員会があると聞いた」
「ああ、うん。そっか、二宮くん委員会決めの日休んでたもんね」
「ああ。その件だが、俺は午後から防衛任務があるから授業を抜ける。放課後もいないから、委員会には間にあわない」
 すまない、と私の目を見てまっすぐ伝える彼に、心臓が握り潰されたような圧迫感を覚える。しどろもどろになりながら「気にしないで」と大仰な仕草で両手を振って、会話は終了した。彼が隣席に腰を下ろして、ようやく私を蝕んでいた圧迫感は消えた。別に威圧されたわけでも叱咤されたわけでもないのに、なんてヤワな身体なのだろう。私の可笑しな感情はお腹の底で僅かにとぐろを巻いている。
 まだ夏の残滓が残る始業式の日、二宮くんは欠席した。当初は体調不良かと心配していたのだが、恐らくボーダーのお仕事だったのだろう。二学期から彼の欠席率は高く、それでいて先生側からのお咎めもないようだったので、私はそう解釈している。始業式の終了後にやることと言えば、課題の提出や教室の大掃除などと盛り沢山で、その中の一つに委員会決めがあった。環境美化委員会という、催し事で活躍しないものの日常的には割と活動する、少々厄介な委員会に割り当てられてしまった私は、同様に割り当てられた男子の名前を見て仰天した。どう目を見開こうが擦ろうが、黒板に書かれた名前はここにいる筈のない欠席者──二宮くんの名前だった。欠席者に有無を言わさず割り当てるなど非道だとブーイングを上げる者は一人として見当たらない。そりゃそうだ。そうすれば自分が標的となるのは考えずとも分かる。誰しも面倒を被りたくないというのが本音なのだ。斯くして、私と二宮くんは環境美化委員会に配属されることとなった。
 委員会活動を通して憧れの人と急接近できるなどと夢見ていたわけではないが、こうして唯一の接点が絶たれるのは少し惜しいと思う。だが、委員会と引き換えに私達の平和が保たれているのならば、それは安すぎる代償だ。漫然と右隣を見つめる。一学期から一向に変化の兆しを見せない、落ち着いた佇まい。二宮くんは、違う世界の住人なのかもしれないと、漠然とそう思った。私を捉える一点の曇りもない瞳を思い出して、また息苦しさを感じた。
 この短時間で彼の内面的特徴がひとつ判明した。堅い口調と低い声色だけど、相手の目を見てまっすぐに話すということ。対面して対話して、改めて再確認させられる彼の真面目な性格と初めて目の当たりにする真摯な対応。夏の終わりと、二学期の始まり。


02.一寸先は闇
 季節は移ろい、肌寒い秋が来る。学校行事が何かと目白押しな二学期も、ようやく中間試験を終えて折り返し地点だ。午前で全試験が終了したにも関わらず、何故か私は正午過ぎにノートの束を抱えて階段を上がっていた。担任に用があった私は職員室へと赴き、その用事が済んだ後に世界史の先生からクラス全員分のノートの返却を命じられたのだ。先生からしてみれば三階まで行く手間が省けて丁度良かったのだろうが、此方にしてみれば厄介事を押し付けられて迷惑なことこの上ない。億劫な気分のまま、重たいノートを両手で抱えて階段を一つずつ上る。二階まで辿り着いたところで一休みと手摺りに寄りかかった。只でさえ猫背の私の上体は、重労働によって変に傾いていたのだろう。凝り固まった肩を解すこともできず自然回復に努めていると、私の身体を一回り大きな影が覆う。上履きの爪先から視線を離し、前方を見やって、心臓が止まりかけた。
「にのみや、くん」
 辛うじて声は掠れなかったが、震えているのが丸分かりだった。口内は見る見る干からびていき、水分一滴の残渣さえ許されない。
 彼は──二宮くんは私に一歩近付いた。香水とは違う、おとこのひとの香りが鼻腔をくすぐる。汗ばむ掌に力を込めて二宮くんの言葉を待つが、彼は無言のままノートを半分以上奪い取ってしまった。両腕にかかっていた負荷が少なくなり、はっと顔を上げる。彼は此方を一瞥して、さっさと階段を上っていってしまった。慌ててその後ろ姿を追う。一段飛ばしで駆け上がって、ようやく追いついた時には息が切れ切れになっていた。彼みたく長い足を手に入れたかったと、息を整えながら羨んだ。
