かわいい蛮行、やさしい戯言
 唖然とした。
 今自分が置かれている現状にも、此処に至った浅はかな自分の愚行にも。何もかもに愕然として、開いた口が塞がらなくなる。新品同然の突っ張ったシーツの上でひとり、頭を抱えて項垂れた。なんてことだ。
 私の汗ばむ掌には一冊の手帳が握られている。掌サイズのその手帳は、社会人になってからは縁も所縁もなくなった物品だ。私ではない他者の所有物。乱雑に椅子に立て掛けられた上着から、それ見たことかとポケットから零れ落ちたのを私が拾い上げたのだ。この持ち主はシャワーを浴びるとだけ端的に告げて、さっさと浴室に向かってしまった。私だけが薄暗い寝室に取り残されている。
 手帳の内側に記されていたのは、持ち主の名前と、持ち主の在籍する組織の名前だった。組織と称するには些か生ぬるい、縦社会では最も生易しい部類の団体。証明写真の中の彼も、本人には違いないが、品格の漂う白のブレザーに臙脂色のストライプ柄のネクタイを締めている。今日初めて顔を合わせた彼が有する雰囲気とはまるで別物だ。彼の名前の横には、無機質な明朝体で高等学校二年生と印字されていた。
 詰まるところ、成人して久しい私は学生身分で未成年の男とホテルに雪崩込み、挙げ句の果てに彼と一夜を過ごそうとしていたのだ。純白な理由など欠片もない、男と女の明け透けな欲望を満たすためだけに、この安っぽい大味なラブホテルに足を踏み入れたのだ。
 思わず叫びたくなった。許されたのなら叫んでいた。粗末な造りのために隣室から洩れ出る喘ぎ声を掻き消すように、散々に喚き散らしていた。その衝動を堰き止められたのは、頭の片隅に僅かながら残存していた理知的な思考のおかげだ。女の金切り声がすると通報され、この事案が公に晒されてしまえば、必然的に私は人生のすべてを失う。職も家も、人権すら奪われて、未成年に淫行を迫った犯罪者としての烙印を押される。生涯後ろ指を指され、不自由な暮らしを余儀なくされる。そんな想像するに容易い未来が脳裏を過ったから、既の所で声を押し留めた。否が応でも体温は上昇して熱気が体内に蟠っているのに、背中には無数の冷や汗が伝っていく。いくら目を凝らしても眼前に聳え立つ現実は真実そのものだ。やはり私は愕然として、悶絶した。
 事実を認識したのが事に及ぶ前だったということが、せめてもの救いだろうか。そんな風に、自分の行動は犯罪行為としては僅かに劣るとばかりに主張する図々しく猛々しい自分に、思わず溜め息が洩れた。その幽かな吐息に覆い被さるように、浴室の扉が開く音が響き渡る。中から湯気が立ち火照った身体にバスローブを纏った青年が現れた。しっとり濡れて水滴が滴り落ちる純黒の髪の毛と、その隙間から覗く宵闇を詰め込んだような瞳に、思いがけず胸が高鳴る。しかし、慌ててその煩悩を薙ぎ払った。胸の内側に燻っているときめきを振り捨てるように、握り締めていた生徒手帳を彼目掛けて投げ捨てる。肩に当たって床に落下した手帳には微塵も目をくれず、彼は私に視線を注いで目を瞬かせた。
「うわ、なに?」
「何じゃないよ! これどういうこと?」
「これ?」
 小首を傾げる彼に、沸き起こる憤怒は膨れ上がるばかりだ。激昂したくなる情動を何とか抑え付けて、私は先程かなぐり捨てた生徒手帳をびしと指差す。人差し指を突き立てた方向を一瞥した彼は、得心がいったのか朗らかな声で「ああ」と零した。向き直った彼は、厚い唇にしっかり笑みを湛えている。
 確信した。この男、確信犯だ。
「吉田くん、きみ高校生なの……!?」
「そうだよ。言ってなかったっけ」
「言ってないし聞いてない……!」
 まんまと騙された。というか、騙されたで済む問題ではない。下手を打てば、私は半永久的に閉ざされた監獄にぶち込まれていたかもしれない。社会人として駆け出したばかりで、この世に蔓延る悪魔とも無縁に生き抜いてきた花の人生が、突如として終わりを迎えていた可能性もあるのだ。悪徳商法にも程がある。
