滲む世界に花は咲くか
 私と匡貴は、生まれる前から幼なじみとして共に過ごすことを運命づけられていたと言っても過言ではない。母親同士は学生時代から続く大の親友であり、互いの家を行き来するなんて日常茶飯事。思春期の男女は周りの視線に過敏である故、ある種の決別が訪れるのも時間の問題となるはずだったが、それとも無縁のまま匡貴と日々を過ごした。お互い視線を気にして過ごす型の人間ではなかったことが大きいかもしれない。彼の隣を歩んできた年月は間違いなく私が一番長かった。だからこそ、誰も知り得ない匡貴の一面を知っている自負もある。逆に彼の方も、私すら知らない私の性分を心得ているのだろう。私と匡貴は、そういう間柄だ。
 ここまでであれば気心知れた幼なじみの美談のようにも取れる。だがしかし残念なことに、これは私と匡貴という関係の一側面を切り出したに過ぎない。隠れた側に潜む一面は、世間一般で言う仲睦まじい幼なじみというイメージとは少し異なる。まず第一に、幼なじみである二宮匡貴は稀に見る堅物男であるということ。表情筋は全く働かないし、誰も知り得ない匡貴を知っているなんて格好付けてみたが、実際は眉や声色で感情を示す匡貴を知っているというだけだ。ただその分、彼の喜怒哀楽を瞬時に感じ取ることには長けているとは思う。眉目秀麗な顔立ちで周囲の視線を惹きつけておきながら、少々厄介な性格をしているせいか、誤解されることも少なくない。その度に誤解を解くのは自分の役目であり、苦労に苦労を重ねたものだ。第二に、私はそんな唐変木に密かに思いを寄せているということ。ライクではなくラブ。友愛や慈愛とは程遠い、異性に寄せる好意。いつからそれが芽生えたのかは定かではない。物心つく前から隣にいるのが当たり前だったが、それは幼なじみとしてだ。何がどうなって二宮匡貴への恋慕なんていう感情に転がり落ちたのか、自分でも理解不能である。ただ分かるのは、ふとした瞬間に匡貴の纏う雰囲気が和らぐ瞬間が、とても好きだということだけ。本当にそれだけなのだ。それ以外は幼なじみとは言えお世辞にも好きとは言い難い。けれど、いくら考え直してみても、この先私が匡貴以外の男性と肩を並べる未来を想像できない。匡貴に恋人ができたとして、隣を歩く女性が私から別の女性へ移ろってしまったとしても、きっと私の隣は空白のままだ。
 この思いを伝えてどうこうするつもりはない。幼なじみの冷徹な性格はよく分かっているし、言ったところで「俺がお前とそんな関係になりたいと思うか」と一蹴されるのがオチだろう。互いに成人した今になってさらけ出す勇気も生憎持ち合わせていない。どこまで行っても平行線、どこまで行っても交わらない。それでも、匡貴の隣でいられるなら十分だ。幼なじみが恋人に敵わないとしても、今隣に立てるならそれだけで十分なのだ。


 ボーダーの任務や飲み会の予定が入ってないのを確認して飲みに誘ったのは私の方だ。下心がなかったと言えば嘘になるが、それ以上に溜まりに溜まりきった愚痴の数々を吐き出したかったのが本音だ。バイト先の嫌みったらしいチーフ、サークル内の痴情のもつれ、エトセトラ。人間関係を気にせず吐き出せるところは幼なじみの利点だ。友人内で吐露すれば知らぬ間に噂となって広がっていたというのは珍しい話ではない。親密な間柄だからこそ許される愚痴や本音。それに対して、匡貴は適当な相槌を打ちながら無表情で受け流す。真摯に悩みを聞いてくれることを望んでいるわけではないので(むしろ親身な匡貴なんて真っ先に体調不良を疑う)これくらいの対応が丁度良かった。
