約束・海・エンドロール
Ⅰ.magic hour
「大丈夫? 死にそうな顔してるよ」
 脳天を突き抜けていた直射日光が遮られて、気休め程度の淡い影に埋め尽くされる。その柔らかな声が鼓膜を揺すった瞬間、今日一番に三半規管を刺激された。頭の芯が軸を失ったように傾いて、視界が歪に捻れていく。重力が一気に雪崩れ込んでくるような錯覚に苛まれながら、へたりとその場に蹲った。目まぐるしく到来する症状のオンパレードで身体が全く言うことを聞かない。隣の彼女は後を追って静かに屈み込むと、ひたすら私の背中をさすってくれていた。
 穏やかな時間の移ろいと共に症状は軽快し、気分もいくらか晴れ渡ってゆく。ふと視線が行き着いた先では、純白に染まるスカートの裾が砂利に吸い付いて色を淀ませていた。私のものではない、初めて人前に出された、下ろし立てだという彼女のワンピースだ。邪気めいた嘔気が鎮まるのを待つ余裕もなく、本能的に頭を持ち上げる。首根まで這い上がってきたのは胃酸ではなく罪悪感だった。良心に煽られるがままに腰を上げ、華奢で骨ばった手をすくい上げる。今度は彼女が私の影に覆い尽くされる番だった。マキマさんはひらりとスカートの埃を払って立ち上がった。美しい面貌になじるような双眸とあくどい微笑を乗せて。
「船酔いするタイプなんだ、ちゃん」
「私も、今日初めて知りました……」
 深く帽子を被り直して視線を傾けるも、聡明なマキマさんの慧眼からは逃れられない。庇の下をかい潜って現れた、渦巻を彷彿とさせる瞳に心臓を鷲掴みにされる。ぐっと生唾を飲み込んで、自分でも初めて体感した貧弱な性質について恐る恐る白状した。マキマさんに射竦められるといつもこうだ。肉体が強張って機能不全に陥りそうになる。緊張でも恐怖でもない、増してや嫌悪でもない。全身を支配する、この感情の正体は何なのだろう。
 マキマさんは揺れる長髪を耳に掛けながら辺りを見回した。同じ船体に乗り合わせていた乗客は既に各々の旅路に向かった後で、私達を待っているのは皮膚を焦がす灼熱の太陽だけだ。この場に留まれば留まるだけ体内の水分は汗と化して垂れ流されるだろう。活力を吸い取られて干乾びかけた私を見兼ねてか、マキマさんは唇に指先を添えた思案顔でひとつの提案をした。
「一旦どこか座ろうか。日差しを凌げる場所があれば良いんだけど」
「や、もう、平気です。ただの立ち眩みなので」
「そう?」
 首を傾いだ拍子にマキマさんの髪の束が靡いて、鼻腔が震える。とびきり良い匂いがした。執務室に立ち寄ったときとはまた違う、潮の香りに紛れる控えめな甘い香り。風向きが変わって、その清香は引き波のように颯爽と逃げてしまった。
 今この瞬間、何よりも実感していた。謎に包まれたあのマキマさんのプライベートに立ち入っていること。足首が寄せ波に襲われたときのように、その実感がじわじわと侵襲する。肋骨を突き破りそうな脈動のせいで、胸が痛い。
「行こうか」
 少し汚れてしまったスカートの裾が意思を宿した生き物のように軽々と翻る。マキマさんは涼し気に目を細め、緩やかに足を踏み出した。目に沁み入るほどの眩しい首筋には一粒の汗も流れていない。炎暑の日差しですら彼女には寄り付けず、焦熱の外気さえも彼女には遠慮してしまう。夏の魔物を飼い慣らすことができる人種は、この世界中どこを穿り回ってもマキマさん以外は掘り当てられないだろう。
 縺れる足を叩いて気合を入れ直し、自然の風景に馴染まない鮮やかなカメリア色を追った。頭上ではカモメの大群が宙を渡っていく。喧しくさえある怒涛の大合唱は、見知らぬ異邦人への盛大なおもてなしなのかもしれない。呑気な思考を見透かしたように、三歩先で私を待つマキマさんが優雅な含み笑いを浮かべた。