「これは教室でいいのか」
「あ、うん…。あっ、いや、ごめんね二宮くん」
「別に。教室に行くついでだ」
 ペースを落としてくれたのだろうか、私の歩幅でも優に追い付けるスピードで、彼は私の隣を歩いてくれる。教室までの道のりがいつもより早く感じるのは、気のせいだろうか。
 テスト終わりの教室はもぬけの殻で、人っ子一人見当たらない。折角午後の授業がないのならと寄り道をしたり、部活の自主練に早く向かったりと、それぞれ有意義な放課後を謳歌しているのだろう。私も本来ならば彼等の仲間入りをする筈だったのに。世界史の先生を恨めしく思った。
 ひとまず重いノートを教卓に置き、何冊かに分けて各々の机に置いていく。その作業を二宮くんも手伝ってくれたので、ほんの数分で私と彼のものを除く全てのノートを返却し終えた。最後まで教卓に残った片割れを、「ありがとう」と感謝の意を添えて二宮くんに手渡す。それを受け取り自分の鞄に詰め込んだ彼は、「それはこっちの台詞だ」とぼそりと呟いた。独り言にむやみやたらに反応してしまうのは如何なものかと思ったが、私の有能な聴覚はそれを聞き逃さなかった。正直にその言葉の意味を聞き返してしまう。
「……この前の委員会、出れなかっただろう」
「ああ、うん。でも、それは仕方ないよ。二宮くんのボーダーの予定とかも考えずに皆決めちゃったんだし」
「それで迷惑がかかるのはクラスの奴らじゃなく、お前だろが。……今日はその埋め合わせだ」
 割に合わないと思うならまた別の埋め合わせを考える、なんて彼が言うものだから、私は全精力でかぶりを振った。気を遣っているわけでも何でもなく、委員会初日なんて自己紹介やら活動説明やらの簡単な雑務ばかりだ。二宮くんに見返りを要求できる程の大義を果たしたわけではない。「委員会と引き換えに私達が平和に暮らせてるんだから、十分すぎるくらいに割に合ってるよ」と笑って返せば、彼は少し目を見開いて、強く引き結ばれている唇に隙間を見せた。驚愕と憐憫、そしてひとつまみの興味。そんな感情が入り混じったような表情に、今度は此方が驚く番だった。
 ──二宮くんって、無表情以外の表情できるんだ。
 人間として当然のことではあるが、彼に関しては常識が通用するとは到底思えない。私にとって二宮くんは別世界の住人なのだ。彼を穴があくほど見ていた中で、喜怒哀楽やそれに準ずる表情を見た記憶はまずない。彼を盗み見るのが大抵授業中であるのでむしろ当たり前なのかもしれないが──彼の表情筋はその機能を果たしていないように思えた。やはり、見つめているだけでは知り得ないことも多い。接するようになって初めて気付くことは山ほどある。今日は収穫デーだと、密かに歓喜した。
「お前みたいなやつでも冗談は言うのか」
「えっ! ……一応本気、だったんだけど」
「なら尚のことだな」
 何が、と口を開きかけて、思わず息の根が止まった。大仰だと思われるかもしれないけど、本気で、私を生かす為に稼働する全ての器官が停止したかと思うほどに。今まで微動だにしなかった彼の口角に、ほんの僅かな微笑が浮かんでいた。まさに九牛一毛。私の脳がいいように解釈して起きた錯覚なのではと疑うほどに、瞬間的なもの。瞬きと共に彼はいつもの無表情に戻っていて。まるで、夢のようで、でも夢じゃない。
 クラスメイトが笑った。それだけのことで私の背筋にはどっと汗が伝い、頬に熱が走り、心臓はわななき震える。停止していた反動のように、すべての器官が暴れ出す。自分の身体なのに意志は全く反映されない。自制できない。キャパオーバーだ。
 様子のおかしい私に気がついたのか、二宮くんは少し眉を顰める。
「どうかしたのか」
「だ、大丈夫」
「具合でも悪いのか。顔色が」
「ほんとに平気! ほら、帰ろ、帰りましょう!」
「‥…なんで敬語なんだ」
