愛の魔物を手懐けたい
 きらびやか、艶やか、派手やか。そういった形容詞がよく似合う街並みだ。目に優しくない蛍光色の電飾を携えるレトロな建物から、女性が好みそうな西洋風な建物まで、多様な建築物が立ち並んでいる。ここは歓楽街、しかもいわゆるラブホテル街というやつだ。いくら齢十六の私でも、この建物がどういった用途で利用されているのかは想像がつく。夜更けが近いにも関わらず客入りはどの店も良さそうだった。誓って言うが、私がこの場所に足を踏み入れたのは初めてで、ホテルに足を運ぶ客の人間観察をするような趣味は持ち合わせていない。私を呼び付けた張本人が立ち並ぶホテルの何処かしらにいる。その情報だけを頼りに寒空の下静かに佇んでいるのだ。──ここまでは数分前の話である。
 数分後、つまり今現在の私は歓楽街の脇道に逸れた路地裏にいた。不可抗力であり、不本意であり、もっと言うなら今すぐにでも抜け出したい状況である。目の前にいる男は私を路地裏に無理ぐり連れ込んだ張本人だ。口元に歪んだ笑みを浮かべ、鼻息を荒げ、目に淫欲を湛えるその様子は、生理的な嫌悪感を感じさせる。大きな手の平に口元を覆われ、助けを乞う声はくぐもり誰にも届かない。身を捩らせ足をばたつかせてみても、体格が幾分も違う男には何の効果も示せなかった。時間が経つほどに抵抗の力は弱まり、絶望感は強くなる。男は自分の良いように解釈したのか「いい子だねえ」なんて言葉をうわ言のように繰り返していた。涙が零れそうになるが、身の毛もよだつ言葉を永遠と吐き出す男にとってはそれも興奮を助長させるだけであろう。そう思って瞼をぎゅっと閉じて歯を食いしばっているときだった。
「よおオッサン、楽しそうだなあオイ」
 聞き慣れた声。でも、私が普段聞いている声より殺気に満ちた声だった。
 鼓膜に届いた瞬間、殴打音と共に私を縛っていた拘束は解けた。恐る恐る瞼を開ける。目の前には鳩尾を押さえながら呻き声を上げて地面に突っ伏す男の姿。何が起きたのか分からないのか、痛みを忘れて恐怖と動揺に染まる顔を上げた瞬間、更なる痛烈な足蹴が加わった。さすがに私もその様子にたじろぎ、喉が締め付けられるような圧迫感に襲われる。その後も男の抵抗をどこ吹く風でねじ伏せ、制裁を加えていくそのひとは、いつもみたく鼻で笑ったりせず終始無言の体裁だった。
 男が気を失いかけたところで、襲われた恐怖よりこの事態が表沙汰になることのリスクを考慮できるだけの冷静さを取り戻した私は、そのひとに待ったの一声を上げた。静かに此方を見遣ったひと──阿含さんは、何の感情も持たない表情で男の首根っこを掴み上げていた手を離した。重力に従い地面に落ちた男のことなど頭の片隅にもないようで、私へ真意を問うようにサングラスの奥で目を光らせている。
「……これ以上は、警察沙汰になりそうだったので」
「あ゛? 突っかかってきたのはコイツだろ」
「過剰防衛になりかねませんよ。私のせいで阿含さんが悪者になるのは、心苦しいです」
「……」
 納得したのかしてないのか、阿含さんは踵を返して賑わいを見せる歓楽街に向かって歩を進めた。途中「さっさと来い」と有無を言わさぬ呼び声がかかり、なけなしの良心で男の安否を心配した私はその行為を中断する。気持ち早足で阿含さんの元に歩み寄ると、彼はそっぽを向いてまた威圧的な足取りで歩き始めた。虫の居所が悪い。今の彼にはその表現が的確に思えたので、刺激しないよう後を追った。
 暗がりから一気に光で溢れる場所に出たため、視界がちかちかと点滅する。眩んでいる私に反して、阿含さんは物ともしない態度で喧騒を掻き分けていった。ぶつかりそうになる人達には肝を冷やしたが、彼の気に障るような接触もなく、何とか大通りを抜けることに成功する。人通りも疎らになり、視界は良好。声も通りやすい。そろそろ阿含さんに何か働きかけても良いだろうと自分の中で決断を下し、唇を開きかけたときだ。
「……メシ行くぞ」
 何の脈絡もない、突拍子もない話題だ。阿含さんは後方にいる私に振り返ることなく、かと言って突き放すような歩行速度でもない。このひとなりに気を遣ってくれているのだろう、ご飯の誘い然り。誘うなんて生易しい声色ではなく、此方に選択の余地を一寸も与えない発言だが、阿含さんにしては随分抑えられていた。胸の内側からむず痒くなるような感覚に包まれる。
「阿含さんの奢りですか?」
「……今日だけな」
「なら行きます。お肉食べたい」
「それが女子高生の発言かよ」
 勘違いでも何でもなく、事実として阿含さんの受け答えはべらぼうに優しい。その理由を足りない頭で黙考すれば、自ずと結論は見えてきた。彼は自責の念に駆られているのかもしれない、という一種の願望のような結論。それは天賦の才を持ち、他人を排斥してきた彼にとって唾棄すべき感情だ。その感情をどう処理していいか分からず戸惑っている。直感的に、楽観的にそう解釈してしまった。
