いつまでも痛い目みせてよ
 その傷を、この人は愛していると言った。
 事務所の高級そうなソファに豪快に身を投げている赤林さんが、珍しく心地の良い寝息を立てていたものだら、私はこの機会を逃すまいと行動に出ることにした。サングラスの奥、右眼を縦に劈くように走る古傷を優しく指でなぞってみる。当然ながら女の私とは異なる肌の質感。加えて、滑らかとは言い難い違和感が迸る傷の名残跡。指の腹を傷痕に沿わせて往復させてみても、感触は何ら変わりなかった。無機質で私に何も訴えてくれないそれは、赤林さんにとっては愛の名残なのである。
 その昔、世間を騒がせた切り裂き魔にやられたのだと、一般的に遭遇する確率が低い事象を彼はあっけらかんと話してみせた。かと思えば重厚な声色に一変し、その人が初恋の相手であると宣うものだから、益々この人のことが分からなくなった。一体どういう経緯を辿れば自分の顔に傷を残した女のことを愛せると言うのだろう。どんなに頭を捻っても分かりはしない。私が赤林さんの本心を分かり得たことなど、一度たりともありはしない。ただひとつ、偏に覚えたこの感情の正体だけは理解していた。──悔しかった。唯一無二として刻み込まれた愛を掻き消せるほど、私は彼にとって価値のある存在ではない。それなのに切り裂き魔は一夜にして彼の心を根こそぎ奪ってしまったのだ。制しきれない嫉妬と羨望が身体の内側でのた打ち回るのも、納得なのである。
 触れた指先から、赤林さんの一生傷から教えてくれるものは何もなかった。それどころか、その昔話を初めて聞かされたときの血が逆流する感覚が蒸し返されそうになったので、即座に指を離した。行き場のないこの感情を彼にぶつけることはさすがに気が引ける。代わりに別の行動で鬱憤を晴らすことにした。静かに事務所から退室し、懐から取り出した携帯で青崎さんへと電話を掛ける。電話の向こう側で青筋を立てているであろう彼に赤林さんの所在を伝え、通話を終了した。元より私の目的は赤林さんの居所を辿る青崎さんの手伝いだった。予想通り事務所にいた彼は恐らく青崎さんの怒号が飛び交う電話で目を覚ますことだろう。些末な嫌がらせが成功した子どものように、心中でほくそ笑んだ。
 事務所の外はすっかり夜の池袋へと変貌を遂げていた。昼の姦しい騒音とは、また毛色の異なる人の声で溢れかえっている。広大で奇妙な池袋の街は私の重苦しい感情を一蹴するように、或いは丸ごと抱え込むように、私を歓迎してくれる。ひと度足を踏み出せば、誰も彼もが奇妙な街の一員なのだった。


「嬢ちゃんは、おいちゃんに惚れてんのかい」
 背後からの力の抜けた声とは裏腹に、私の核心を突く話題に思わず掌中の資料を滑らせてしまった。紙束は宙を舞い、あれよあれよという間に床に散らばる。赤林さんの言葉と己の失態、二重の意味で体中の血の気が引いていった。資料を拾い集めるためにしゃがみ込み、脳内で必死に状況を整理する。けれど、いくら考えを巡らしたところで彼の問いを巧く切り抜ける一手は思い付きそうにない。それどころか、赤林さんは呑気にソファに凭れながら更なる追撃を仕掛けてきた。
「はは、いや何。先日、嬢ちゃんが愛おしそうに俺のこの辺りを撫で回してくもんだからさ。まさかとは思ったけど、からかいたくなってね」
「あ、……かばやしさんも人が悪い」
「この生業で人の良い輩なんていないだろうさ。さて、ホントのとこはどうなんだい」
 全く持って逃げる余地を与えない、人を追い詰めることに長けた人間のやり方だ。からかってなんかいない。大真面目に、この人は確信を持って私を問い詰めている。赤林さんはこのやり方で世を渡り歩いてきた業界人なのだから、勝ち目がないのは火を見るより明らかだった。