 顔をしかめる二宮くんに申し訳なさを感じながら、赤い頬を隠すように彼の横をすり抜けた。二人だけの無音の空間では、自分の鼓動が彼にまで伝わりそうで耐え難かったのだ。廊下に出てから手にしていたノートを鞄に突っ込み、胸に手を当てて何とか呼吸を整える。通常運転を始めた身体に、安堵の息を洩らす。
 ガラガラと音を立てて教室の扉が閉められ、二宮くんが外から施錠した。少し不服そうな雰囲気を醸し出す彼は、職員室側に降りる階段へと歩き始める。恐らく鍵を担任へと預ける為だろう。帰るのならば昇降口側の階段へと向かうのが手っ取り早いが、私は迷わず彼の後に続いた。一人先に帰るというのはさすがに申し訳ない。一定の距離を保ちながら、彼の背中を追う。互いに無言を貫いていたのだが、階段に差し掛かった頃に彼から喋りかけてきた。
「……帰ると言っておきながら廊下で待ってたり職員室に着いてきたり、何がしたいんだか」
「ご、ごめん、……なさい」
「怒ってない。だから敬語をやめろ」
「うん……」
 会話の最中も此方を見ることはせず、ひたすら階下へと進んでゆく。先程まで肩を並べて歩いていたのが、今ではもう遠い昔のようだ。けれど、二宮くんの声を聞けただけで、私は馬鹿みたいに安心してしまったのだ。
 針金入りのようにぴんとした背筋に見とれるのも、話す度にしどもどするのも、憧れているからなのだと思っていた。私にないものを持っている彼に憧憬を抱いているのだと。でも、違う。私が抱いているものはそんなきれいなものじゃない。胸中を渦巻くものの正体は、きっと。

 はっとする。二宮くんはいつの間にか職員室前に立っていた。右手に収まっていたしろがね色が消えているのを見ると、もう鍵は返し終えたようだった。大急ぎで階下を降りると、段差の縁にある金属に引っかかりつんのめってしまった。何とか踏ん張ったおかげで転けるには至らずその場を凌ぐことに成功した。その様子を見ていた二宮くんは呆れ顔で溜め息をつく。
「危なっかしいな」
「ご、ごめん」
「謝らなくていい」
「ごめ……あっ、ううん、……なんでもない」
「‥…帰るか」
 その言葉にこくりと頷いて、彼の隣に付いた。
 私と二宮くんの関係を形容するなら、どんな言葉がぴったりなのだろう。クラスメイト? 同じ委員会? 友達以下? クラスメイトって、一緒に帰ったりするものだっけ。友達って、こんなに目で追いかけてしまうものだっけ。
 ──二宮くんは私をどう思っているのだろう。
 自分の気持ちすらままならないのに、彼の気持ちに逃げるのは、甘えのような、重罪のような気さえして、思考回路をぱたりと停止する。頭上の彼の顔を、もう真っ直ぐ見れなかった。


03.虎穴に入らずんば虎子を得ず
「好きです」
 熱を帯びていて、それでいて泣きそうな声が空気伝いに聞こえてきて、思わず扉の前にうずくまってしまった。盗み聞きしたいわけじゃないのに、足をセメントで固められたのかと錯覚するほどに、一ミリも動けない。人の真剣な告白に傍耳を立てるなんて、悪趣味にも程がある。けれど、その結果に興味がないと言えば、嘘になる。扉の小窓からちらりと見えたのは、美人なことで有名なクラスメイトと、ボーダーの構成員として有名なクラスメイト。どちらも見知った顔ではあるが、あろうことか後者は私の隣席に座る彼、二宮くんだった。彼の顔立ちの良さは筋金入りだ。女子同士の会話で彼の名が飛び出ることは幾度となくあって、それは大抵かっこいいだのイケメンだの容姿を褒め称えるものばかりだった。私が知らないだけで告白なんて両手では数え足りない程されているだろう。その事実を認識して、こうも胸騒ぎを起こすなんて。落ち着きたいがために額を膝小僧に当てて、前後に擦り付けた。痛みはない。むしろ胸のモヤモヤは全身に広がり始めている。教室の中にいる二人の会話が断片的に聞こえてしまって、落ち着くなんて到底無理な話だった。
「悪いが、付き合うことはできない」