 彼──吉田ヒロフミくんは、私の直感が正しければ間違いなく、“故意的に”言い忘れた。そうに違いないと女の勘がけたたましく主張している。合コンという名の飲み会の場で、皆が皆自分の生業を明らかにする場で、彼はのうのうと「デビルハンターやってます」と申告したのだ。学生身分ではなく敢えてその職業を開示した理由なんて、それこそひとつしかない。適当に女を口説き落として、エッチして、後から学生だと打ち明けて口止め料を押収したり今後も無銭で肉体関係を強要したりする。悪徳極まりない手口で女性を手駒にして、やりたいようにやり尽くす。貪り尽くす。そんな非道な性分に違いないと、私は数多の状況証拠から断定した。そして私もその被害者として名を連ねる恐れがあったと思い及んで、身震いする。大変見目がよろしく、どこか危険で妖艶な雰囲気で異性を魅了する吉田くん。彼が未成年という括りにいなければ、確かに私は身も心も虜になって、迷うことなく身体を明け渡していただろう。そんな不埒で短絡的な思考によって訪れていたかもしれない未来に、全身が縮み上がった。穴があったら入りたいとは正しくこのことだ。慣れない合コンに勢いに任せて参加するものではないと教訓を得た。
「吉田くん、お咎めはナシにしてとりあえず今日は帰ろうか」
 できる限り明るく、神経を逆撫でしないよう快活な声色で提案する。叱責することなく最大限に謙ったこの態度に免じて、今宵はこの場を収めてはくれないか。そう念じながらぎこちない作り笑いを浮かべた。しかし私の願望など露知らず、吉田くんはきょとんとして首を傾いでいる。乱雑にタオルで髪の毛の水分を散らしている彼は、どうしてその結論に至ったのか、まるで理解していないようだ。それとも、このあどけなく純真無垢を醸す表情すら演技なのかも。疑い出すとキリがなかった。
「帰る? なんで?」
「……色々理由はあるけど、未成年が深夜に彷徨くのも、こんな場所に来るのも頂けません」
「未成年がホテルに泊まることの何がいけないんだ?」
「だから、それは……」
 さり気なく、かつ穏便に窮地から脱しようとする私の魂胆を見抜いているのかいないのか、一歩も引けを取らない姿勢で吉田くんも応戦する。真意をひとつまみも見出だせない、虚偽に塗り固められたような真ん丸のまなこが私を貫いて、ぎくりと身体が強張った。何とも居た堪れない。私を陥れるためにわざと言い忘れたのか、それとも何か別の目的を擁して言い忘れたのか、はたまた純粋に? 狼狽しきって正常に機能していない私のしがない脳みそでは、これ以上真実を正しく判別することは不可能だった。ならば、真偽はどうあれ関わりを途絶させるのが一番手っ取り早く、確実な手段だ。どうにかこの場を凌ぎ切り、以降は吉田くんと無関係に人生を謳歌する。謳歌したい。せねばならない。
 突き進むべき方向を見定めた私は、ベッドの縁に座る吉田くんをしっかり見据えた。内心不安と焦燥に駆られている私に反して、彼は余裕に満ち溢れた笑顔を維持し続けている。心の内側をすべて暴かれている気分でどうも落ち着かない。気もそぞろな私を横目に、吉田くんは尤もらしい言い分を付言した。
「もう終電ないよ。まさか歩いて帰れって?」
「タクシー呼ぶよ。お金は私が出すから」
「金銭的な譲渡が発生する方が、事件性としては高くなるし公になったとき深刻化しやすいと思うぜ?」
 ぴり、と空気に亀裂が走った。私が単にそう感じただけかもしれないが、少なくともその発言には底知れない悪意が凝縮されていた。
 やはりと言うべきか、吉田くんは私がどうして帰らせたがっているのか正確に察しているようだ。捻くれて尖った言い方から推測するに、何が何でも私をこのホテルに引き留めておきたいらしい。そこに根付く理由が何なのか──肉体的な悦楽の見返りが妥当な線だとは思うが──まるで見えてこない。本心を隠し立てて、相手を思うがまま巧みに誘導するのが実にお上手だ。乗ってやるつもりは更々ないけれど。