 物怪の幸いだった、とは少し不謹慎かもしれない。マキマさんと早川くん達が決行予定だった慰安旅行は、多大な犠牲と心労を積み重ねた末に頓挫してしまったのだから。けれど、自身にとっては何にも勝る過分な果報だったのは事実認めなければなるまい。彼女から旅行に同伴しないかと誘いを持ち掛けられたとき、当然だが私の表情筋はだらしなくふやけるのを我慢できなかった。マキマさんの言葉を幾度も反芻し、ようやく理解に到達する。壊れた赤べこのように何度も首を振って、鬼気迫るふたつ返事を贈った。有り余る激情に対して、彼女は真反対の反応だった。口角は疎か眉さえ感情を示すことなく、予定調和とばかりに待ち合わせの日時と時間を伝えられた。
 どうして、なにゆえ、私なのだろう。その疑問が脳裏を過ぎらなかったと言えば嘘になる。寧ろ夜が更けて目蓋を下ろす度に思惟を繰り返してきた疑義だった。私も特異課に根を下ろして長いとは言え、マキマさんほど上層の人と仕事外での付き合いなんてほとんどないに等しい。無論、彼女も同様だ。公安対魔特異四課として合併されるまでは、遠目に見るだけの高雅な存在だった。関係性の乏しい単なる一部下を連れ立つくらいなら、ひとりで羽を伸ばした方がよほど良い息抜きになるんじゃないだろうか。幾ら頭を悩ませても正答は得られない。結局、私にとって又とない好機には違いないから、マキマさんの思惑を図るだけ無駄なのだった。
 好き……だと思う。高圧的ではないが高貴を纏っていて、それでいて気さくな人柄と性別問わず魅了する見目形。総じて完璧すぎる布陣だ。嫌う理由がひとつも見当たらない。だから逆説的に、好き。至極単純だった。でも、好意なんて移り気の激しい感情は単純で当然なのだ。結論、マキマさんが好き。好きだからふたりでどこかに足を運びたいし、彼女のことを深く知りたいし、あわよくば距離を縮めたい。心の奥底に秘めたる私の疚しい意図も、マキマさんに掛かれば既にお見通しだろう。それでも良い。私が真に完遂すべきはふしだらな利欲を満たすことではなく、彼女の心身を慮り骨の髄まで労うことだ。……初っ端から気苦労を増やしてしまった時点で紛うことなき失敗なのだけど。
 江の島周りの海上を進む遊覧船は、十分と経たずに役目を終えて帰着した。マキマさんを含め乗客はみな青々と茂る海原と瑞々しく光る飛沫に高揚していたけれど、私は座席の片隅で身を縮めて尋常でない冷や汗を流していた。胃酸を吐き散らすことなく耐え抜いたのは奇跡と称しても差し支えないだろう。地上に降り立って少しずつ目眩と嘔気が肉体から去っていき、どうにか私は行旅を続行できそうな水準にまで回復した。
 羽が生えたような足取りで次にマキマさんが向かったのは、海沿いに面する小ぢんまりとした料亭だった。自然の緑に囲まれる年季の入った木造の建物は、今となっては稀有で古風な趣を偲ばせる。萎れた暖簾を潜ると、店主の快活な声によって奥の座敷に通された。実家を彷彿とさせる古めかしい香りに、仄かな磯の香りが混じっている。座敷の壁側に設けられた窓の外には、パノラマじみた広大無辺の太平洋が映し出されていた。あんなに自律神経を乱された大波も、観測者側に立ってみればちっとも脅威を感じない。かわいいものだ。たゆたう白波の軌道を目で追っていると、ぺらりと何かを捲る音が落ちた。
「ここのお刺身、地酒と合いそうだね」
 出処は簡素なメニュー表に視線を注いでいるマキマさんだった。彼女の指先が奏でた音と併走した予期せぬ発案に、心臓が跳ね上がる。目を伏せて、密やかに手首を確認した。規則正しく時を綴る長針も短針も真っ直ぐ天を指している。見違えることなく正午だ。どうやらマキマさんは昼間から飲酒を嗜む心積もりらしい。後光の差す聖女のようなイメージが一気に瓦解していくのを感じた。砕け散った光の礫が青白い海底に沈んでいく。