「どうして? ……好きなひとでもいるの?」
「……俺は──」
 ガラッと音がして、背筋が凍り付く。音の元凶は隣のクラスの、数人の男子達だった。わいわいと騒ぎ立てながら教室を後にする姿を見て、息を吐く。昇降口側の階段に向かってくれたおかげで、私が見つかることはなかった。その代わり、重要な会話の一部を聞き逃してしまった。二宮くんは、何と言って断ったのだろう。
 今度は立て付けの悪い引き戸が静かに引かれる音。私のいる方とは反対の扉、昇降口側だった。出てきたのは二宮くんではなく、女の子のほう。薄く色付くお手本のような化粧を、パーツが整っているお手本のような顔の女の子がしている。けれど、大粒の涙のせいで化粧は剥がれ落ちてしまっていた。それでも思うのは、かわいい子は泣いてもかわいいんだなぁなんていう他人事みたいな感想。昇降口側の階段へゆっくりと歩く彼女は、此方に気付くことなく曲がり角で姿を消してしまった。静寂が包む廊下で、首元のマフラーに顔を埋める。胸騒ぎはいつの間にか収まっている。──ほっとしている。友人が失恋して安堵するなんて、なんて嫌な女なのだろう。ひとりきりの廊下は、安堵と自己嫌悪を交互に駆り立てる。
 感慨に耽っていたのも束の間、背後で勢い良く扉が開かれる音がする。扉にもたれかかっていた私は咄嗟のことに反応できず、重力に従って頭を床にぶつけた。これは痛い。しっかり機能している痛覚に行き場のない怒りをぶつける。痛みが遠退くにつれて、涙で歪んでいた視界がはっきりとしてきた。天井を仰げば、見知った顔が私を覗き込んでいる。感情の読めない、いつもの無表情。
「何をやってるんだ」
「えっと、忘れ物、しちゃって」
「会話を聞く必要はあったか?」
「ご、ごめん、……なさい」
「……」
 はあ、と嘆息を洩らす。「俺もお前がいると分かってて開けた。悪かった」そう謝罪した二宮くんは平然と手を差し出す。上体を起き上がらせた私は、手を取るべきか否か迷った。骨ばっていて、静脈の浮き出た白い手。目を白黒させてその手を見つめ、視界に入った彼の形相に萎縮し、恐る恐る彼の手の平に自分の手の平を重ねた。身体を起こす為の手なのだから当たり前だが──彼が私の手を掴んだので、ひっと反射的に声が出てしまった。一気に不機嫌になる二宮くんに思わず謝りそうになるが、「謝らなくていいから、さっさと起きろ」と釘を差され、そのまま引っ張られる。顔を曇らせていたのに思いの外声色が優しかったのは、私の単なる思い違い、だろうか。
 立ち上がった私に、二宮くんは机に置きっぱなしになっていた携帯端末を手渡す。間違いなく私のものだ。礼を述べて受け取り、スカートのポケットにしまい込む。呆気なく私の用事は済んでしまった。普段の私ならそそくさとこの場から退散した筈なのだが、何か、胸中を渦巻く何かが、私を後押しした。
「なんで、断ったの?」
 今度こそ彼は不快感を露わにした。眉間に皺を寄せて、いっとう顔を歪める。煩わしげな視線、歪曲した唇。無機質な表情に恐怖を感じたことなど一度もなかったのに、私の内側を満たしている感情は間違いなくそれだった。
 ──やっぱり聞かない方が良かったかもしれない。でも、聞かないなら聞かないで、後悔したかもしれない。どっちに転んでも後悔するのなら、きっとこっちが最善だ。
 此方も折れる気はない、と目で訴える。二宮くんは私に冷ややかな視線を浴びせていたが、間もなくして小さく吐息を洩らした。
「逆に聞きたいんだが、お前はほとんど話したことのない奴と付き合いたいと思うのか」
「……それは、」
「あちら側もどうして喋る機会のない俺を好きだと思うんだ。甚だ理解できない」
「それは! ……女の子は、単純なんだよ」
 まるで私のことを暗に言われているようで、咄嗟に反論してしまった。案の定、二宮くんは訳が分からないといった表情で睨み上げる。
 ──そんなの、私にだって分からない。
