ephemeral venus

そまるものについて
浅倉透

切創
樋口円香

満ちゆくさくら色
福丸小糸

BURNING!
市川雛菜 ※倫欠

21/09/28〜22/05/29














「いいね、レモン味」
 彼女の言葉って、難解で婉曲的で、極論適当だ。早計かと思われた推論も、徐々に確信を持ち始めていた。
 首を捻る。かき氷を食した後の名残のせいで、鈍い思考は中々先に進まない。惑う私を置いてけぼりにして、浅倉さんはひたすら氷山の一角を削り落としては口内に招き入れている。美しく整った顔は澄み切っていて一点の曇りも見えない。……頭、キーンてならないのかな。次第に正常を取り戻していく脳内は、異端なクラスメイトの生態に興味津々だった。
 芸能人になることを宿命付けられたような美貌と周囲を魅了するカリスマ性を兼ね備えていながら、浅倉さんは至って自然体だ。飾らない性格も、悠然とした佇まいも、画面越しに見る彼女と教室に籍を置く彼女とでは何ら変わりない。表裏の境目を溶かし合わせて同一化している。上手に言い表す自信がないけれど、それでも言語の力を借りるなら――手を伸ばせば届きそうな距離にいる女神のような存在だ。分不相応だと理解していても一縷の望みを見出して触れてみたくなるような、そんな絶妙な距離感に引き込むのがとてもうまい。今も、その真っ最中だ。
 文化祭だった。クラスごとに催す出し物はお化け屋敷に決定した。私と浅倉さんは順路の裏側から隙を窺って来客を驚かせるお化け役を担当していた。過去形なのには理由があって――と言っても大層なものでもなくて。現在の時間軸にいる私達はふたりしてお化け役を放り出し、会場を抜け出し、人気の少ない校舎裏でこっそり避暑に勤しんでいた。灼熱の気温を受け付けない木陰の溜まり場は、人の熱気で賑わう学舎から逃れて涼を取るには打ってつけだった。遠来からたゆたう拙いギターの音と黄色い歓声だけが、辛うじて文化祭の雰囲気を連れてきてくれる。あと、逃走する道中で命からがら手に入れたかき氷。ふわふわというよりシャキシャキの氷塊と人工的な甘さのシロップが、学生ならではの素人感を醸し出している。ただの氷と甘味料に舌が踊っているのは、お祭り騒ぎの空気に酔っているからか、それとも秘密のひとときに舞い上がっているからか、はたしてどちらだろう。
 小さな悪事の発起者は、何食わぬ顔で真っ赤に染まったかき氷を味わっている。私の色覚が失われていない限り、どこからどう見てもあの色彩はレモン風味ではないだろう。第一、レモン味を注文したのは私の方だ。益々謎は深まる。
「浅倉さん、レモン味じゃないよね?」
「ふふっ、うん」
 当然、と言わんばかりのしたり顔が返ってきた。長い睫毛に縁取られた瞳が瞬いて、揺らめいて、私に向かう。途端に息が詰まる。まるで肺が呼吸の作法を忘れてしまったみたいに。
「黄色になってる」
 何が――そう問おうとした直前、小さな口に仕舞われていた小さな舌がちろりと顔を出した。透明な空気を纏う浅倉さんからは考えられないくらい、血を垂らしたような真っ赤な色だ。普段は鳴りを潜めている真紅の露呈に、背骨から抜けていくような顫動が走る。
「私、イチゴだから」
「……あ、」
「そのままでしょ」
 その一言で、浅倉さんの舌もわずかに人工的な色彩に染められていたこと、彼女が羨む別の色彩に染められた舌があることを理解した。その舌を擁するのが、レモン味を堪能している私であることも。舌頭から舌根まで、奇抜な真っ黄色に染まっている光景は想像するに容易い。喉に刺さっていた小骨が取れたような開放感だった。やはり彼女の言葉は複雑なようで単純だ。
「……浅倉さんも食べてみる?」
「え、いいの」