 対面して、吉田くんを睥睨する。どんなに悪条件であっても勝ち目がなくとも屈するつもりはないと、視線で訴えかける。勿論依然として優勢なのは彼の方だが、ここで引き下がれば一生犯罪者もどきのレッテルを貼られて飼い殺しだ。最悪、男子高校生の肉欲を一身に担う堕落的な人生だってあり得てしまう。そんなのは嫌だ。御免被りたい。まずは慎重に言葉を介して、吉田くんの真意を探った。
「……脅してるの?」
「まさか。俺はたださんが何をそう焦ってんのか分かんないだけ」
「焦るに決まってる! もし何も知らないまま吉田くんと、その……寝てたら、私犯罪者だよ」
 しどろもどろに言葉を紡ぐと、吉田くんはふっと唇を緩ませた。空気越しに伝わってくる零れた笑みに、背骨を指先でなぞられたような、ぞわぞわと奇妙な心地になる。微笑を引き摺ったまま、彼は会話を続けた。
「合意の上なのに?」
「……未成年が相手なんて、世間からしたら私が誑かしたと同義なの」
「ふぅん。いちいち人の目を気にして大変そうだ」
 私の挑発する意味合いもあるだろうが、その言葉だけで吉田くんの学生生活がありありと思い描けた。人目を気にせず放埒に自分を貫いて、同級生や教師から存在自体を忌避される一匹狼。無数のピアスや端正な容貌からしてヤバそうな匂いがプンプンするが、年頃の女の子は深層でそういう危険でバイオレンスな恋愛に夢見るものだから、一定数からは堅固な支持を得られている。男女の交際や営みを、自分の気分や本能に従って繰り返す。移り気の激しい秋空のように、黙々と淡々と。
 吉田くんと男子高校生という肩書きがするすると結び付いて、その生活風景が明瞭に縁取られていく。初めて会話を交わした頃からすれば俄には信じ難いことだ。第一印象は妖しい色香の漂う大人びた青年だったのに、今となっては学生というフィルターを通してしか彼を見ることができない。空想上のリアルに思いを馳せれば馳せるほど、この現状が生々しい犯罪臭で満ちていく。知らずの内に深く重々しい溜め息が溢れ落ちていた。それを受けた吉田くんは、水分を含んだタオルを乱暴にサイドテーブルに放り投げた。不服そうに抗議を申し立てる。
「いいじゃん、ふたりだけの秘密ってことで。俺、さんが相手してきた誰よりも気持ち良くできる自信あるよ」
「何言って……。いや、おかしい、絶対ダメ」
「どうしても?」
「どうしても!!」
 頑なに拒絶し、行為の一切を受け付けない姿勢を誇示する。ここまで反抗的で面倒な女と知れたなら、自ずと諦めてくれるだろう。引く手数多(だと思われる)吉田くんならばわざわざ私に固執する必要性もないし、ここで仮に逆上して襲い掛かられでもしたら、それこそ清々しく警察に突き出すことができる。潔白を証明するにはうってつけだ。鞄の底に仕舞って忘れ去られていた催涙スプレーの存在を想起して、勝手に勇気づけられていた。示談に持ち込むまであと一押しだ。
 そんな私の目論見を根本から覆すように、吉田くんは不敵に笑った。ぎょっとして、全身の産毛が逆立つような感覚に見舞われる。この状況下で笑える要素がどこにある? 折角晴れ渡る寸前だった大空が再び鉛色に染まり始めた。只ならぬ気配に、自然と眉を顰める。
「じゃあ何もしないから、普通に寝ようぜ」
「……うん?」
「添い寝するだけ。これなら何の問題もない」
「…………はぁ?」
 その場にそぐわない、間の抜けた声が喉奥から飛び出てしまう。けれど本当にこの場にそぐわないのは、吉田くんの発言そのものだ。誰も彼もが皆まぐわうためにこのホテルを利用するのに、用途に見合わない過ごし方を提案するものだろうか? というか、きみはそれで良いの? 吉田くんが益々分からない。彼を訝しみ、猜疑心を堂々白昼に晒して睨め付ける。視線の照準となった吉田くんは片時も崩さない微笑を保持したまま、首の辺りで後ろ手を組んだ。反った首筋の、男性らしく硬く尖った喉仏が白く晒されて、やたら扇情的に映る。思わず生唾を飲んだが、かぶりを振って劣情に侵されそうになった理性をほんの少し取り戻した。
「……何もしない?」
