海の底、未来のひかり
 ──私とこの人が出逢ったのは、偶然以外の何物でもない。
 至って普通のレストランに突如現れ、片隅に放置されていた埃まみれのピアノに忽ち魔法をかけてしまったその人物の名は、河村亮と言う。知人のオーナーが経営するそのレストランに度々入り浸っていた私がその人と初めて会話をしたのは約半年前。彼が──河村さんが此処でピアノを弾き始めたのはもう少し前の話だが、話しかける理由もない私はただの客として、名前も知らないクラシックを楽しんでいた。ところが半年前、閉店時間になって勘定を済ませようと席を立った時、こっそりオーナーに呼び止められたのだ。これから二次会でもどうか、と。誘いを承諾して他の客が引くまで待機したところ、スタッフルームの奥から現れたのはオーナーと彼のピアニストだった。
「紹介してなかったよね? こちら、ピアノ弾いてくれてた河村亮君」
「どーも」
「は、はじめまして」
 ピアノを弾いてる時には座っているため見て取れなかったが、細長い足に濃い顔立ちとモデルのようなスタイルをしている。随分とまあ上質な男の人を一体どこから連れて来たのだろう、なんて疑問を口にできる筈もなく、やや気まずい雰囲気で閉店後の二次会は行われた。しかし河村さんは話してみると意外に気さくで、時間が経つにつれて打ち解けていった。オーナーも満足そうに頬を弛ませながら、酒に舌鼓を打っていた。
 二時間ほどしてお開きとなり、帰路に就こうとしたその際にオーナーが気を利かせたのか、河村さんが私の家まで送ってくれる手筈になった。さすがに悪いと断ったのだが、オーナーは気にせず話を進めていくし、河村さんも大して面倒そうな素振りも見せず「いーっすよ」と快諾していた。
「亮君最近こっち来たばっかでトモダチいないからさあ、ちゃん仲良くしてやって」
「……そうなんですか?」
「るせー、ヨケーなお世話だわ! 俺様は一匹狼だからんなもんいなくても支障ねーの!」
 ほれ、行くぞ と先に歩き出す河村さんの後を慌てて追う。しかし彼が私の家までの道程を知っている筈もなく、途中からは微妙な距離間を保ちながら隣に並んだ。家までの距離は約十分程。その間、私は少し迷った。何故こんな辺鄙な町に転がり込んできたのか、どういった経緯でオーナーと知り合ったのか、──ピアノを弾くのならこんな場所でなくとも良いのではないか。数々の疑問が喉までつっかえたが結局それが表に出ることはなかった。河村さんは知人の知り合いでしかないのに、そんな人の内情を探り起こすような真似は到底できそうになかったのだ。河村さんは私を送り届けた後、「戸締まり忘れんなよ」とだけ言うと後ろ手を振りながら元来た道を辿っていった。
 それからと言うもの、河村さんとの関係は僅かに変化の色が見え始めていた。端っこのテーブル席で飲んでいる私をわざわざ壇上まで呼んで曲名や作曲家を教えてくれたり、リクエストを要求したり。そのお陰で私は人並みなクラシックの知識を覚えることができた。何度か閉店後の二次会に参加させて貰ったり、その都度送って貰ったり、少なくとも知人の知り合い程度の間柄はとうに過ぎ去っていた。
 河村さんの男らしくも細長い指が軽快に鍵盤をたたき、繊細な音を奏でていく。その姿はただの客として来ていただけでは分からなかっただろう。曲を奏でる時に浮かぶ柔らかい表情も、意識して見なければ知り得なかった。そうしてピアノを弾く河村さんを見て更に気付くことがあった。彼は演奏が終わると一息ついて、右隣の空間を見据えるのだ。レストランの一角を見つめるような瞳ではない。ずっと遠くを見るような、ずっと昔を鑑みるようなまなこ。奥底に悲哀の色を秘めた、まなこ。私はどうしようもない虚無感に胸を抉られた。彼の抱える孤独が垣間見えているのにいつまでも経っても一歩を踏み出せない。そんな自分自身が余りに不甲斐なくて、余りに愚かでならなくて。


「やっぱさみーな、この時期の海は」
「ですね」
「ですね、じゃねえ! お前が言い出したんだろーが、ったく」
 数回目の二次会で持ち上がった話題に、河村さんのいた町には海がないというものがあった。お開き後に一匙の勇気を振り絞って誘ってみると、意外にも河村さんは乗り気なようですぐさま承諾してくれた。顔に似合わず子供っぽい一面があると知ったのは割と最近のことだ。
 五月の海、しかも深夜とくれば涼しいという感想はさすがに出なかった。ゴオゴオと不気味な音とさざ波の音が響き渡る暗い海。闇がどこまでも続いていくような感覚に背筋が震える。ふと隣を見上げればやはりと言うか、予想は的中、演奏終わりと同じ瞳で海の向こうを見つめていた。深い闇の底、彼が見つめる先にあるものを未だに私は知らない。
「……馬鹿みたい」
「あ? 何だって?」
「いいえ何にも。こっちの話です」
「何じゃそりゃ」
 こうやって河村さんの内に踏み出していけない臆病者が、彼の知らない景色を眺めて何になるって言うのだろう。深く追求されることを好ましく思わないかもしれないと仮説を立てて足踏みしてる私が、彼の内情を知れたとして何になるのだ。河村さんの事情を知れたところで、また結局そこで一線を引いてしまうのは自分だというのに。