 興味に疼く視線が手元に貼り付いたままだったので、それとなく尋ねてみる。本当は緊張で指先が震えたし、羞恥で舌がこんがらがりそうだった。けれど、どうにか最低限の平静は取り繕えた筈だ。浅倉さんは目を真ん丸にして、それから柔く目尻を下げた。
 ストロー製のスプーンが遠慮なく氷山に突き刺さり、シロップを巻き込んで一匙分攫っていく。お人形さんみたいな目鼻立ちなのに案外豪快だ。かき氷は一口で飲み込まれてしまった。咀嚼音を響かせて氷を食む浅倉さんは、やがて唇を窄めて目を細めた。
「うん、酸っぱい」
「レモンだもんね」
「だね。さん、どう?」
 また、浅倉さんは無防備に舌を覗かせる。しかし、残念ながら彼女の望む色には染まっていなかった。土台の色が鮮烈すぎたのか、上塗りも混色も叶わずに赤色だけが居残っている。私が首を横に振ると、無念の募る表情で浅倉さんは肩を落とした。
「浮気したから怒ってる」
「え、う、浮気?」
「イチゴがさ、まだ残ってるよーって。だから染まらないのかも」
 独特というか、斬新というか。浅倉さんの常軌を逸した思想には度肝を抜かれるばかりだ。でも真剣な瞳に射抜かれてしまうと、本当にあり得るのではないかと錯覚に陥ってしまう。私は生唾を飲み込みながら頷く他なかった。
 染色に諦めが付いたのか、はたまた浮気を反省して一途を決め込んだのか、浅倉さんは再び自分の牙城を切り崩し始めた。割合多めのシロップの沼地に浸されて、氷が見る見るうちに崩壊していく。
「かき氷さ、夏祭り思い出す」
 うっとりと聞き惚れる声に耳を澄ませる。私が相槌を打つより先に、浅倉さんは口を走らせた。
「小さいとき、樋口達とよく行った」
「…………、」
「いいよね、お祭り。目も耳も舌も忙しくて」
 途端に視界の彩度が落ちた。控えめに顔を覗かせる空色の毛先が、先程まであんなに美しく色付いていたのに今は色褪せて見える。
 ――イチゴの気持ち、分かっちゃった。こめかみの奥で鳴り響く鈍痛が、私の烏滸がましい羨望を嘲笑っている。誰かに染まる浅倉さんの記憶すら疎ましいなんて、今更で身の程知らずで、ばかだな。
 手元のかき氷は、気温と体温ですっかり無残な液体に成り果てていた。





 明るい世界が嫌いだ。スポットライトを味方に付けて汗も涙も武器に変えてしまう姿が癪に障る。他人の幸せをかき集めたような呑気な笑顔には腸が煮え返りそうになる。画面越しでしか目にしたことのないアイドル、その総体的な概念に抱く印象はこんなところだった。さして明確な理由のない、言ってしまえばただのやっかみだ。才能も度胸も愛嬌すらないくせに劣等感ばかりを孕んでいる私、その対極に位置する彼女達へのお門違いな片恨み。そう理解はしている。けれど、一ファンどころか熱烈なアンチですらない些末な人間の意見なんて彼女達の目にすら留まらないだろう。ちっぽけな譫言として、露呈することなく消えていく。一生交わることのない世界に生きるひと達だと、そう言い聞かせることで冷静を保ち続けていた。
 世界の壊れる音は、ガラスの割れる音に似ていた。実際そうだった。私の手から滑り落ちたお気に入りのマグカップは、粉々に砕けて原型を留めていない。でも、その状況に狼狽する余裕もないくらい、私の意識は別の惑星に飛ばされていた。
 画面越しに映るその惑星から、彼女の歌声が聞こえた。透明感に包まれた声からは隠し切れない優しさが滲み出ている。
 選ばれた者しか立てない壇上で、彼女は踊っていた。繊細なレッドブラウンの前髪からは、淡い輝きを放つ瞳が見え隠れする。