 何で二宮くんが告白を断ってくれてほっとしてるのかとか、何で彼の前では自我を保てず可笑しな言動ばかり取ってしまうのかとか、何で彼のことを羨望とは異なる眼差しで見つめるようになってしまったのかとか。理論派の彼は自分のことなのに分からないなんてどうかしている、と呆れ返るだろうか。
「……女子は、単純だから、目があったら気になっちゃうし、同じ係になったら舞い上がっちゃうし、喋れたら胸がドキドキするし、……そういう生き物なんだよ」
「……」
「だから、その、あんまり悪い目で見ないで欲しいというか……」
「……成る程な」
 驚きのあまり、目を見開いた。面倒な会話を終わらせたいなら、正直な彼は事実をありのままに伝えるだろう。得心がいった体を装って流れを断ち切るという回りくどい選択肢を取る筈がない。すなわち、今の言葉は紛れもなく彼の本心だった。あの二宮くんが、私の激情が入り混じった感情論に納得したのだ。雪でも降るのではと窓の外に目を配るも、日照りは強く、そんな気配は全く見せない。真冬の夕方だというのに、本日の太陽は働き者のようだ。
 切れ長の瞳が私を捉える。先の冷ややかな視線ではないけれど、随分と曰くありげな視線。思わず息を呑む。唾液を飲み込んでも喉は潤う気配を見せない。
「なら、男も単純だな」
「え?」
「誰かさんに食い入るように見られるし、話せばすぐ赤面するし、極めつけに告白紛いなことを言う。お前の理論では、この態度で勘違いするような男は単純なんだろう」
「えっ、う、え?」
 話が見えず状況整理を試みるが、混乱した頭はろくに働かない。辛うじて、今例に出された行動が総じて私に当てはまっているというのは理解できた。まるで彼の言葉が指しているのは私だと言わんばかりの例え。かっと頬が火照る。思い上がりも甚だしいと心中の私が必死で呼び掛けているのに、ありとあらゆる器官はお構いなしにヒートアップしてゆく。もう手遅れだった。あからさまに顔を朱色に染めた私に、二宮くんは無表情でこそあれ愉悦そうに見える。
 一歩、距離を縮められる。一歩どころではなく、二宮くんは二歩も三歩も歩みを進める。本能的に私も同じ速度で後退るが、何歩目かで背中が壁に激突した。ところどころ塗装の剥がれたコンクリートの壁は、衣服越しであっても冷たい。じりじりとにじみ寄る二宮くんを前にして、普段の私からは想像できないほど限界まで仰け反る。しかし猫背の私が背筋を伸ばせば、必然的に二宮くんの顔に近付くはめになる。どう足掻こうと私の心臓が早鐘を打つのは決定事項なのだった。
 二宮くんは私のほんの数十センチの距離で足を止めた。ここまで近くで見下ろされるのはノート運びを手伝ってもらったあの日以来だ。あの日と同じ、二宮くんの香りが鼻の内側に広がる。

 脳の髄まで、骨の随まで溶かしてしまう声。たじろぐ私に二宮くんはずっと視線を縫い付けている。今更ながら、もう逃げ場はないのだと悟った。もとより逃げる必要なんてどこにもなかったのだが──余裕を欠く私はまともな思考回路を失っている。
 引き結んでいた唇が、ゆっくり開かれる。
「俺はお前のことが──」
 現実味のない現実が、頭上から降りてくる。ふわふわと、ましろの雪のように、きらきらと。逃れられない現実は私の思い上がりよりずっと優しくてずっと暖かい。
 もう答えは出ていた。私が二宮くんに抱く感情の答え。憧憬ほどに清く正しいものじゃないし、私の内側から滲み出るどろどろは美しさの欠片もない。──それでも、見て聞いて話して触れてを経て私が彼に抱くようになった感情は、恋に他ならなかった。回答は導き出した。あとはもう、駆け出すだけ。


04.恋は思案の外
「近い」
 星降る夜空にぽつぽつと明かりの灯る住宅街。車窓からガラス越しに眺める景色は見慣れていてもうつくしく思う。そんな中、隣から聞こえてきた不機嫌な声は車内に響いて淀みを作った。確かに声の張本人との距離はほぼほぼゼロセンチに等しい。けれどこれには訳あって、飲み会後で千鳥足の彼を支える為に近付く他なくて、タクシーに乗り込んだ後もその名残でひっついていただけなのだ。心なしか二宮くんの細長の瞳はとろんとしている。「離れた方がいい?」と尋ねると、彼は一層語調を強めて「そうじゃない」とはねのけた。