「……そろそろ帰ります?」
「はあ? まだ来たばっかだろ」
「でも寒いし、風邪ひいちゃいますよ」
「はあ~? こんなんで風邪ひくかよ。分っかんねーな、お前も」
「ははは……」
 そう言いながらも河村さんは踵を返し堤防へと向かって行った。ヒールが砂浜に絡め取られて後れをとったものの、河村さんはしっかり待ってくれていた。名残惜しげに海を見る彼に、何だかどでかい悪事を働いてしまったような感覚に陥る。自己嫌悪に苛まれていると、河村さんは結んでいた唇を開いた。
「次は夏だな」
「……はい、それが良いですね」
「おい、他人事みたいな面しやがって。お前も来るんだぞ」
「へっ」
 驚きの余り、勢いよく顔を上げる。そこにはいやらしく口角を上げる河村さんの表情がぼんやり月明かりに照らされていた。
「何だその間抜け面。お前、この河村さんの異次元的な顔と鍛えられた筋肉を見れるんだからありがたく思えよな」
「……うーん、ふふ、はい。ありがたいです」
「笑ってんじゃねーか」
 この野郎、と鼻をつままれる。控えめに抵抗していると河村さんはぱっと手を離し、ピアノを弾いてる時のような柔い表情を浮かべた。伏し目がちだった瞳が開かれ、私の姿を捉える。彼の瞳孔は微かに揺れていた。今河村さんの瞳に映っている情景は、遠い場所でもなければ昔の思い出でもない。そんな風に考えてしまうのは思い上がりだろうか。
「……河村さん」
「あん?」
「私は河村さんの今までを知りません。何にも知りません。でも、河村さんとのこれからは作っていけます。だからまた来ましょう、海」
 一思いに言い切った直後、私を襲ったのは紛れもない羞恥心だった。まるで彼女面、告白も同然だ。穴があったら入ってそのまま埋まりたい気持ちでいっぱいだ。しかしそれを悟られては負けだと、力強く唇を噛み締める。当の河村さんはきょとんと目を丸くしてから、意味を理解したのか吹き出した。ヒイヒイお腹を抱えて笑い始めた彼に、もうこのまま海に身一つで飛び込んでやろうかと思案する。しかし、それより先に河村さんが笑い声混じりに話し始めた。
「クッ、おま、何だよ。俺に惚れてんのか」
「なっ、ち、違……と、トモダチとして! 友達としてですよ!」
「ほお~、トモダチィ? それは傑作だな~」
 笑いを堪えきれないのか未だにお腹を抱え込む河村さんに、さすがに堪忍袋の緒が切れてもおかしくないだろう。置いて帰ろうと彼の横を通り抜けるが、惜しくも後一歩のところで彼に腕を掴まれ阻止されてしまった。
「あー、悪かったって。ほんとに」
「……悪いって思ってるなら笑うの止めてください」
「おう。わっーた、わっーた」
 河村さんは降参とでも言うように両手を広げた。溜め息をついて「さっさと帰りましょう」と促すと、彼は頷いて私の隣へと移動した。どちらからともなく歩き始め、暫く無言のまま帰路を辿る。少し強く言い過ぎたかなとか、自分で墓穴掘ったのに拗ねるなんて我ながら子供じみてるなとか、考えを巡らしている内に家の近くまで来ていた。この辺で大丈夫です、と伝えようと隣を見上げると思いがけず視線がかち合った。河村さんは気まずそうに視線を泳がせ、眉を顰めながら口を開いた。
「……あのな、
「えっ、はい」
「あんだけ笑っといてなんだけど、お前の言葉……なんつーか、その」
「……?」
 珍しく言葉に詰まる彼に戸惑いつつも次の言葉を待つ。河村さんは何度か空を仰いだ後に真っ直ぐ此方を見下ろした。
「あんな風に言われたの初めてっつーか、少なくとも今までにはいなかったし」
「……はい」
「だから、まあ……その、感謝してる。ありがとな」
「えっ」
「ずっとこの道が正しいのか分かんねーままピアノ弾いてたけど、此処に来て正解だったんだって、今日初めて思えた」
 だから、ありがとよ。
 そう言うと河村さんは気恥ずかしそうに早足で帰ってしまった。残された私は彼の言葉を整理するのにいっぱいいっぱいだ。──此処に来て正解だった。彼はそう言った。私の言葉が河村さんのこれからに光を与えられたと、そう自惚れても良いのだろうか。
 河村さんの奥底に秘めたる過去に、思いに直面した時、きっと私は尻込みして立ちすくんでしまうのだろう。自分がそういう人間だということを自分がいちばんに理解していた。
 私と河村さんとの出逢いは偶然の産物だ。オーナーという点で結ばれた糸によって手繰り寄せられただけ。どちらかの糸が切れてしまえば出会うことはなかった筈だ。──けれど、それが何だと言うのだ。彼が正しいと思えた道がそこにあるのなら、私はきっと立ち止まってなどいられない。暗い海に道筋を示す灯台となる役目があるのなら、私はその役目を買って出ずにはいられない。彼のこれからに意味を与えられるのなら、私はそれこそどんな努力も厭わないだろう。例え出逢いが偶然だとしても、彼が──河村さんがその偶然に意味を見出しているのなら、余りに十分すぎる。
 ──ここまで河村さんの未来に希望を与えたい理由が分からないほど、自分の抱く感情が分からないほど、私は不甲斐なくもなければ、愚かでもない。

2017/12/08