 赤林さんが構える事務所で、つい先日私が成した行為。忘れる訳がない。あの日彼は狸寝入りをしていたのか、室内に監視カメラを設置していたのかは定かではないが、推察された私の恋愛事情は事実とそう乖離はなかった。しかし、認めることは容易でも、それを本人に詳らかに打ち明けることはそう容易ではない。相手が相手だ。結果は目に見えている。玉砕覚悟なんて前置きをして告白できるのは青春を謳歌している内に限るのだ。私も赤林さんも、もう身の丈を弁えた立派な大人だった。これまで築いてきた関係を壊してしまう度胸も奔放さも、今の私には持ち合わせていない。とは言え、相手が自供する以外の選択肢を与えてくれないのもまた事実。どうしたって私に慈悲などない。これでは答えのない堂々巡り、行く宛もないままに環状線に乗り続けているようなものだ。
 だから、これは可能な限り傷つきたくないという諦めの悪い私の、最後の悪あがきだ。
「もしそうならそうとして、赤林さんにそれを知るメリットがあるとは思えません」
「へえ? 言うねえ」
「何事も知らぬが仏ですよ。赤林さんとはビジネスライクな関係でいたいので」
 私が赤林さんを好いていることは認める。もうこれはやむを得ない結論だ。しかし、言外に「だから、どうかこの話題はこれで打ち切りに」と私の思いを示唆すれば、聡い赤林さんなら感じ取ってくれるだろう。彼にとって人の機微を読み取ることは決して難しくない。人どころか、世間を騒がせる池袋の都市伝説とも仕事をするくらいの人だから、宇宙人だとか異世界人だとかの人を超越した何かと意志の疎通ができたとしても不思議はない。そして、それに比べれば、私一人の剥き出しの感情を窺うことなど造作もないに決まっている。
 赤林さんは似合いの色眼鏡をくいと指で押し上げると、此方を静かに見遣った。眼鏡のレンズに反射して映る私はひどく痛々しげで、獣に追い詰められた小動物のような顔をしている。この表情で先程の屁理屈をつらつらと押し並べていたと思うと、何とも間抜けである。滑稽な私の様子に、赤林さんは心中で腹が捩れる程笑っていたのかもしれない。そんな私の予想に反して、彼の喉から継ぎ出た言葉は優しくて、同時に残酷な言葉でもあった。
「それじゃあ、そのビジネスライクな関係でいるために、ちょっとオジサンの妄言でも聴いて貰おうかねえ」
「はい?」
「もし嬢ちゃんがおいちゃんのこと好きだったとして……もしだよ。それは、人の自由さ。でもオススメはしないよねえ」
「……」
「相手はヤのつく職業で、散々世のためにならないことをしてる一端の不届き者だ。嬢ちゃんみたいな若くて未来ある女性が一生を捧げるには荷が重いさね」
 私の片腹痛い言い回しとは別次元の、オブラートに包みながらも一直線に刺さる提言に、心の堤防は音を立てて崩れ出した。仮定を装った直接的な否定の言葉は、動揺でぐらついていた私の心を抉り取るには十分すぎる。つまり彼はこう言いたいのだ。「俺を好きでいるのはやめろ」と。私が赤林さんにホの字なんていう事実は想定内で、それを踏まえて私に苦言を呈し、諦めろと促しているのだ。何とも非情な話である。あれだけの追及に裏がない筈はないと薄々勘付いてはいたが、こうもあっさり断りを入れられるとは思ってもみなかった。単純に、純粋に、悲しかった。