「趣味じゃなかった?」
 黙り込んだ私を顧慮してか、マキマさんがわずかに身を乗り出して覗き込んできた。視界が彼女を構築する色で染まる。火照る頬の熱を吹き飛ばすように、私は慌てて首を振った。
「とっても、わくわくします」
 言い訳でも言いなりでもない。この胸のざわめきは高鳴りだった。頭角を現したマキマさんの人間味に、世界中の誰よりも興奮している。彼女が同じ惑星に生まれ落ちた人種だという実証足り得る性質に、浮き足立っている。騒ぎ立てる鼓動には、色恋に侵された愚直な熱が迸っていた。
 マキマさんの本来の意図とは食い違った返答も、表出すると運良くその枠組みに収まってくれた。満悦そうに目尻が下がる。流れるように彼女はお冷を運んできた店主に刺身の盛り合わせと地酒をふたり分注文し、用済みとばかりに薄っぺらなメニューを閉じた。
 到着した地酒を注ぎ、早々に猪口の縁が重なる音を響かせた。深閑とした海の音色に耳をそばだてながら、透明に浸したような白身を口内に招く。舌で味わうと同時に喉が唸った。絶品だ。一口目でそう確信するくらいに味覚が弾んで小躍りしている。箸を引き寄せる右手も、猪口に伸びる左手も止まらない。夢中で食を堪能していると、前方からじっと肌に貼り付くような視線の気配が漂ってきた。
「あんまりペース速いとまた大変なことになるよ」
「う、そうですね……」
「美味しそうに食べるちゃんは犬みたいで可愛いけどね」
 危うく箸を落としかけた。動揺した黒目が四方を往来する。まず疑うべくは私の欲望を土台にした幻聴という線だったが、耳を疑う暇さえなかった。嵐のようなものだ。只事ではない事態が襲来しても、過ぎ去ってしまえば後には何も残らない。ようやく瞳が平静を取り戻す頃には、マキマさんは何事もなかったような佇まいで食事に取り掛かっていた。狐にでもつままれた気分だ。内側で蟠る感情とは裏腹に、飢えた食欲を抑えることはできない。見る見る内に刺身は姿を消し、頬は零れ落ちそうになっていた。
 腹を満たして向かった先は水族館だった。どんなに色鮮やかで不思議な見た目をしている珍種の魚達よりも、青白い人工色に染まる麗しのマキマさんを水槽に閉じ込めてしまいたかった。
 心ゆくまで擬似的な水中探索に勤しんで向かった先は神社だった。祀られている名前も知らない神を崇めるなんて非生産的な儀礼よりも、神秘的なマキマさんの横顔を目に焼き付ける方がよほど生産的だった。
 辿り着いた旅路の終着点は稚児ヶ淵だった。島の西南端、断崖を超えた先に広がる海食大地だ。水蝕によって削り取られた数多の岩礁は、打ち寄せる夕波を易々と跳ね除けている。しかし、潮の満ち引きに終局はない。遠洋から差し向けられる波浪は、臆面もなく次から次へと陸地目掛けて迫ってくる。両者一歩も譲らないせめぎ合いが水しぶきを散らして、目映い茜色を反射させた。
 きれいだ。自然界の仕組みが見事に噛み合って生み出された景色が、ではない。この圧倒的な情景を背後に置いても全く霞むことなく、それどころかより一層神々しい風格を増幅させるマキマさんが、だ。撓みのない流麗な輪郭が柔らかそうな肉感を余すことなく包んでいる。風に攫われてはためく髪は毛先まで細やかで繊細だ。夕焼けを染み込んだワンピースが帆のように膨らんで、艶めかしい二本の足を発露させる。全ての要素が至高を成していて、その一景は額縁に収まる絵画のようだ。美術館に足を運んだ際、万人が足を止めて見入るモナリザよりもオフィーリアよりも、目の前のマキマさんこそが芸術品の極点だと思えてならなかった。