 恐る恐る尋ねる。もう夜更けも近く、今晩は只でさえ災難続きで疲弊している。だから、吉田くんの案に乗じるのが最良ではなくとも最善の選択のような気がしてきた。毒牙を忍ばせているのだとしても、彼の思惑通りに事が運ぶのならば、そこまで実害を被ることはないのではなかろうか? 我ながら自分に都合の良い甘ったれた結論だとは思う。しかし、もう彼の歪曲しきった思考を解き明かす活力どころか、疑念を向ける余力すら残っていない。今すぐにでもこのベッドに横たわって安眠を享受したい。
「そんなに信用ない?」
「素性を隠してた人間を信用なんてできっこない」
「そりゃ悲しいね。何もしない、約束するよ」
 会話による決め事など何の保証にも制約にもなりはしないが、言質を取るに越したことはない。要は私から吉田くんに手を出した、という誤解を招きかねない状況さえ阻止できれば良いのだ。完全に意識は宿泊する選択肢に傾いていたから、私はその決断にすべてを委ねて颯爽とシャワーを浴びた。ドライヤーで髪を乾かし、肌触りの良いバスローブを纏って部屋に戻る。すると、既に寝そべっていた吉田くんが片腕を広げて、手でこまねいた。どうやら腕の中に入って来いとの指示らしい。躊躇こそあれど、チープな小部屋のセミダブルベッドでは、他に逃げ場もない。諦めてベッドに乗り上げ、彼の肢体に身体を寄せた。
「絶対何もしないでね」
「分かった分かった」
「本当に分かってる……?」
「もちろんだ」
 そう返答を寄越しながら、寝転んだ私を更に引き寄せて、背中を大きな掌で撫で回してくるとは一体どんな神経をしているんだ。鳩尾に握り拳を突き立てたくて仕方なかったが、吹き溢れる憤懣をどうにか抑制し、肩のちからを抜いた。吉田くんもそれを感知したようで、抱き寄せた腕のちからを抜いて私の丸まった身体に密着する。暫くは彼の首元に視線を落として精神だけは研ぎ澄ましていたのだが、やがて上方から健やかな寝息が聞こえ始めた。それが狸寝入りでないか注意深く峙てていたが、結局私も降りてきた睡魔に敵わず、呆気なく瞑目してしまう。視覚が役目を終えたことで聴覚は一層敏感になったが、ついぞ吉田くんの不審な蠢きを感じ取ることはなかった。
 奇天烈な事案に巻き込まれてしまったものだ。微睡む脳内でそんな感想を抱き、今日一日の締め括りとした。できることなら、明日には何事もなく平穏にホテルを抜け出ていられますように。願わくは、今後吉田くんとの一切の関わりを断じて安寧な毎日を過ごせますように。小さな願いをありったけ胸に秘めて、彼の逞しく仄かにあたたかな腕の中、深い眠りに包まれていった。


 そうして迎えた翌日。悲しきかな、私の極小の願いはすべて無下にされた。
 目眩く慌ただしい昨晩なんて物ともせず眠りこける若者に反して、私の気分はすっかり最底辺にまで沈んでいた。気が重い。疚しい行為に勤しんだわけではないがそれはそれとして、未成年とラブホテルで寝泊まりしたなんて会社や友人に知れたらと思うと気が気でない。重罪を抱えたまま人目を気にして暮らす指名手配犯にでもなった心地だ。なったことがないので、想像の産物に過ぎないけれど。
 簡単に身だしなみを整えた頃に吉田くんはのっそり起き上がった。かったるそうな欠伸をひとつ落として、此方を見上げる。あちこち跳ねて乱された髪の毛と、その隙間から窺える純度の高い黒真珠のような瞳。嫌でも昨夜の悲劇が思い起こされた。この容貌に目を奪われ、彼の甘言に絆されてのこのこホテルに連れ込まれた昨日の自分が無性に腹立たしくなる。できることなら巻き戻りたい。過去の自分に、吉田くんの実年齢を教えて差し上げたい。当然ながら無理難題、不可能極まりない仮定の話だ。何せこの世は不可逆的な事象の連続で成り立っているのだから。
 後ろ手で髪を束ね終え、背筋をしゃんと伸ばす。心身の準備を整えて、私は吉田くんに向き直った。
「私、昼から出勤なの。もう行くね」
「ん……、待ってさん」