 爪先から力が抜けていって、気付けば私は床にへたり込んでいた。既にテレビの液晶は見知らぬバンドボーカルの特集へと切り替わっている。大物新人を発掘する目的らしい音楽番組は、その余韻に浸らせるつもりなんて毛頭ないようだった。全く興味のないVTRを打ち切るようにテレビの電源を落とし、魂の抜け落ちた身体で床に手を付いた。そのときだ。
「っ……いた」
 指先に激痛が走る。肉体に魂が宿る。割れたマグカップの破片に傷つけられて、ようやく私の意識は帰還した。ぷっくりと膨らむ鮮血色が破裂して、真っ赤な懸河ができあがる。溢れる血液の奔流のように、脳内には一気に現実が雪崩れこんできた。
 見違える筈がない。聞き違える筈がない。そんなわけがない。でも、さっきの映像がそうだって仄めかしている。さっきの歌声がそうだってねじ伏せてくる。こんなのおかしいのに。
 ――ねぇ、円香。どうして貴女がそっち側に立ってるの。


 一睡もできなかった弊害か、寝覚めは最悪だった。本当に最悪なのは、学校に行けば嫌でも後ろの席の円香に顔を合わせなければならないことだった。
 休み時間に回ってきたプリントを絶妙に視線を逸らしながら手渡したとき、それは起こった。細長い指が恣意的に、私の指に触れる。そこから柔く手首を掴み上げられるまでは一瞬だった。白日の下に晒された人差し指には、皺くちゃになった体裁ばかりの絆創膏が貼られている。円香の呆れたような溜め息が宙にたゆたって、思わず心臓が唸りを上げた。
「絆創膏、巻くの下手すぎ」
 言うが早いか、円香は間髪入れずにぺりぺりと絆創膏を捲り始めた。水で濯いだりシャーペンを握ったりと学校生活を送る中で、既に粘着力は極限まで落ちている。装飾品にすらなれないそれは、呆気なく皮膚から剥がれ落ちた。机上に転がった無惨な姿は蛆虫みたいだ。そうして、円香は取り出した新たな絆創膏を私の指先に巻き始めた。触れられた末梢が、甘く痺れる心地を運んでくる。
「……でも、さ。うまく巻けても水に濡れたらだめになっちゃわない?」
のはそれ以前の問題でしょ」
 喉から振り絞った声に反して、円香の声は変わらず冷静だった。寡黙な辛辣もその証だ。彼女の唇が私の反論を一蹴している間に、人差し指には絆創膏が隙間なく巻かれていた。円香は手先が器用だ。何でも程々にできる。その裏には不器用な性格と、程々に至るまでの惜しまない努力があることは、あまり知られていないだろう。
 きれいに傷口が覆われた指をまじまじと眺めながら、私は素直に感謝の意を述べた。まことの思いでも、やはり面と向かって言うことはできなくて、目線の照準は円香の肩峰あたりに漂わせた。丁度冷房の真下のためか、内巻きにウェーブのかかった毛先が微かに揺れている。彼女の呼吸に合わせて踊っているようでもあった。ぼんやりと、そんなことに思いを馳せた。
「何かあったの」
 それは唐突だった。あまりに唐突だったから、顔を上げることにすらそれなりの時間を要してしまった。意図せず首を擡げたとき、今日初めて私は円香と視線を交わした。幻想的な夕焼けを思わせる淡い暖色が、じっと私を捉えている。胃の腑が縮み上がるような心地がした。
「……何か、って」
「珍しいから。この怪我も、目の下にできてるその隈も」
 その切れ味抜群の端的な指摘を受けて、じわりと目頭が熱くなるのを感じた。ずるいよ。私の変調をいとも容易く見抜いてしまう観察力と、尖った性格を隠れ蓑にしている優しい心配り。円香のそういうところが本当にずるい。だって、実際は自分の方が摩耗しそうなくらい大変な状況だろうに。
 昨晩、寝惚けまなこを擦ってネットの海を彷徨った結果、得られた見解は散々なものだった。有名らしいアイドル事務所から排出された円香とその幼馴染は、新人のくせに生意気だの、先輩の顔に泥を塗っただの、とにかくひどい言われようだった。素性も中身も知らないのに、たった数分のトークとパフォーマンスだけで人格を決め付けて誹謗中傷するようなものまであった。目を疑った。華々しい世界だと思っていた幻想が、見る影もなく崩れ去っていく。