 海上に抜き出たわずかな岩群を足場にして、マキマさんは岩場の奥へと向かった。観光シーズンから逸れた日程もあってか、私達以外の観光客は疎らだ。人気のない海は潮騒の唸り声を一際響かせる。海鳴りの微かな隙間を縫うように、彼女の優しい声が届いた。
「今日はどうだった?」
 振り返ったマキマさんの柔い視線が頬を撫ぜる。考えるまでもなかった。逡巡する一秒さえも惜しいくらいに、今日の記憶は色濃く私の中に刻み込まれている。血肉の一部と化していると言っても差し支えないくらいに。
「楽しかったです、すごく」
「なら良かった」
 夕映えの微笑みが、旅の終わりを悼むような表情に見えて胸が熱くなった。鼓動のどよめきに波音のさざめきが覆い被さる。猛々しい荒波のおかげで、私の痴情は彼女まで行き着かなかった。
 太陽が傾いていく。遥か彼方の水平線が、巨大な天体を食らおうと大きく口を開けて待っている。日没まで残りわずかだ。永遠よりも長い一瞬は、さながら満喫した映画の後に迎えるエンドロールのようだった。
 マキマさんが薄い唇に隙間をつくった。緩やかに形状を変える口唇を眺めても、彼女が発した声音までは聞き取れない。何かとても短い言葉を紡いだ、という事実だけを認識した。その刹那、視界が大きくよろめいた。衝撃、そして違和感。意思と背反して身体の芯が傾いた。被っていた帽子が風に唆されて遥か遠来へと飛び去っていく。激しい大波に足元を掬われたような感覚に陥って、敢えなく私は岩場に倒れ込んだ。
 思考が現実に付いていかない。刻々と進む時間に反して、心も身体も取り残されている。震える手で違和感の正体をまさぐると、辿り着いた。脇腹の辺りに泥濘を塗りたくったような、ぬるりと滑る感覚。手のひらを開けば、西日では染まりようがないほどの鮮烈な赤黒い液体で濡れていた。衣服の上にまで滲み、海面に零れ落ちて透明を穢していくその液体が私の血液だと理解するのに、そう時間は掛からなかった。
「ごめんね」
 耳元でうっそりと囁き声がする。首を擡げれば、屈み込んで間近にまで迫ったマキマさんの瞳に射抜かれた。神秘と怪異を宿した双眸がたおやかに和らぐ。私の身に起きている奇異的な生命の危機なんてものは眼中にないみたいに、彼女は淡々と告げた。
ちゃんとは今日でお別れになってしまったの。残念だけど」
「……ぁ、……」
「私も楽しかったよ。ここで終わりなんて、本当勿体ないくらい」
 相手への無頓着が滲み出る社交辞令のような声色なのに、どこか温もりを感じる。ビロードに包まれているような安心感が灯される。不思議だ。本当に不思議なのは、重心を失って四肢の制御が利かない私を、血塗れになることも厭わず抱き留めてくれている彼女の真意だった。
 マキマさんの言葉は核心に触れなかったけれど、仄かな情報の断片を与えてくれた。私に致命傷を負わせたのは彼女で、私が死すのは既定路線で、覆ることはないということ。傷口から流れ出る生命の水路が枯れ果てる頃には、私はもう呼吸を取り止めて絶命しているだろう。遠くない未来が予感から確信へと切り替わっていく。
 この異端な状況下で、奥底から湧き上がったのは既視感だ。身に覚えがあった。酩酊する脳髄の淵から浮かび上がる、記憶の欠片たち。忘却していた在りし日の追想が、重なり合って繋ぎ合わさって完成する。まるで雲間から差す薄明光線のように、きらきらと降り注がれる雪の微粒子のように、閃きが落ちてくる。あぁ、そうか。だからマキマさんは、私をここに……。
 簡単なことだった。彼女が一部下に過ぎない私を旅行に誘った理由。旅路の最果てに海を選出した理由。すべてに得心がいった。持ち腐れていた願い事が、長い長い年月を経てようやく浄化されていく。
「……ぜんぶ、叶えて、くれたんですね……」
