ひとときおわかれ
 あの男が利用するには似つかわしくない、今にもクラシックが流れ出しそうな優美な空間だ。ネームプレートの上に研修中と記されている新人の店員は、細やかな所作で奥の座席を指し示した。片時も崩されない鷹揚な微笑も、上品でいて流暢な言葉遣いも、店の質がよろしいことの証明だ。隅々まで礼節の指導が行き渡っているのだろう。そういった些細なことでも、後々振り返ったときに再度利用したいと思うきっかけになるものだ。現に私は今、プライベートでならいくらでも来たいと思っている。……プライベートでならの話だが。
 案内通りに店内を進み、この喫茶店を待ち合わせ場所に指定した男の姿を捉えた。最奥に位置するテーブル席には天窓から陽光が差し込んで、木製の机上一面を照り付けている。いつもならその明朗さの対極に位置するような翳りを帯びた見目をしているのに、何故だか今日はこの場によく溶け込んでいた。私からすれば、不純物を見出だせないきれいな融和は、逆に異質に際立って見える。その違和感の正体は、よく目を凝らせば自ずと理解が追い付いた。制服だ。オフホワイトのブレザーに、黒のワイシャツと真紅のネクタイが色調のバランスを引き締めている。エリート進学校のような出で立ちは、優雅な客が占める店内に程良く馴染んでいた。その装いは決して虚偽で塗り固められたものではなく、俄には信じがたいが、本物だ。デビルハンターの裏の顔がこんな善良そうな高校生だなんて、ここにいる誰も想像すら及ばないだろう。私だって、一緒に仕事をした試しがなければ事実を告げられても訝しんだに違いない。それくらい相反する二面性の顔を調和させて、各々の環境下でうまく順応している。それぞれで顔を使い分ける方がよほど楽だろうに、全くもって器用でいけ好かない男だ。そういう部分も相まって、私はやはりこの男を好きになれないでいる。
 彼は何やら俯いて、右手に持ったシャーペンの先を一定間隔で叩き付けていた。視線の先に広がる羅線ノートは、連連と数字や記号が埋め尽くされている。数学の課題か何かだろうか。近寄りながら、繰り出された芯が指し示す方程式を脳内に思い描く。よくある引っ掛け問題だ。
「xの代入が間違ってる」
 ロングコートを脱ぎながら、シャーペンの芯が留まる方程式の誤謬を唱えた。はっとしたのかしてないのか、緩徐な動作で頭が持ち上がる。一点の光も窺い知れない暗闇に扮した双眸と目が合った。途端、底知れない不気味な笑みが貼り付いて、いつもの吉田に戻った。私がよく知る、薄暗い路地裏でひとつもたじろぐことなくひとを殺す、吉田ヒロフミだ。
 嫌々ではあるが、用件があるので致し方なく向かいの席に腰を下ろす。吉田は消しゴムでノートを擦って、方程式の一部を書き換えていた。正解に辿り着いたらしい。若輩ながらデビルハンターとして数多くの戦果を上げているのには、こういう頭の回転の速さも一役買っているんだろう。ぼんやりとそう思った。
「一目でよく分かりましたね、さん。数学の成績良かったとか?」
「忘れた」
 数学の得手不得手を思い返したところで、私には何のメリットもない。記憶を手繰り寄せる素振りも見せず端的に答えると、吉田は唇だけに微笑を湛えた。その回答すら想定内と言いたげな佇まいだ。悠々とした態度に沸々と湧き上がる苛立ちをぐっと堪えていると、奥から先程とは別の店員が現れた。こちらもおおらかな笑顔と一分も隙のない動作が様になっている。私の前にお冷を置くと、エプロンの外ポケットから注文表を取り出した。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「あ……えっとじゃあアイスコー」
「この日替わりケーキセット。飲み物はアイスコーヒーで」
 尋ねた私ではなく、既に炭酸の抜けたコーラが手元にある吉田がそう言い放ったものだから、店員はわずかにまじろいだ。恐る恐る私の意向を窺うように視線を注いできたから、取り立てて気にしてない風を装って頷く。緩やかな足取りで去っていく店員を視界に捉えながら、吉田に睥睨を寄越した。何でこいつ、私が甘いもの好きって知ってるんだ。身体の内側でとぐろを巻く疑問が不快感に変わる前に、私はコートのポケットをまさぐって封筒を取り出した。それなりに厚みのある封筒を吉田に向かって放り投げる。本日この会合はただの近況報告会でもなければ、数学の分からない箇所を手取り足取り教える勉強会でもない。本来の目的に照準を定め、最短ルートで努めを果たして引き上げようと決心し、潔く口を開いた。
「これ、マキマさんから」
「どうも」
「前もって提示していた分に加えて働いた分は上乗せした、だって」
 マキマさん専用の執務室で伺った話をそのまま舌に乗せて押し出した。普段は民間で小遣い稼ぎをする吉田をわざわざ雇ってまで依頼した護衛の報酬、その受け渡しの仲介役が今回私に課された仕事だ。あの重量と厚みから推測するに、とんでもない枚数の一万円札がひしめき合っていることだろう。丁度運ばれてきたグラスにストローを差し込みながら、その金額を勘定して背筋が震えた。