 ――こんな顔も名前も知らない誰かにずっと後ろ指を指されながら、彼女はこの世界を歩いていくの? 私の手の届かない、宇宙よりも遠く感じるあの明るい世界で。
「……大丈夫。何ともないの」
 思っていたより、ずっと覇気のない返事になっていた。冷たく沈んだ声を上塗りするように、慌てて溌剌とした声を出す。つくり物で紛い物のそれは、賑わう教室では見事に調和した。
「円香こそ何かあった? 眠そうだけど」
「……それは元から」
「ふふ。うん、知ってるよ」
 白々しいにも程があるはぐらかし方に、聡い円香ならば勘付いただろう。別世界にいる自分に、私が巡り会ってしまったこと。
 円香がアイドルになった事実を私に明かさなかったのは、その話題に触れてほしくないからだ。どういう経緯でとか、どういう心境の変化があってとか、気にならないわけではない。でも、こっちの世界の平穏を保つためならば、そんな些末なことは知らないままでいい。無用の長物だ。
「私はずっと、円香の味方でいるよ」
 だから、ずっと、貴女も知らないふりをしていてね。
 予鈴に紛れた私の呟きが、円香の耳朶に触れたかどうかは定かでない。ただ、彼女の目がわずかに見開かれる瞬間を捉えた。本鈴が鳴るより先に、捩じっていた身体を元に戻して私は前方に向き直った。
 明るい世界が嫌いだ。一ファンでも熱烈なアンチでもない。でも、だからこそ。
 スポットライトなんて人工的な注目を浴びせなくたって、窓から兆す自然光があれば彼女は小さなきらめきを放つ。艶めく髪も、仄かな血色を帯びる肌も、きれいな光を宿す瞳も、ぜんぶ私は知っている。
 それが良いんだ。顔も名前も知らないひと達は、せいぜい偶像相手に一人相撲を取っていれば良い。明るい世界じゃないところで生きる円香を知らないまま、その生涯を終えてしまえば良いんだ。
 ――ねぇ、円香。例えこの思いが叶わなくても届かなくても良いから、貴女のこと、ずっと好きでいさせてね。





 貧乏くじを引き当ててしまった。これが新学期が始まって早々に図書委員に任命された率直な感想だった。週に一度は貴重な放課後を犠牲にしなければならない、委員会の中でも厄介な部類のそれ。文学を嗜む趣味を持ち合わせていない私はただただ気が滅入った。重苦しい溜め息が空気に沈んでいくのも必然だった。
 ――と、ここまでが数週間前の私だ。今の私はあの頃と全くの真逆の道を行き、気が付けば本に埋もれるひとときを謳歌するに至っていた。文庫本を繙く習性ができたとか網膜が活字に慣れたとか、別段そういうわけではない。私の興味は無口で堅苦しい書物にではなく、饒舌な生き物に向かっていた。
「あ……この新作……! 読みたかったやつだ……」
 返却ボックスに溜まった本を定位置に戻す業務に勤しんでいると、控えめな独り言を鼓膜がキャッチした。爛々と弾む声は本棚の向かい側から漂ってくる。直感した。あのときの彼女だ。本と本のわずかな隙間に視線を潜り込ませると、行き着く先には思い描いていた少女の姿があった。一冊の新書を手に取って顔を綻ばせている。その笑顔は今の季節にぴったりの、春めいて柔らかなものだ。嬉々たる手付きでページを捲り出す少女はやがて静かに唇を食み、真剣な面持ちで読書に耽り始めた。
 書架の森に内気そうな小動物が迷い込んできたのは、私が図書委員としての職務に就いた初日のことだった。着崩されていないまっさらな制服と、四方に動き回る挙動不審な眼球が、彼女は新入生であることを物語っていた。つい先日まで中学生だった名残だろうか、あどけなさの抜けきらない、良くも悪くもどこにでもいそうな女生徒。第一印象を捻り出すことすら困難を極めるくらい、当時の私の記憶には残らなかった。その認識を覆されたのは翌週のことだ。