「太刀川」
「太刀川くん?」
「距離が近すぎる。あいつの相手なんぞしてやらんでいい」
 その言葉で、ようやく合点がいった。彼が言っているのは今ではなくて先の飲み会でのことのようだ。本日の飲み会はただの飲み会ではなく、目的を有する会合だった。主役は否応なしにテーブルの真ん中辺りに座らされ、先輩からの様々な洗礼を受けることとなる。本日の主役は言わずもがな。彼はボーダーの先輩方にしこたま飲まされていた。そこまで酒に弱くない二宮くんが紅潮する様子は、ほんの少し面白かった。かく言う私も何故かボーダーの構成員ばかりが集まる飲み会に参加させて頂き、テーブルの端の方でちびちびと飲んでいた。部外者だからという遠慮もあったけれど、先輩や後輩と会話をする二宮くんは大学ではあまりお目にかかれなくて、その様子を眺めるだけでも割と楽しめたのだ。そこに気を遣ってくれたのか、唯の知人である太刀川くんが私の隣に来てくれた。彼とは二宮くん繋がりで知り合ったけれど、真逆の性格の友人にとても驚いたことを覚えている。彼はもう完全に酔いが回っている状態で、呂律が回っていないし言動もどこか危なっかしい。とは言っても、セクハラ紛いなことも二宮くんが危惧しているようなこともなく、むしろ笑い上戸の傾向が強かったように思う。誤解を解くためにかいつまんで説明するも、二宮くんはまだ不満げに顔をしかめていた。
「……男は単純だ」
「え?」
「ちょっとのことでも勘違いする。特にあの野郎は頭のネジがぶっ飛んでるからな」
 太刀川くん、ひどい言われようだな。そんなことをぼんやり考えながら、私は思わず吹き出してしまっていた。男は単純。懐かしいフレーズだ。
 タクシーが二宮くんの家の前で止まり、運転手に「着きましたよ」と告げられる。今更ながら、今までの会話を聞かれていたと思うとやや恥ずかしい。慣れっこなのか平然としている運転手に、二宮くんはぴったりの料金を手渡して車を降りた。「ありがとうございました」の声に会釈して、私も後に続く。十月の後半は肌寒く、強風も痛みに変わる。さむっと不意を突いて出た言葉に、二宮くんは少し此方を見て、手を差し伸べた。以前のように戸惑う必要は微塵もない。迷いなく自分の手を重ねると、指を絡ませるような繋ぎ方にして、彼のコートのポケットに引き入れられた。外気に晒される部分がひとつ減っただけなのに、二宮くんの温度が手を通じて全身に沁み渡ってゆく。
 ふと空を仰いで、あ、と声を上げる。二宮くんはその声に何事かと振り向いた。
「星、きれい」
 車内で見るより広範囲の、うつくしい眺め。雲一つない星空に目を奪われていると、彼の無機質な声が鼓膜に届く。
「そうだな」
「ええっ、ほんとに思ってる?」
「思ってる」
 平坦で抑揚のない声はいつものことなので気に留めることもないが、あまりに似合わない発言に、ふっと笑みがこぼれる。握り締められた手の力が僅かに強まった。
と見るものは何でもきれいだ」
 彼に似つかわしくない明け透けな物言いに、不覚にも胸が高鳴る。酔っているからこその発言だと分かっていても心臓に悪い。溜め息混じりに息を吐き、私が先導するように手を引っ張った。
 頭上の声はあの日から変わらぬ声色で、繋がれた手もあの日から変わらぬ体温。変わったのは私達の関係を形容する名称と、二宮くんの私の呼び方ぐらい。何も心配せずともそこにある二宮くんのぜんぶに安堵して、泣きそうになるくらいには、私は彼をあの日以上に好きになっている。きれいな姿勢も、端正な顔立ちも、不躾な物言いも、垣間見える優しさも、すべてを愛おしく感じるほどに、私は二宮くんに、恋をしている。きっと今も、昔も、これからも。

2016/10/27 二宮匡貴 HAPPY BIRTHDAY