 途切れ途切れの拙い発語も、どうにか私が伝えたい文章の体を成した。マキマさんがわずかにを目を瞠る。繊細な睫毛の淡い影が微かに震えた気がした。
「驚いた。思い出したの?」
「……は、い……」
「そっか」
 驚嘆とは程遠く、水で希釈したような淡泊な声だった。けれど、鼓膜に心地よく馴染む声。まるで羊水に浸かっている胎児にでなったような錯覚さえ催した。
 浅くなる呼吸が精一杯で、もうそこから発声には至らなかった。視界が霞んで世界の明度が落ちていく。マキマさんはなだらかに朽ちていく私を食い止めるでも追悼するでもなく、微睡みに誘う聖母のような微笑を湛えた。
「目を閉じて。楽にしてごらん」
「……」
「おやすみ、ちゃん。いい夢を」
 間もなく日が沈む。夏が終わる。苛烈に燃え盛る夕焼けが身を焦がしていく。永遠よりも長い一瞬が、ようやく終焉を迎える。
 抱き寄せられているマキマさんの手は揺りかごを揺らす手付きよりも優しく、けれど死にゆく私の肌よりも冷たかった。


Ⅱ.look back
「大丈夫? 死にそうな顔してるよ」
 脳天を突き抜けてくる声は至極どうでも良さそうな、興味を示さない他人の近況を形式的に尋ねる程度の愛想しか含まれていなかった。事実、見知らぬ他人だった。
 目映い雪片を背後に散らして現れた女性は、薄目でも胸を穿つほどの美人だった。臨死状態の私を迎えに地上に降り立った天使かと本気で思った。漆黒のロングコートが白色の飽和する街によく映える。ひとつに纏めた三つ編みは寡黙な印象を与え、微分も崩れない微笑は不気味な印象を与えた。けれど、どの画角から被写体を収めても疑う余地なく美しいひとだった。
「傷口が開いてる。今のままじゃ直にキミは死んでしまうよ」
 死体を目前にした血塗れの人間を前にしても女性は平然としていた。それどころか、一刻も早く余分な魂を削ぎ落として亡骸と化すのを待っているような、そんな心地にさせる瞳だった。五感は確かに褪せていくのに、背筋がぞっと寒気を覚える。悲鳴も上げず漫然と見下ろしている時点で、きっと彼女は非凡な職に就いているか、鬼も裸足で逃げ出すほどの冷酷な心の持ち主なのだろう。或いは両方か。
「遺言があるなら請け負ってあげる」
 漠然とした推論を裏付けるように、彼女はそんな甘言を落とした。まるで速やかに現世の未練を断ち切ってしまえと言わんばかりの文言だ。私の人生と無縁の通行人が、一体どんな手段を用いれば家族や知人に遺言を渡しに行けると言うのだろう。甚だ疑問だ。訝る視線を感知している筈なのに、女性は麗らかな表情を手向けるだけだった。
 少しだけ困らせたくなった。後悔させて、その柔和な笑顔を崩したくなった。他人の死に際に土足で踏み入り、あまつさえ自分の指向を介入させようとしたこと。どこから湧いてくるのか分からない気概に背中を押され、激痛が迸る喉を奮い立たせた。
「言い遺したことも、やり遺したことも、山積みです……」
「あらら。キミ、夏休みの宿題を溜め込むタイプでしょう」
「……すごい。天使には、何でも、お見通しですね……」
 幼少期なんて振り返るまでもない。寧ろ社会に出てからの方が、厄介事を後回しにして逃げる性質は助長された。今日この日の不始末も、最悪を辿った末路も、その性質が起こした喜劇に過ぎない。
 浮ついた気持ちで浮気をした。私が不倫相手だった。誘いを持ち掛けられた相手が既婚者だった。何が魅力かも見出せないまま別れを切り出す気力を惜しんで肉体関係をずるずる続けていたら、突然背後から刺された。女だった。一目見て、彼の待ち受け画面に映る幸薄そうな女だと分かった。その気迫に満ちた行動力を彼のために使えば良いのに、と倒れ込みながら他人事のように思った。女は我に返った途端、自分のしでかした所業から目を背けるように血相を変えて逃げ出した。後に残されたのは、人通りの少ない路地に蹲る私と、血液を吸い込んで禍々しい水溜りに変貌していく積雪だけだ。自業自得の人生、その終着点とは言えこんな孤独を噛み締めるなんて。渇いた笑いが込み上げた瞬間、彼女の声が降りてきたのだ。