 ワンナイト・ラブとも称しがたい一夜に幕を下ろそうと一声掛けて即座に部屋を抜け出るつもりだったが、その甲斐も虚しく、吉田くんに引き止められた。寝惚けまなこを瞬かせて、彼は自身の唇を指差す。
「口止め料」
「……はい?」
「チューしたい。それくらい良いでしょ」
 全然何にもこれっぽちも良くない! 深夜の疲労しきった脳に比べると今朝方は些か認識が早く、私は直ぐさま発言の意図を呑み下した。但し、理解はできても許可はできない。勢いよく頭を横に振って否定の意を示す。しかし、吉田くんは見飽きた微笑を浮かべて唇を指し示すだけ。チューしろの一点張りだ。
 私も私で逃げ出せば良かったのだが、咄嗟の判断には滅法弱い。口止め料という単語から、求められた行為を差し出さなければ数多の人間に歪曲して吹聴されるかも、と気が動転していた。結局、私の脳みそは正常な判断ができない有り様に逆戻りだ。足が縺れそうになりながら吉田くんが座り込むベッドに向かうと、彼の口の端が更に上がった気がした。
 決心を固めて、吉田くんを真上から見下ろす位置に立つ。見上げた彼の唇に狙いを定めて、ゆっくり唇を落とした。鼻先が触れて、唇どうしが重なり合う。くっつけるだけの軽いキス。欧米では挨拶代わりだから大丈夫、決して犯罪ではない。そんな日本では通用しない御託を心の奥底で並べて、一秒にも満たない触れ合いに区切りをつけようとした。そのときだ。
「ぅ、んむっ……!?」
 吉田くんの伸びた手によって、腰が引き寄せられる。私の唇は別離を許されず、彼の唇に押し付けたまま延長戦に縺れ込んだ。第二ラウンドの幕開け。息を呑むデッドヒートの開幕だ。触れ合う時間が刻々と伸びるさなか、先に行動に出たのは吉田くんだった。隙間から這い出てきた生温かい舌が唇に触れる。その上口内に侵入しようと悪巧みした舌に、上唇と下唇の繋ぎ目をなぞられた。さすがにこれ以上の暴挙に耐え切れず、彼の下唇に歯を立てる。くびれを掴んでいた拘束が解かれたのを良いことに、ようやく身を離して吉田くんの蛮行から逃れることができた。
「いって……さん凶暴だな」
「なっ、な、何してるの……!!」
「チューだけど。あれだけじゃ他の男より気持ち良くできた自信ないな」
 さも当たり前のように呟く吉田くんに、かっと頬が熱くなる。私が噛み付いた下唇から僅かに血の粒が膨れ上がり、やがて弾けて滴り落ちた。私を冒涜し損ねた彼の舌が、代わりとばかりにその血を舐め回す。思わず背筋が震えた。あれが私の口内を荒らし回る一歩手前だったという事実に直面して、奇妙な熱流が全身を駆け巡る。甘い痺れが齎す名残を断ち切るように、乱れた服を整えて身を翻した。
「もう行く! それじゃあ!」
「またね、さん」
「二度と会いません!」
 私の激昂をどこ吹く風で否し、しまいには再会の契りまで交わそうとする吉田くんに背を向けて、勢いよく部屋を飛び出た。
 一旦着替えようと家路に着く間、何度も唇を這い回るねっとりとした感触が浮かび上がったが、その度にかぶりを振って記憶の奥底に追い遣った。傍から見れば変人に違いなかったが、周囲を気にする余裕は微塵もない。脳内を占有して意識を丸飲みにしてしまうあの触れ合いが、経験が、私を幾度も羞恥の海に溺れさせた。
 気付いたのは家に辿り着いてからだった。鍵がない。いつもならジャケットの右ポケットに入っている筈なのに、あの金属特有の冷たい無機物の手触りがどこにも見当たらない。そうして、今朝の記憶を思い起こしてはっとした。あのとき、キスしたとき、吉田くんが腰に手を回したとき。眼前の行為に必死だった私だが、確かにあのときくびれを弄っていた彼の手が、ポケットの辺りを這っていたような気がする。
 まんまとやられた。もう溜め息をつく気力すらない。頭を抱えてへたり込んだ。どうやら私は再び、吉田くんに相見えなければならない。あの独裁的な辱めを自ら享受しに行かねばならない。
 脱力した身体を持ち上げる気になれず、生々しい唇の蹂躙を思い出しながら途方に暮れた。この齢にして情けなく涙が滲んだのを、彼にだけは知られたくないと思った。

2020/05/01