 私がこの歓楽街を訪れた発端は、包み隠さず物申すなら阿含さんにある。彼の「来い」という二文字で完結した命令に背くことなく、むしろ逆らい方が分からず、危険地帯に足を踏み入れた。その結果があれである。普通なら文句の一つや二つ言ったところでバチは当たらないだろう。でも、阿含さんが思いの外私に譲歩し、図々しい提案もすんなり享受してくれたので、責め立てる気にはなれなかった。実際ただの発端であって、私が恐怖を植え付けられた原因は別にある。そして、その本来矛を向けるべき相手は彼が粛清してくれている。これ以上何かを望むのは烏滸がましいとさえ思った。
 漠然と気持ちを持ち直した私が阿含さんを見上げると、浴びた生温い視線に対してか、疎ましそうに顔をしかめた。元来彼は気遣いや自責という概念とは無縁の世界にいる。この話題を出せば鼻で笑われることは容易に想像できたので、心の奥に潜めておくことにした。
「私を呼んだのはご飯行くからですか?」
「他に何があんだよ」
「まあ、そうなんですけど……。ホテルに一緒にいた女の人で事足りません?」
「ヤッた後の女と食事なんざしたくねえだろ」
 独自の理論を展開する阿含さんには首を傾げるばかりである。彼の女癖の悪さは有名だ。それはもう、ありとあらゆる女性を取っ替え引っ替えしているし、毎日が選り取り見取りの生活なのだろう。今日だってこの歓楽街のホテルのどこかで、たわわな女性と目合っていたに違いないのだ。でも、行為はできてもその後の食事は共にできない、と彼は言う。そこにはどうしても疑問が芽生える。他人の価値観に口出しできるほどの教養もないし経験もないが、そういう行為は自分の一番大事なひとと致すもので、そうまで愛したひととなら何事も共有するものだと信じて疑わなかった。けれど阿含さんは違う。他人に束縛されることを厭って、自分の好きなように相手を選ぶし簡単に切り捨てる。恋愛の何たるかを明確に形容できない私が言えた義理じゃないけれど、阿含さんは世間一般との恋愛観がずれているのだと思った。けれど、そこに口を挟む権利など誰にも持ち合わせていない。私にも。
 ここで明け透けに言ってしまえば、私には関係のない話だった。阿含さんがどんな恋愛観を持ってどんな女性と関係を持とうとも、私を食事のために呼び出すのは日常茶飯事で、こうして一悶着あった後でさえ変わらない。なに故豊満な肉体美の女性ではなく、そこらにごまんといそうなほど平々凡々な私を食事相手に選ぶのかは定かでないが、そこに突っ込むのは野暮というものだ。少なからず私は阿含さんが気の許せる人間であるのだと、そう思いたい。
「……私、ホテルに呼ばれる側の人間じゃなくて良かったです」
「あ゛ぁ?」
「阿含さんとそういうことするより、食事する方が楽しいと思うので」
 唐突に私が紡いだ言葉に阿含さんは意表を突かれたようで、無表情で固まっている。想像を絶する彼の驚きように今度は此方が驚く番だった。私としては勿論本心から出た言葉であり、彼も同じような思いがあるものだと勝手に思い込んでいた。絶句するほど頓狂な話ではない筈だ。
 阿含さんは程なくして無表情から呆れ返るような表情に変貌した。長い溜息を吐いて、何を思ったのか太く逞しい右手で私の前髪をかき分けると、そのまま頭をもみくちゃにかき撫でた。脳髄を強く揺すられる感覚に、訳もわからず成すがままにされる。ようやく離され、無造作に乱された髪を整えながら彼の真意を図ろうとするも、何も分からなかった。分かったことと言えば、阿含さんは女性の口説き文句は一流なのに、性行為以外の触れ合いには不慣れということだけである。
 私が髪を整え終えると、彼は何も言わずに右手を取り、再び前を向いて歩き始めた。
「元よりテメーの貧相な身体なんてお呼びじゃねえわ」
 辛辣な言葉が呟かれたが、想像以上に刺さらなかった。無骨で傷だらけの手が、私の右手首を覆う大きな掌が、その半分も力量を示せてないのではと勘繰るほど優しい力なのだ。このひとが本気でそう言っているわけじゃないこと、手に取るように分かる。
「なら自分の身体に感謝します」
「言ってろ。ぼさっとしてねぇで、さっさと歩け」
「わ、引っ張らないでください!」
 ぐんと歩く速度は速まるのに、彼の握力は一向に強まる気配がない。それが何だか無性に嬉しくなる。一般的に知られる阿含さんの底知れない恐怖とは、相反する別の側面を知ってしまった。今日この日限りでない、随分前からだ。
 私が麗しの肉体美を手に入れたら、美しの玉顔を持ち合わせていたら、とあり得るはずのないifを思い描いてみても、やはり私は阿含さんとそういうことをする未来だけは想像できない。でもそれで良いと思う。阿含さんに組み敷かれる幸福感は味わえないしそのつもりもないけど、彼がふとした瞬間に垣間見せる優しさを味わう幸福感には、何物も敵うはずがないのだ。

2019/06/02