 女性は白い吐息を上空に漂わせて、薄く唇を広げた。空虚だった瞳の中に興味本位の光が兆す。
「天使じゃないよ。私はマキマ」
「マキ……、」
「ねぇ、助けてあげようか」
 気紛れか、それとも別の企図を編み出したのか。マキマと名乗った女性は、先に掲げた建言とは全く別種の意向を垣間見せた。思案に浸る暇はない。いくら道徳的によろしくない行為に没頭していたとしても、その贖いのために生涯を閉ざすほどの罪咎ではない筈だ。まだ更生する余地は有り余っている。私は寒々しく吹雪く絶え間を埋めるように幾度も頷いた。従順な反応が大層お気に召したのか、マキマさんの表情筋は女神顔負けの微笑みを生み出した。
「ゆっくり目を瞑って。次に目を開いたら、キミの傷はもう治っているから」
 彼女が膝を付き、私の耳孔にそう吹き込む。凍った皮膚に温い吐息は相性が悪い。頗る肌が粟立った。やはり宗教勧誘か、若しくは暴力団への身売りか何かだろうか。現実世界の摂理を超越した謳い文句は俄には信じがたい。目を覚ましたら手術台に磔にされて、マッドサイエンティストの実験台にされていたりして。ろくでもない妄想が脳裏を掠めたけれど、結局私は既に限界を迎えつつある目蓋を下ろした。選択肢はない。今の私に、マキマさん以外に縋り寄る居場所も生き延びる手段もない。案外、図太く生に執着しているらしかった。
 瞑目すると、途端に意識が重くなる。精神がもう諦めたと肉体が高を括ったのだろう。残念だけど、私のしぶとい身体にはまだこの粗末な人生に付き合って貰わねばならない。
 自ら世界との断絶を図ったけれど、聴覚は実にちゃっかりしている。マキマさんの微かな笑い声をすくい上げて、過敏に反応した。
「何をやり遺していたの?」
「……美味しいもの、食べたいし、美味しいお酒も……。次は真摯な人と付き合いたい……」
「人間の生理的欲求に素直だね」
 我ながら失笑を零してしまうくらい、連連と欲望が芽生え始める。不満や遺憾は湯水のように湧き出ても、充足感なんてものは得た翌日にはすっかり忘れ去っている。都合の良い生き物だ。
「それから、海を見たいです」
 身勝手ついでに、最高に我欲に溢れる願い事を託した。私の実家周りは耕地が広がるだけの緑溢れる田舎町だった。東京に出てきてからも、一度も青々しく輝く海原に繰り出したことはない。夢だった。写真でしか見たことのない果てしなく続く水平線は、まるで自由の象徴のように思えたから。
「……いいね。かわいい願い事」
 呟きが落ちると同時に、指先に何か絡まる感覚があった。恐らくマキマさんの指先だ。細くて骨ばっていて、人肌なのにどこか冷たい。この行為に何か意味があるのだろうか。無為な疑問を握り潰すように、彼女のしなやかな手指が私のそれと結び合った。
「おやすみなさい。いい旅を」
 とどめの子守唄だ。甘美にとろける声が浸透して、やがて微睡みに沈んでいく。目蓋が重い。喉が焼け付くように痛い。世界が呆気なく遠退いてしまう。
 次に目を覚ましたとき、もし本当に私が現世に留まっていられたのなら、マキマさんを海に誘ってみよう。くだらない人生をお行儀良く墓場に埋めるよりも、希望を降り注いでくれた彼女のために人生を捧げたい。そんな浅はかな愚考が満ちていく。愚直な満足感でいっぱいになる。
 固く繋がれた手のひらのように、マキマさんと結ばれた縁がどうか最後まで途切れませんように。私の不純な願い事は、眠りの海底に墜落して溶け落ちていった。


2021/07/27