invisible blooming
 生まれて初めて、世間一般で言うところの告白をした。
 人生何が起こるか分からないもので、ひっそり潜ませておいた恋心を表に出そうなど一度たりとも考えたことはなかったのに、今私の唇から紡がれた二文字は揺るぎなく好きの二文字であった。窓辺から差し込む夕日、二人きりの教室。何とも在り来たりなシチュエーションは私の背中を後押ししてくれたらしい。とんだ有り難迷惑だった。私の告白を静聴していた意中の人は少しだけ、目を丸くしていた。意外だな、告白慣れしてるかと思っていたけれど。なんて冷静ぶった感想を頭の中に浮かべてみても状況は変わらないし、告白をなかったことにできるわけでもない。この後に及んで尚も悪足掻きするか、それとも開き直って付き合って下さいと付け加えるべきかを脳内で大真面目に議論していたところ、先に言葉を発したのは彼の方だった。綺麗な線を描く眉尻が僅かに下がっているのを見逃さなかった私は、彼から紡がれる言葉をおおよそ察してしまっていた。
「んと、……ありがとう。気持ちは嬉しいけど、今はバスケのことだけ考えてたいから付き合うとかは考えられないッス」
「……だよ、ね。ごめん、私も言うつもりはなくて、困らせるつもりもなかったんだけど」
「や、全然困ってるとかじゃないんで! ほんとに嬉しいんスよ」
 こちらこそ、気持ちに応えられなくてごめんね。そう言う彼にかぶりを振って、無理やり口角を上げた。「また明日から普通のクラスメイトとして、よろしく」その言葉に彼はどこかほっとした表情を浮かべていた。
 教室から出て行く彼──黄瀬くんを視線で見送った後も、私の腑抜けた表情は貼り付いたままだった。不思議と涙は出てこない。心は確かに虚ろでぽっかり穴が開いたような感覚なのだ。なのに、失恋からくる悲嘆もなければ落胆もない。彼の眩い後ろ姿は瞼の裏にこびり付いているのに、好意を伝えた時にはあんなにも胸の高鳴りが抑えられなかったのに、それでも私の頬を涙が伝うことはなかった。ひょっとして、私の内に秘めたるこの思いは恋慕ではなかったのだろうか? 手の届かない偶像に抱く憧憬のようなものだったのだろうか? ──分からない。そうだと肯定することも、違うと突っぱねることも私にはできなかった。ただひとつ、たったひとつ分かることと言えば、この不完全であやふやな気持ちは育つ暇もないまま朽ち果ててしまったということ。ただそれだけ。


 黄瀬涼太はひとを惹きつけることに際して天賦の才を持っている。容姿、運動神経、器量といった大抵の分野で他の中学生の頭一つ分抜きん出ている黄瀬くんが周囲の視線をかっさらってしまうのはもはや仕方のないことだ。かく言う私も溢れ出る熱量に当てられてしまった人間のひとりだった。黄瀬くんは取り分けバスケットボール部に入部してから異彩な輝きを放ち始める。帝光中学屈指の部活に身を置いた彼はその肩書きとは裏腹に雰囲気が柔らかくなったし、単純に笑顔も増えた。今までは他人に無頓着だった彼が心を開き始めているようにみえた。見違えるようにクラスに溶け込んでいく黄瀬くんを自然と目で追うようになった私には、残念ながら彼と特別記憶に残るような会話もなければエピソードもない。たまに体育館に赴いてギャラリーの隅っこで彼を応援するぐらいだった。そんな私が彼を好きだと言うのはあまりに烏滸がましい行為のようにさえ思える。でも、黄瀬くんがクラスメイトや部員に向けていた屈託なき笑顔を記憶から消し去ることはできなかった。
「手伝ってもいい?」
 予想だにしない声にホッチキスを扱う手に力がこもってしまった。ガシャンと大きく鳴り響いた針を留める音に、掌は更に汗ばんだ。
 つい先程まで私以外誰もいない教室だと思って疑わなかったし、実際そうだった。けれど、開いた教室の扉に寄りかかって此方を見ているのは黄瀬くんに他ならない。あの声も、突然のことだったので記憶が曖昧だけれど、恐らくは彼のものだ。作業に没頭していた私が伏せていた顔を上げた時には、黄瀬くんは机と机の隙間を縫うようにすり抜け、私の目の前の椅子を引いて座ってしまっていた。断っておくが、無論私の前の席は黄瀬くんの座席ではない。こんな近くで彼と対面することになるなんて思いも寄らなかった。身体を横に向けて私を凝視する黄瀬くんに、足の指先からそわそわとむず痒い感覚が昇り詰める。
「これ借りるッスよ。何枚ずつ?」
「あ、えっと、十枚ずつ……」
「ほい、了解ッス」
「あっ、あの黄瀬くん。ありがたいんだけど部活は……」
 予備として置いてあったホッチキスを手に取った黄瀬くんは、私の問いに「今日は体育館整備で休みなんで」と答えた。文化祭企画書と書かれた紙を上から順に手にとって、カシャンと小気味よい音を立てて綴じていく。黄瀬くんは少し物珍しそうに中身を眺めたりもしたけど、次第に単調な作業を黙々とこなすだけになった。