 オープンカフェで文庫本片手にコーヒーを啜るのが日課のような出で立ちでありながら、人並みに焼き肉を好むと言うのだから、面白いことこの上ない。今この瞬間も、上品かつ洗練された動きで焼き肉を口に運ぶ匡貴は誰がどう見てもミスマッチだ。彼とありふれた友人をしていてはこの人間味溢れる姿は早々見られない。或る意味、これも幼なじみの特権だ。「何をにやついているんだ」匡貴のその言葉で、ようやく自分の頬が緩まりきっていることに気が付いた。溜め息混じりに愚痴をこぼしたり、かと思えば浮ついた表情を浮かべていたり、感情の推移が激しい奴だと思われただろうか。「何でもない」と平生を装いながら、気を引き締め直す。匡貴も特に気にした素振りは見せず、手元にあるメニュー表を開いた。どうやら追加注文する品を見定めているらしい。「ついでに生も」と付け加えると、叱咤するかの如く一睨みされた。私側の机上には飲み干されたグラスが一つ。片された分も含めると、今日の私は明らかに飲み過ぎのレベルに達していた。所謂飲まなきゃやってられない状態なので少しは大目に見て欲しいものだ。目でそう訴えかけると、匡貴は諦めたように息を吐き、呼び出しチャイムを押した。それなりに酒の飲める私とは対に、匡貴は普段からあまり酒を嗜まない。「俺が酔ったら誰がお前の面倒を見る」だの何だの言って断っているが、実のところアルコール類にちょっとした苦手意識を持っていることは把握済みだ。結局、私は追加で一杯酒を頼んだ。匡貴は一口も酒を口にせず、適当に頼んだ肉と米で腹を満たしていく。互いに腹八分目のところで会計を済ませて店を出た。直後、火照った身体に夜の冷気が染み渡る。寒気に耐えきれず外套のポケットに手を突っ込んだ。元より隣の男はそれがデフォルトなので問題ない。寒い日に手を繋ぐのは恋人の常套句であって、幼なじみの常套句ではない。白い吐息が空中に消えるのを眺めながら、ふと名案を思い付いた。
「ねえ、私んちで宅飲みしよ」
「まだ飲み足りないのか」
「うん。そんなに酔ってないし、よゆー」
「嘘をつくな。さっさと帰って寝ろ」
 日頃から二人で宅飲みをすることは少なくない。しかし、流石の匡貴も絡み酒に付き合うのは御免だと考えたのだろう。呆気なく断られた私は仕方なしに帰路を辿る。途中コンビニで自分用の酒を買いたいと頼むも、それも却下された。自分が飲めないからって血も涙もない男である。
 私と匡貴の家は徒歩15分程度の距離に位置している。大学進学を機に一人暮らしを決意した時はどうしようもない寂寥を感じたものだ。だから余計に、匡貴が近しい距離の部屋を借りたと知った時には心が弾んだ。私と離れたくなかったんじゃないか、と淡い期待を抱いたりもした。実際は交通の便が良いとか、妄想に掠りもしない理由だったけれども。今日みたいに飲みに行った帰り、彼は必ず部屋の前まで送ってくれる。時には部屋に上がって行くこともあるが、送り狼にだけは絶対にならない。言うまでもなく私達は幼なじみなのだ。必ずどこかしらにボーダーラインが引かれていて、それを跨ぐことは許されない。決して。
 腕を引かれる。咄嗟のことによろめいた私は何事かと隣を見上げるが、それと同時に匡貴とは反対の隣を何かが突っ切って行った。軽自動車だ。私達が歩いているのは住宅の密集する狭い路地。ガードレールのない歩道上では、車一台とすれ違うにも一苦労である。腕を引かれなければ少々危うかったかもしれない。特に酔いが回って足下がおぼつかない私にとっては。匡貴はそのまま私を住宅側に寄せて自らは車道側へと移動した。「気をつけろ、酔っ払い」散々な言われようだが、その内に秘めたる優しさは容易に理解できた。頬が緩む。こんな少女漫画でしか見たことのない展開を、あの匡貴が生み出したのだ。「ありがと」と口にすると、彼はそっぽを向いて再び歩き始める。おそらく照れている。何年も側にいれば幼なじみの照れ隠しを見分けることなど造作もない。匡貴の何が好きって、こういうところなんだと思う。悔しいけど、彼の何の気なしの行動に一喜一憂する自分はやっぱり彼が好きなんだと再認識させられる。
「好きだよ」
 唐突にそれは口の端から落っこちた。酒で温もっていた身体が一気に冷え込む。浮ついた自分から我に返り、鈍っていた思考回路は別のベクトルで回り始めた。一体全体、私は何を血迷ったというのか。彼に恋しておおよそ二十年。その間、ずっと自分の感情をひた隠しにすることだけは得意としていたのに。何故今になって口が滑るという失態を演じてしまうのか。消えてなくなりたい。穴があったら入りたい。自分の阿呆加減に呆れて物も言えない。何とか弁明の場を設けようと口を開くが、それより先に頭上から声が降り注いだ。