「どうしよう……脚立……近くにないかな……」
 今にも雨粒を弾き出しそうな仄暗い曇天を思わせる、不安そうな声だった。この日は書架の整理に勤しんでいたのだが、聴覚がその呟きを捉えてしまえば作業の手を止めないわけにはいかない。引っ張り出していた本を再び押し戻し、本棚の向こう側に身を乗り出す。予感は見事に的中した。繊細な毛先を揺らして遥か頭上を見上げる女生徒は、先週見かけた名前も知らない初々しい彼女だった。朧気にしか知覚していなかった彼女の存在がくっきりと縁取られて記憶に蘇る。
 少女は爪先を上げたり下げたりを繰り返しながら、本棚の最上段目掛けて手を伸ばしていた。どうやら読みたい本がその段にあるらしい。けれど、彼女の身長では後一歩も二歩も届かず、不安定な体勢は目を塞ぎたくなるほど危なっかしい。逡巡している余裕もなく、危機感を覚えた私の身体は勝手に動き出していた。
「お取りしましょうか?」
「ぴぇ……! っ……」
「脚立取ってきますね。ひとりだと危ないから」
 呼び掛けに反応して少女の肩が跳ねる。怯えた表情でこちらを振り向く様子は、まるで腹を空かせた肉食獣の気配を感知した兎のようだ。悪事でも働いてしまった気分に陥りながら、簡易的な脚立を運んでくる。少女は本棚の陰から身を潜めるようにして、こちらの動向を窺っていた。脚立に上って彼女が照準を定めていたであろう本を掴み取る。やや色褪せている表紙を見えるように掲げると、下で待ち侘びている彼女はわずかに眉を開いた。
「これで合ってます?」
「…………あっ、はい」
「はい、どうぞ」
 脚立から降りて本を差し出す。よほど読みたかったのだろう。彼女は手元に渡った本を至極大事そうに胸に抱えた。深みのあるバイオレットの瞳がなよやかに弛み、口元には溢れそうな微笑が乗じる。その表情は、さながら妖精のようだ。無邪気な笑顔には立ち入ることを躊躇う神聖な純真さがあり、どこか庇護欲を掻き立てられる。その一瞬で、私は彼女の笑顔に惹かれてしまっていた。凄まじい求心力があった。
 脚立を折り畳んで、ごゆっくりの含意を込めて軽く一礼する。その後は不信がられないようにさっと踵を返した。何だか胸が熱くて痛くてむず痒い。けれど、朝日を浴びた後を彷彿とさせる清々しさすらある。変な感じだった。案の定、その後の作業は中々身に入らず、正真正銘の心ここにあらずを経験することとなった。
 笑顔がかわいい女の子なんて、それこそ星の数ほどいる。けれど、彼女の表情が開花する桜のように一変したからこそ、私は心を奪われたのだろう。鮮やかなさくら色が満ちていく様子は、胸を穿つ何かがあった。
 そんなこんなで、退屈していた視線は各所に飛び回るようになり、呆けていた聴覚は人のさざめきに敏感になった。私のありとあらゆる五感が活力を得ていく。まさかこんな不純な動機に振り回されるなんて、と思う反面、新学期特有の億劫さが打ち消されている健康体が面白くもあった。
 今日も鼓膜に染み込んできた彼女の声によって、心が朗らかになっていくのを感じる。話し掛けるつもりは毛頭ない。見知らぬ他人に呼び止められても、彼女は困ってしまうだろうし、最悪涙目で走り去られてしまう可能性すらある。でも、静まり返っている図書室の一角に響く独り言に耳を傾けているだけで、確かな充足感で満たされていくのだ。寧ろ分かっていて盗み聞きしているのが申し訳ないくらいに。
 それだけで充分、それだけで満足。その筈だった。
「……あ、あのっ……すみませんっ……!」
「えっ」