 彼がべらべらと押し並べた御託は、私の濁りきった色眼鏡を通せば、それは綺麗事だった。私も若かろうが女だろうが構成員の一人には違いなくて、程度の差はあれど赤林さんと同じ一端の不届き者なのである。彼は、こんな分かりきった話を尤もらしい理由に託けるような浅はかな男ではない。他に最たる理由があって、建前としてこう言っているのだ。そして、彼が私の好意を切り捨てる最たる理由なんて、一つだけだ。初恋は実らないとは言うものの、それは思い出の中に一生刻み込まれるもので、私には一生をかけても敵いっこないのだ。淡々と辿り着いた事実に、結局また打ちのめされる。どうしたってこの人は、私を見てはくれない。──そうは分かっていても、はいそうですかと引き下がるよりも、この気持ちをかなぐり捨てることの方が難しかった。自他共に認める諦めの悪い性分なのである。赤林さんには悪いけれど、元よりこの抜け出せない泥沼に足を引き入れたのは彼なので、身から出た錆と割り切って貰うしかない。
「……揚げ足を取るようで悪いですけど、誰かを好きになることが人の自由って言うなら、私が誰を好きでいようとも構いませんよね」
「……うん、そうかもしれないねえ」
「もし仮にその相手が赤林さんだったとして、その好意が赤林さんにとって不都合なものだったとしても、私は自分の意志を曲げようとは思いません。人の自由ですもんね」
「……こりゃあ、一本取られたかな」
 底の見えない諂笑を崩さなかった彼が、根負けしたような発言と共に、初めて表情を崩した。当惑に眉を顰める赤林さんは「参った」とでも言うように手をぷらぷらと振った。どうやらこの勝負、私の勝利との判定が出たらしい。
 心の底から喜べないのは、これから先の身の振り方を知っているからだ。赤林さんは私の好意を許容しただけで、好意に応えることは決してないだろう。断言できる。そしてそれは即ち、私はきっと想い続ける呪縛から永遠に逃れられないということだ。赤林さんは、こうなることを予測できていたのだろうか。この人のことだから、できていたのだろう。断言できる。
 それでも、私が想い続けることを許したのは、彼も同じだからかもしれない。彼も初恋の人を想い続けることを、自分で許したかったのかもしれない。ふとそう思った。
「赤林さん、今の話は全部仮定の話ですよ」
「何だ、今更怖気づいたのかい」
「まさか。これから先もビジネスライクな関係でいるため、です」
 私の言わんとすることを察したのか、赤林さんはにまりと口角を上げ、いつもの胡散臭い笑みに戻った。ここでようやく会話は終了した。
 拾い上げた資料を元の位置に戻して、仕事を再開する。赤林さんは若者風情を装い携帯端末を弄り始めた。情報収集と彼は言うが、本当にそうなのかは定かでない。彼を脇目に、淡々と仕事を済ませ、適当に切り上げて事務所を出た。背後からかかった彼の「お疲れ様」の声はいつもと変わらなかった。
 人で溢れかえる池袋の街は、やっぱり私の肌に合っているようだ。絶えずどんちゃん騒ぎを催す若者の大声が響き渡って、脳内を反芻していた赤林さんとのやり取りが掻き消されていく。一人の男のことで思い悩む自分がちっぽけで、池袋に集う群衆の数いる一人だと思うと、腹を抱えて笑ってしまった。てんで可笑しくて、自分のことなのに他人事みたいに思えてきて、でもそれはありのままの事実だと悟って、笑いながら涙が出そうになった。ただの失恋で終わらせておけば良かったのに。そう冷静に考える余力があったなら、どれ程良かっただろう。ただ自分で自分に課しただけの呪縛が、今後私にどれだけの災厄を齎すかは不明だ。いつまで名も知らぬ女を想い続けるあの人を、私は想い続けていられるだろう。定かでない未来を想像すればする程、愚直な自分を呪いたくもなるし、愛おしくもなる。てんで可笑しな話だ。
 ちっぽけで愚かな私を慰めるように、生温い風が吹き通った。池袋の街は、私一人がどうなろうと関係なく、今日も今日とて奇妙な夜を繰り広げていくのだろう。赤林さんがその夜を渡り歩く姿を思い描いて、少しだけ胸のつかえが降りた。やっぱりどう足掻いたって、私は彼のことが好きだと、そう思った。

2019/11/11