「そうか」
 それだけだ。私の顔を一瞥して、再度前に向き直った。いつもの無表情は崩さず、動揺も焦燥も見られない。歩く速度も変わらない。幼なじみの告白に対して、何のアクションも示さない。もうそれが全てだった。予想していたどの受け答えよりも胸が抉られる。せめて「幼なじみは対象外」だと断ってくれた方がまだましだ。積み上げてきたものが一気に崩れ去る感覚。さながら並べたドミノを途中で倒してしまった時のようだ。滑稽だ。視界が涙の膜で歪んだ。必死に泣くなと堪えるが、決壊はすぐそこに迫っていた。千切れんばかりに唇を噛み締める。泣いたところで、状況は何一つ変わりやしない。
 幸せと不幸は紙一重って、まさしくこういうことなのだろう。いつまで経っても幼なじみという立場に甘えていた自分への天罰なのかもしれない。私は考えることを放棄した。今はただこの沈黙が息苦しいだけだ。
 当たり前のように、匡貴は私を部屋まで送ってくれた。そこに至るまでの道のりは互いに終始無言。鍵穴に鍵を差し込み、ドアノブを捻る。鈍い音を立てながら扉は開いた。重たい雰囲気の中、先に口を開いたのは匡貴の方だ。
「鍵はちゃんと閉めろ。お前はすぐ閉め忘れる」
「ん」
「腹出して寝るな」
「分かってるよ」
 これはいつも行うやり取りだ。匡貴の中では、あくまで今日もいつも通りの飲み帰りという認識らしい。お前の告白なんて気にかけるにも値しない、と暗に言われているような気さえした。考え過ぎだと分かってはいる。いるけれど、現状を受け止める余力はもう残っていない。夜にひとしきり泣き喚けば、明日からは私もまた元通りの幼なじみという認識に戻れるかもしれない。派手に玉砕したと思うよりは、そっちの方がよっぽど良かった。送り届けてくれた礼だけ述べて、気まずい雰囲気を断ち切るように扉の隙間に滑り込む。しかし、その最中に背後から聞こえてきたのは聞き間違える筈のない、匡貴の声だ。「」平常通りの声で、私の名を呼んだ。この至近距離で聞こえなかったと言い逃れはできないだろう。今日のこれからと明日の手厳しい追求を天秤に掛けて、渋々振り返る方を選んだ。なに、と尋ねるよりも先にまたもや腕を引かれる。再びアパートの廊下に出戻った私は、後方の扉が閉まる音を聞きながら、二人きりの廊下に立ち尽くしていた。立ち尽くすというのは少々語弊がある。私は腕を引かれたと同時に匡貴から口付けをされて、立ち尽くさざるを得ない状況だからだ。触れ合うというよりは、押し付けられているという表現の方が正しいだろう。私の意志なんてお構いなしにキスをして、お構いなしに唇を離した。目を丸くする私に「さっさと寝ろ」と小言だけ言って、自分はとっとと踵を返してしまった。エレベーターへと乗り込む匡貴を確認して、ようやく自室へと戻る。鍵はしっかり閉めた。そしてその瞬間、身体の力が一気に抜けて、床にへたり込んでしまった。萎んでいく風船って、こんな感じなのだろうか。扉に背中を預けて暫し呆ける。今の今まで寒空の下で震えていた筈なのに、やけに身体が熱い。かじかんだ指で唇をなぞった。私の夢や幻想でない確かな感触を唇は覚えている。あの匡貴が、米国の挨拶をするユーモアを持ち合わせていたとは考えられない。つまり、そういうことだと受け取っても良いのだろうか。途端に羞恥が首をもたげてきた。身体の芯を揺さぶる熱を追い出すべく、何度も息を吐き出す。もう深夜に差し掛かる頃合いで、こんなところで悠長に構えている暇はないというのに、身体は麻痺しているかの如く思い通りに動かない。ぎゅっと目を閉じてうずくまる。変化の乏しい表情で、そのくせ整った顔立ちで間近に迫る匡貴の姿が、やけに鮮明に映し出された。
 幼なじみの感情の判別なんて他愛もないと大見得切っていたのはどこのどいつだ。何にも分からないじゃないか。匡貴が瞳の奥で何を想っているかなんて。あの冷ややかな瞳に微かに熱が籠もっていたなんて、何も、知らない。

2016/02/11