 背後からの大声に、今度は私が硬直する番だった。さすがに誰かさんみたいに身の危険を感じて縮こまったりはしないけれど、それなりに驚きはした。まさかと思いつつ、恐る恐る振り返る。目の前には、件の少女が立っていた。
 現実を直視すればするほど、私の脳内はこんがらがった。でも、それ以上に限界を迎えているのは彼女の方だろう。握り締められたスカートの裾が皺くちゃになっている。りんご以上に真っ赤に染まる頬が、彼女のコミュニケーションにおける精一杯を示唆していた。
「……あ、返却ですか? それならあそこのボックスに……」
 勢いよく首が横に振られる。不正解らしい。正答を導き出せずに首を傾いでいると、突然彼女はブレザーのポケットを探り始めた。
「こ、これ……その、良かったら!」
「……飴玉?」
 勢いよく首が縦に振られる。肯定のようだ。私の目の前に差し出されたのは、桃色の包み紙に包まれた飴玉だった。ポップな字体でさくら味と記されている。照明の真下に掲げると、包み紙を透いた先の光沢がきらめきを放った。
「……こ、この前、助けて頂いた、お礼です!」
「……ああ、あのときの」
「あの、ありがとう、ございましたっ……!」
 深々とお辞儀をすると、少女は面映ゆそうにはにかんだ。真っ赤な口内から、今まで露見されなかった真っ白の八重歯が露わになる。かわいいチャームポイントだ。こうして真正面から彼女を捉えなければ、一生知り得なかった真実だろう。不覚にも心臓が高鳴っていた。
 春先の木洩れ日のような笑顔を撒き散らしながら、少女は本を数冊借りて図書室を後にした。先程熱中して読んでいた新書も挟まっていたので、ここでの限られた時間では堪能しきれなかったのだろう。ふわふわのウェーブが扉の向こう側に引っ込むまで、私はぼうっと視線を漂わせていた。
 作業に戻る手前、さくら味のドロップを口に放り込む。謂わば先払いの報酬だ。人工的な甘味に加えて、桜をイメージしたであろう独特の味がした。不思議だ。人生で桜と名の付くお菓子をそこまで食していないのに、ひとくちで満開の桜の情景が広がっていく。奥ゆかしい可憐な自然と、その中央で春風に靡かれる少女の姿を思い描いた。直に散ってしまう桜の花びらに反して、彼女の笑顔は朽ち果てることのない、殊更の目映さを纏っている。やはり彼女は春の妖精なのではないかと、密かに思いを馳せた。



 秘密を焚べた炎が空高く舞い上がる。撒き散らされる火の粉は緩やかに夜色に馴染んで溶けていった。ゆらゆらで、めらめら。脳裏では隣の彼女が言い表しそうな、深刻な現状にそぐわない呑気な幻聴が再生されていた。
「あったか〜い」
 実物の声は想像よりもずっと無邪気で、伸びやかな音色をしていた。私の友人である雛菜ちゃんは、悴んだ手を火柱に翳して暖を取っている。陽光を弾き飛ばすほどの純然な白さを誇っていた指先が、触れ合うことでファンを笑顔にしたり勇気付けたりしてきた健気な指先が、今はもう土埃に塗れて薄汚れてしまっていた。息が詰まる。心臓が締め付けられる。彼女に染み付いてしまった汚穢は砂埃だけに留まらないという事実が、私の意識をひどく酩酊させた。
 細胞まで凍て付きかねない極寒の夜更けに、私は大罪を犯した。雛菜ちゃんはその片棒を担いでくれた協力者であり、謂わば被害者だ。私が、明るくて輝かしい彼女を相応しくない底なしの深淵にまで引きずり込んでしまった。
「焚き火の音って眠くなる〜」
「……」
「何でだろ? 優しい感じするからかも〜」
 マフラーの隙間から浮かび上がる白い吐息に、雛菜ちゃんが欠伸を噛み殺したのだと分かった。ゴールドのラメが散らばる薄明のような目蓋も、閉じたり開いたりを繰り返して、懸命に睡魔から逃れようとしている。焚き火の優しい音以前に、とうに丑三つ時を過ぎた時刻となれば眠気が蔓延しているのも当然だった。一番の要因は、きっと本日割いた労力に違いないけれど。身体は泥のようで、今にも溶け出して原型を失くしてしまいそうだ。できることなら、そうなってしまいたい。愚かな思考が頻りに渦を巻いている。