 吉田は金一封を開いて、中身を目視で確認する。満更でもなさそうな吐息が宙をたゆたった。
「よく働いたってことか」
「そうなんじゃない? 君の働きっぷりを知らないけど」
「聞いたらさん卒倒しますよ」
「言ってろ」
 よく回る口に半分感心を覚えながら、ストローに唇を寄せた。這い上がってきた純正の苦味にわずかに狼狽えて、自然を取り繕ってガムシロップを投入する。氷を巻き込んで掻き混ぜると、吉田は空気の洩れるような声音で笑った。お見通しらしい。
「これで俺はお役御免か」
 白封筒を、これまた育ちの良さが漂うスクールバックに仕舞いながら、吉田はしみじみと呟いた。落とされた独り言が上品を纏った空気に淀みをつくる。しっかり甘味がプラスされたコーヒーを啜りながら、彼の言葉を咀嚼した。
「あれだけ大規模な護衛任務は、民間どころか公安にも中々舞い込まないだろうね」
「そういう意味じゃないですよ」
 じゃあどういう意味よ。苦言を述べるより前に、吉田は手持ち無沙汰だった右手でシャーペンを持ち、何やらノートに書き出した。すらすらと滑らかな手付きが足並み揃った流麗な文字を生み出していく。芯と紙が擦れ合う心地良い音が、学生時代の名残のような懐かしさを連れてきた。
さんはどっちにつくんですか?』
 書き終えてシャーペンを転がした吉田は、目配せで返答を促してきた。随分と用心深いことだ。人で溢れる店内のどこを見渡しても、野良の下等生物どころか飼い猫一匹見当たらないというのに。変なところで詰めが甘く、変なところで勘が鋭い。
 どっち……。岸辺隊長かマキマさんか。人間の味方につくか悪魔の味方につくか、それとも全く別の何か……。
 考え事は苦手だし、頭を効率よく働かせるのはもっと苦手だ。吉田が呈した疑問には、数学のように唯一無二の正答が存在しない。それどころか、どちらに転んだとしても日本がこの先どうなるか、デビルハンターの行く末がどうなるかは明確で、同一の末路を辿ることは必至だ。私達以上にみじめで惨たらしい死に様がお似合いの職種もそうない。どちらを信用するかを考慮したところで、悪魔は私達の死に様を考慮してくれないし、未来を夢見る余力も与えてくれない。
「どっちだろうと、行き着く先はおんなじだよ」
 諦念すら匂わせる返答に、吉田はうんともすんとも言わなかった。こういう答えを予期していなかったわけではなさそうだが、面白くなさそうに厚みのある口唇を引き結んでいる。物珍しい表情が目を引いて、少しだけ反応に困った。
 手付かずのケーキを吉田側に押しのけて、立ち上がる。今日の目的は十分達成された。財布から千円札を数枚取り出して机に置いておく。座席の片隅に丸められたコートを腕に提げて席を立つと、そのコートの裾を吉田が引っ張った。作為的な引き留めにむっと唇を尖らせて、手を伸ばした本人を見下ろす。吉田は底気味悪さを隠し立てることなく、不変的な微笑を貫いている。
「来週、期末テストなんですよ」
「そう」
「終わったらデートしませんか。今日貰った金でぱーっと」
 その一言で身体中を隈なく巡る血液が逆流するような、胃の中の粘液が荒波を立てるような、とてつもない違和感に襲われた。悪寒のような、絶念のような、形容できない感情が全身に立ち籠める。日光を浴びる吉田の姿かたちが歪にねじ曲がって、非現実に誘われるような錯覚を覚えた。
 違う、本当に非現実に足を突っ込んでいるのは、私側だというのに。
 今週末に差し迫った銃の悪魔討伐遠征を民間の吉田は知らない。知る術がない。例えマキマさんに敵対する側として暗躍していたとしても、岸辺隊長は未成年の若人を死戦に送り込んだりしない。じゃあ、もしマキマさんの味方だったら? だったら、私は試されている? ……。
「……いいよ。映画館デートしよう」
 確証のない約束を取り交わしたのには、あの吉田が上がってから落ちる瞬間が見たいという身勝手で不純な思惑があったからだ。約束を守るつもりは微塵もない。そも、私は疎か遠征に係る人間はひとり残らず東京の地に戻れないかもしれない。物理的に、約束を守ることは不可能ということ。そう予感がしている。
 行き着く先は同じだ。人間も魔人も悪魔も、皆平等に舞い降りてくる死を享受する。そして、そこには何もない。無があるだけ。
 やけにすんなり承諾した私に瞠目したが、やがて吉田は満足そうに笑った。嫌悪感を催す微笑をこの目に焼き付けるのはこれが最後な気がして、少しだけ後ろ髪を引かれたけれど、結局私は吉田の制止を振り切って店を後にした。
 帰途を辿るさなか、訪れるはずのない映画鑑賞のラインナップを脳内に並べていた理由は、私にも分からなかった

2020/09/24