 告白してから実に三ヶ月が過ぎていた。黄瀬くんの中ではもう終わったことなのかもしれないし、第一気にせず普段通り接して欲しいと間接的に提案したのは私の方だ。それにしたって、私達は会話らしい会話をしたことすらなかったのに、どうして突然手伝ってくれる気になったのだろうか。この空気は少なくとも普段通りの私達ではなかった。気がかりではあるけれど、口に出して言う程の勇気は出ない。臆病風を吹かせて黙りこくっていたその時だ。
さん、最近応援来てくれないんスね」
 ひゅっと息が詰まるような感覚。と同時に、顔に熱がじわじわと浸食するような感覚。まさかあの大勢の見物客から私を見つけられていたなんて、計算外だ。黄瀬くんは手元を映していた瞳を此方に向け、私の反応を窺っている。こそばゆい爪先を地面に擦り付けどうにか冷静を保とうとしてみるも、彼の視線は注がれたままだ。
「……その、ごめんなさい。気が散るかなと思って……でも」
「でも?」
「何で私が応援行ってたって知ってるの? あんなに人いっぱいなのに」
「えっ、そりゃ分かるッスよ! 顔も知らない先輩後輩とか顔しか分かんない同学年と違って、さんはクラスメイトじゃないッスか」
 力みそうになった指先をぐっと堪え「そういものかな」と呟く。黄瀬くんはそこで私から視線を外して「そういものッス」と復唱して再び作業に戻った。私の見間違いでなければ、彼の唇は緩やかな弧を描いていた。笑みを湛える黄瀬くんは、少し、大人びている。率直に言えば、末恐ろしいと思った。何というか、女心の揺さぶりに長けすぎている。恋愛初級編で踏みとどまる私には遙か遠くの存在──の筈だったのに、そう思っていたのは私だけで、存外彼の方は普通にクラスメイトとして思ってくれていたらしい。嬉しい、のだけれど、自分の感情がちぐはぐなまま告白してしまった罪悪感が強まった。
さん、まだオレのこと好き?」
 だから、あまりにタイムリーかつダイレクトな黄瀬くんのこの発言には思わずのけぞってしまった。後ろの机と私の椅子がぶつかって音を立てる。明らかに挙動不審な私に彼は目をまん丸くさせていた。
「す、きっていうか……」
「もう好きじゃない?」
「えっ、いや、そんなことは……! でも、分かんなくなっちゃって……」
「……分かんない?」
「私が、黄瀬くんを好きだと思ってた感情が、ほんとに恋なのかなって」
「ふーん、曖昧って感じスかね?」
 しどろもどろに話し始めた私に、黄瀬くんは終始優しい声色だった。何故こんなことを話してしまったのか、自分でも分からない。けど多分、今まで散々困らせてしまったけれど、もう困らせる要因は何もないって伝えたかったのかもしれない。クラスメイトとして接する許しが欲しかったのかもしれない。「なら、今日から何のしがらみもない普通のクラスメイトッスね!」そんな風に満面の笑みを見せてくれることを期待していたのかもしれない。
 しかし、黄瀬くんの反応は、私の想像を遥かに凌駕するものだった。
「オレも、そうかも」
「えっ?」
さんに告白されてから妙に目で追っちゃうし、応援来てくれてないとテンション下がるし。ただのクラスメイトならこんなことあり得ないし、好きになる前の気持ちってこんな感じなんスかね」
「……すっ、!?」
 黄瀬くんから次々と飛んできた言葉は私の思考を鈍らせるには十分だった。とてつもなく大事なことを言われた気がするのに、私は順を追って整理することしかできない。そうこうしている内に彼は最後の一束の針止めを終え、出来上がった紙束を持ち上げた。「これ担任のとこ?」そう言いながら立ち上がる黄瀬くんに、ただ頷くしかできない。彼は面白そうにくくっと笑みを零して、教室の前扉へと向かった。何の報酬もないのに手伝ってもらった上に職員室まで運ばせるだなんて、それはあまりにも悪い。纏まらない思考は一旦放っておいて、廊下に身を乗り出した黄瀬くんに待ってのストップをかけた。
「黄瀬くん! それ私が……」
「いいッスよ。こんな重たいのさんの腕もげそうだし」
「……もげないと思うけど……あ、ありがとう」
「どういたしまして」
 それじゃあ、と階段に向かおうとする黄瀬くんをもう一度呼び止める。
 今から言おうとしてること、どう考えても馬鹿みたいに舞い上がってる自分の愚行でしかないけれど、それでも少しの勇気があれば何だって言える気がした。どうせまた、涙なんか出ないしいつしか笑い話になる。
「黄瀬くん、もし私が胸を張って黄瀬くんのこと好きって言えるようになったら、また告白していい?」
「……それはだめ」
「えっ! ……そう、だよね。ごめん忘れて」
「あー違う違う。そうじゃなくて」
 ばつが悪そうに眉をハの字にした黄瀬くんは、少し困ったように笑った。
「女の子に二度も頑張らせるわけにはいかないっしょ。だから、今度はオレに頑張らせてよ」
 不完全なまま朽ちたと思っていたその心は、芽を出し小さく息づいている。この気持ちが花を咲かせる未来はきっとそう、遠くはない。

2018/01/11