 雛菜ちゃんと同じように、私も炎に手を近付けた。凄まじい熱風が強引に熱を押し付けてくる。暖かい。けれど、冷たい心に灯る微かな温もりは、この炎のおかげじゃない。
「……ごめんね、雛菜ちゃん」
「ん〜?」
「巻き込んじゃったから」
 それまで沈黙を保ち続けていた私がようやく発した言葉に、彼女はきょとんと首を傾ける。その拍子に、ウェーブのかかった毛先がマフラーの檻から抜け出した。枝毛のひとつもないきれいな髪筋が、炎に照らされて赤々と燃ゆる。雛菜ちゃんの柔らかい眼差しに射止められて、全身を蝕む罪責感は益々重くなるばかりだった。
 勤務時間が延びて普段より遅くなった、バイト帰りのことだ。明日の小テストを懸念して一刻も早く帰宅したい私の爪先は、自然と人気の少ない路地を選んでいた。夜道を急ぐ女子高生として、その時点で迂闊だったとは思う。聞き覚えのない男性の声に呼び止められて、無防備に振り返ろうとした矢先、私の世界が反転した。腹部に走った激痛に呻く暇もないまま、地面に突っ伏してしまう。咄嗟に蹴飛ばされたのだと認識するも手遅れだった。見覚えのない汚れたスニーカーだけを視界に留めて、そうして意識を失った。
 目蓋をこじ開けたとき、無尽の暗闇が広がっていた。乱暴にシャツのボタンを引き千切られた音と冷気に曝された首元から、もう制服を剥ぎ取られる寸前だと推測するのは容易かった。卑しい呼吸が迫ってくる。網膜が闇に慣れてくると、目と鼻の先に厚手のパーカーを着込んだ男の陰影が浮かび上がってきた。やはり見知らぬ赤の他人だった。胸元に汚らわしい手が滑り込もうとした瞬間、悪寒と共に一種の生存本能のようなものに駆り立てられる。それは鮮烈ないかずちに打ち抜かれたような感覚だった。藁にも縋る思いで伸ばした手指の末端に棒状の何かが掠めたとき、もう躊躇はなかった。それを握り締めるのと振り翳すのと鈍い金属音が鳴り響くのと、総じてほとんど同時だった。
 地面に倒れ伏した男を漫然と眺めながら、直後に取った選択は携帯を起動させることだった。人間は、取り返しのつかない末路を悟ってしまった暁には、脳が麻痺してまともな思考を紡ぎ出せなくなるらしい。無意識の内に震える指先を動かして、私は警察にではなく、ひとりの友人に連絡を取っていた。見知らぬ男に暴行されて倉庫らしき場所に連れ込まれたこと、強姦されかけたこと、――明確な殺意を持って相手を殴り殺したこと。一心不乱に血みどろの頬をシャツで拭いながら、覚束ない記憶を辿って経緯を説明する。嗚咽混じりの鼻声は正直、聞くに耐えなかっただろう。でも、電話越しの朗らかな声は普段と何一つ変わりなかった。
『そこでじっとしててね。雛菜、すぐ迎えに行くから〜』
 悪い冗談だと笑い飛ばしたり、何かの悪戯かと逡巡したりすることもなく、雛菜ちゃんは一直線にその返事を電波に乗せてくれた。鼻の奥がつんとする。気を抜けば、涙の粒が堰を切って溢れ出しそうだった。彼女の言葉にどれほど安堵したか、どれだけ救われたか、計り知れない。幾分か心は軽くなったけれど、反して男の亡骸はその存在感を増していた。咽せ返るほど血の臭いが充満する倉庫の片隅で、私は膝小僧を抱えてひたすら雛菜ちゃんの到着を待った。
 スマホの地図アプリに示された現在地の情報を頼りにして、一時間も経たない内に彼女は街外れの空き倉庫に現れてくれた。
「スタジオの中は走るなって、プロデューサーに怒られちゃった〜」
 雛菜ちゃんは放課後を部活ではなくアイドル活動のレッスンに費やしている。何気ない一言で、多忙なスケジュールの終わり間近に凄絶なイベントを舞い込ませてしまったと気付いた。申し訳ないで済まされる話ではない。それどころか、この呼び出しは悪事に加担させて人生を棒に振らせようとしているのと同義だった。彼女もそれは理解していた筈だ。それなのに、警察に通報するでも自首を勧めるでもなく、私のために身を削って駆け付けてくれた。その事実だけで、薄暗い海底から光差す水上へ引き上げられたような心地になったのだ。私は雛菜ちゃんの肩を借りて、脱力していた足をようやく奮い立たせた。
 そこから先は夢中で手を動かしていたから、脳の方は不活性化して記憶が穴抜けになっている。遺体と男の物だと思われるスクーターには重石を括り付けて、付近の湖に放り投げた。今は男が身に着けていた衣服や身分証明書、血液が付着した私のワイシャツなんかをドラム缶に詰めて焼却している真っ最中だ。幸か不幸か、暴行された場所から離れた倉庫も湖のほとりも全くの無人で、猫の子一匹すら通り掛からない。罪過を最初からなかったことにする内密な処理には、実に打ってつけだった。
 一段落して、余念のひとつもなく黙々と突き動かしていた身体が休まると、途端に脳が不安で覆い尽くされる。もしも海に沈めた秘密が、炎に焼かれる証拠が、暴かれてしまったとしたら。那由多の崇拝と期待を背負う雛菜ちゃんの人生が、一遍に崩れ落ちてしまったとしたら。自分の陳腐な生涯よりも、そのことが気掛かりで堪らなかった。ただでさえ薄暗い視界が滲んでいく。真冬の象徴である雪の代わりに、後悔ばかりが降り積もる。
 神妙な雰囲気を遮るように、雛菜ちゃんは身を乗り出して私と向き直った。ふわりと舞い上がる、こびり付いた腐臭すら一蹴するおんなの子の香り。雛菜ちゃんだけが有するその甘い香りが鼻腔を通り抜けて、私の心臓を捕まえた。
「泣いてるちゃん、かわいくな〜い」
「ひ、ひどい」
「ほんとのことだもん」
 小鳥の囀りみたいに、雛菜ちゃんの微かな笑い声が鼓膜に浸透する。瞬きを繰り返すたびに視界が鮮明になって、彼女の輪郭がくっきりと浮かんできた。日溜りみたいな底抜けの明るい笑顔が、緩みきった涙腺を慰める。
ちゃんは笑顔がいちばんだよ」
「……」
「今日のこと、ぜ〜んぶ燃やしちゃった。だから、大丈夫。これからも、雛菜とずっと笑っていられるよ?」
 不思議だった。日常に佇んでいる彼女と同じまろやかな口調でそう言い聞かせられたら、本当に大丈夫な気がしてしまうのだ。涙は引っ込んでいた。少し膝を折って屈んだ雛菜ちゃんの額と額が触れ合って、仄かな熱を孕む。彼女から引き受ける言葉も体温も、ぜんぶが私に優しくて、少しこそばゆい。
 ドラマや小説から得た素人に毛が生えた程度の知識では、念入りに計画した作業も徒労に終わるかもしれない。朝になって、あぶくと共に水面に浮かび上がった骸によって、全ての真相が白日の元に晒されてしまうかもしれない。でも、それでも。大切な友人を巻き添えにしてしまったからには、死に物狂いでこの一夜を葬り去るしかない。それだけが、私にできる唯一の贖いだ。もう顔さえ思い出せない男に対してではなく、誰よりも何よりも愛しくて恋しい雛菜ちゃんに対しての、贖罪。
 途方もなく永かった夜が明けていく。今、この密やかな現場を覗き見ているのは寒空に浮かぶ満月だけだ。太陽にも民衆にも、この悪事を暴かれてはいけない。これ以上彼女の人生が何者にも汚されなくていいように、ふたりだけの秘密を墓場まで連れて行こう。その決意を潜ませて、雛菜ちゃんの指先に自分のそれを絡ませる。外気に熱を奪われて冷たい筈なのに、その末端はどうしようもなく温かくて、心の奥底にまで沁み渡っていった。